チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「愛の讃歌(エディット・ピアフ没後50年→ジャン・コクトー没後50年)」

2013年10月11日 18時41分33秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ

愛の讃歌 エディット・ピアフ没後50年


昨日は、
"La vie en rose(ラ・ヴィ・オン・ロズ=(邦題)ばら色の人生)"
で知られるフランスのシャンソン歌手、
Edith Piaf(エヂト・ピヤフ、1915-1963)、
いわゆるエディット・ピアフ女史が肝臓癌で
香水で有名なグラース近郊のプラスカスィエの別荘において
47歳の生涯を終えてから50年にあたる日だった。そして、
ピアフが死んだ翌朝にその訃報を聞いて
それはあまりにザンコクトいうものだ、
いや、私はジャン・コクトーというものだ、
とは言わなかったが、すでに、
虚血性心疾患のために肺水腫を引き起こして衰弱してたコクトーは、
"Ah, la Piaf est morte!"
(ア、ラ・ピヤフ・エ・モルト!)
「(拙大意)ああ、あのピアフが死んでしまったのか!」
と嘆いてベッドに横たわり、そのまま死んでしまったのである。
コクトーは芸術家としては取るに足らないレヴェルの人物だが、
俳優のジャン・マレーを愛人としてずっと囲ってたゲイである。
ピアフ女史とは馬があった。
ピアフ女史はイタリア移民の母が17歳のときに産んだ子だった。
父親は売春宿の倅で、ルイ・アルフォンス・ガションという大道芸人だった。
モチネタが「ガチョーン!」だったか「ガショーン!」だったかは、
ピアフ女史の声とカラヤンの声を聞き分けれない拙脳なる私には定かでない。
ピアフ女史は父の実家、つまりノルマンディの売春宿に預けられ、
両親の愛情を受けることなく育った。

13歳で家出してパリの街頭で歌って小銭を稼いだ。
これがピアフ女史の歌手人世の始まりだった。やがて、
男とできて自分の母親と同じくらいの年で娘を出産した。が、
その娘はわずか2歳で死んでしまう。
キャバレーで歌う職を得て、さらに、
ナイトクラブの経営者ルイ・ルプレに見いだされる。
142cmしかないピアフ女史の体躯からルプレは
"La Mome Piaf(ラ・モム・ピヤフ=ちっちゃい娘スズメちゃん)"
と呼び、そのピアフが芸名となった。
子供ほどの小柄な体ながら命をかけたように絶唱する芸風が
当初はドンビキされたものの、次第に人気を博すようになり、
アメリカで爆発的に売れたのだった。もちろん、
音楽教育はおろか一般教育も受けてない。が、
理論を学んでなくてもピアフ女史の歌唱は絶妙だった。
ジュゼッペ・ヴェルディ同様、その音楽には
ハマカーンの浜谷健司にネタを言わせるまでもなく、
「下衆の極み」であり、品のかけらもないが、
それでもなお聴く者を感動させる。
イヴ・モンタン、シャルル・アズナヴル、ジルベル・ベコ、ジョルジュ・ムスタキなども、
ピアフ女史に傾倒し、師事した。

いっぽうで、
ピアフ女史結婚離婚を繰り返し、いい仲だったボクサーを航空事故で亡くし、
自らも2度の交通事故に遭い、酒とアヘンとモルヒネに溺れる生活を送った。
そうした自堕落な生活から肝臓を患った。
ピアフ女史が死んだとき、そうした生きざまや
秘密結社のシンパだったことを忌み嫌ったパリのカトリック教会は、
ミサを執りおこなうことを拒絶した。にもかかわらず、
葬儀の日にはパリの市民はその葬儀に殺到し、
公共交通機関が止まってしまったのである。

妻子あるボクサーと睦まじくなってたピアフ女史が
手を切ることを想定して書いた(が、実際に相手は事故死してしまう)詞に、
女流シャンソン作家Marguerite Monnot(マルグリト・モノ、1903~1961)女史が
曲をつけた、
"Hymne a l'amour(イムヌ・ア・ラムル=愛に対する讃歌、(邦題=愛の讃歌)"
は涙なくしては聴けない。まず、
作曲者のモノ女史は虫垂炎をこじらせて腹膜炎をきたして58歳で死んだ。
1948年夏にピアフ女史と知り合って男女の仲になった
Marcel Cerdan、マルセル・セルドン、1916-1949)、いわゆるマルセル・セルダンは、
その9月に米国ニュー・ジャーズィ州で行われたトウニ・ゼイルとの
WBA世界ミドル級タイトルマッチに勝ってチャンピオンとなった。が、
翌年6月に米国デトロイトで行われた防衛戦でジェイク・ラモッタに負けてしまった。
試合中に左肩を負傷したために雪辱戦を望み、相手も受け入れた。同年10月、
当初は船で渡米する予定だったが、折しも、
不倫相手のピアフもNYでツアー中だった。ピアフはセルダンに早く来てほしいとねだった。
ためにセルダンは10月27日、エール・フランス機でNYに向かった。が、その機は
大西洋上で墜落してしまったのである。
ポルトガル領アソーレス諸島のサン・ミゲル島の山中につっこみ、
乗員と48人の乗客が全員死亡した。ちなみに、その便には
30歳のヴァイオリニストのGinette Neveu(ジネト・ヌヴ、1919-1949)と
その愛器ストラディヴァリも乗ってた。
セルダンを迎えにマレーネ・ディートリヒ女史とラガーディア空港で待ち構えてた
ピアフ女史のもとに届けられた知らせは、「堕つ」だった。
自らのおねだりが愛する男を死なせてしまったのである。

"Si tu meurs, que tu sois loin de moi,
(スィ・チュ・ムル、ク・チュ・スワ・ルワン・ドゥ・ムワ、
「(拙大意)仮にあなたが死んだとしても、あなたが私から遠く離れてしまっても、」
Peu m'importe si tu m'aimes,
(プ・マンポルト・スィ・チュ・メム)
「(拙大意)私にはどうってことない、あなたが私のことを愛してくれてるなら」
Car moi je mourai aussi
(キャル・ムワ・ジュ・ムレ・オスィ
「(拙大意)だって私も死ぬんだから」

しかしピアフ女史は死ななかった。
ディートリヒ女史が歌うなと制止したにもかかわらず、
ピアフ女史は1か月半前にNYで初めて歌ったこの歌を
さらに歌い続けたのである。
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