(A Lipton's Tea banner hanging on the arena wall in the film "Chariots of Fire(1981)")
ロンドン五輪も終わろうとしてる。
今から30年前に日本で封切られた映画
"Chariots of Fire(チャリオッツ・オヴ・ファイアー=炎の二輪戦車、
邦題=炎のランナー"は、
実在の人物である2人の五輪陸上短距離金メダリストが主役である。
そのひとりHarold Abrahams(ハロルド・エイブラハムズ、1899-1978)の
葬儀の場面から始まる。そして、物語は60年前から
1924年パリ五輪が回想されてく。
♪ドドドド・ドドドド・ドドドド・ドドドド♪
というバスの通奏に乗って、
♪ドーーー│<ソーーー・ーーーー・・ーーーー♪
というもったいぶった前奏が置かれる。そして、
♪ド・<ファ<ソ<ラ│>ソーーー・>ミーーー・・●♪
♪ド・>シ>ラ>ソ│<シー>ソ・<ラー>ファ・・<ソー♪
という、フリースの子守歌とモーツァルトの子守歌の違いが判らない
拙脳なる私にも聴き取れる程度の動機によって成り立ってる
主題が繰り出される。
ヴァンゲラスというギリシャ人通俗音楽作家の有名な曲である。
この音楽を背景にして、パリ五輪陸上
100m金メダリストのハロルド・エイブラハムズ役の
Ben Cross(ベン・クロス、1947-)や
400m金メダリストのEric Liddell(エリック・リデル、1902-1945)役の
Ian Charleson(イアン・チャールスン、1949-1990)らが他の
陸上ティーム・メンバーらと浜辺を走るスィーンが記憶に残る映画である。
エイブラハムズは英国におけるユダヤ人でケンブリッジ大生、
リデルはスコットランド出身の英国聖公会宣教師の両親の
赴任先の天津生まれで自身も宣教師でエディンバラ大生、
というそれぞれの立場・人生のごく一部の邂逅が描かれる。
リデルは原理派キリスト教徒ゆえに、"安息日"である日曜に
予選が行われるという100mに頑なに出場することを拒む。
400mの出場権を持つティームメイトがそんなリデルに譲るのである。
リデルはもともと400mこそを得意としてたのだった。そして、
6人がエントリした400mの大外コースをリデルは走った。
当時の世界記録で優勝する。チャールスンの演技は、
ゴウル前で手の振りがアホの坂田師匠のようになる。ちなみに、
映画では最終コーナーの外側のフェンスに
"LIPTON'S TEA"という垂れ幕がかかってる。が、
実際の当時の映像が残ってる。そこには、
観客席とトラックの間にフェンスはないので、
垂れ幕がかけられようもない。
有楽町のビックカメラに用があったとき
「有楽町ビルヂング」のビルの地下駐車場に車を駐めると、
1階の「有楽町リプトンコーナー」という店の脇を通る。
Lipton Teaはスコットランドのグラスゴー生まれのアイルランド人
Thomas Lipton(トマス・リプトン、1848-1931)が創業した
セイロン紅茶ブランドである。リプトンの両親は
飢饉にみまわれたアイルランドからスコットランドに移り住んだ。
そこでグロウサリを営んでた。リプトンは14歳のとき、
たったひとりでアメリカに渡った。そして、
農場の季節労働者として働き、NYのグロウサリの店員となった。
22歳のときにグラスゴーに戻り、アメリカで学んだ
「広告・宣伝」の重要性を採り入れて父の店を盛りたてて、
チェイン店化に成功した。リプトンは40歳の頃、
紅茶に目を付けた。そして、
packet tea(袋封紅茶葉)という売りかたを考案し、
セイロン(現在のスリランカ)に渡って新たな買い付け地を開拓した。
リプトンはロンドンで死亡したが生涯独身で子もなかったため、
その莫大な遺産は故郷グラスゴーに寄附された。
自身はグラスゴーの両親の墓に葬られた。
店員から興した身とはいえ最終的には、
経済的に恵まれない子供を援助した慈善活動の功績で
ナイトからバロネットに叙せられた人物にもかかわらず、
そこは一般庶民の墓地である。
映画の垂れ幕がどのような意図だったのかは、
ダチョウとガチョウと河本準一の違いが明瞭に説明できない
拙脳なる私には知るよしもないが、
トマス・リプトンが「宣伝に長けた」商人だったことは確かである。
競技生活を終えたのち、
エイブラハムズはスポーツキャスターとしての人生を送り、
映画で描かれてるように1978年まで生きた。いっぽう、
リデルは親と同じく中国へ英国聖公会宣教師として
天津に転進した。そして、日中戦争のなか、
米国の在米日系人強制収容の報復措置として
日本軍は在中欧米人を同様に扱うことにした。
その一環としてリデルは山東省のウィーシー収容所に収容された。
収容所とはいえ、監視するのが日本軍なので、
信仰の自由があり礼拝も差し支えなかったという。実際、戦後の
1952年から1990年までの38年間、日本での宣教活動を送った
Stephen Metcalf(スティーヴン・メトカーフ、1927-)は、
収容所内でリデルに"主の教え"を施され、それが
"憐れむべき"日本での伝道を決意させた、という。また、
執筆や子供には各国流の教育も許されてたという。ただし、
日本軍の戦局悪化に伴って、
食糧や医療品は不足してったらしい。そんな中、
1945年2月、収容3年めの43歳のリデルは
脳疾患(脳腫瘍だったといわれる)で"主に召され"た。ちなみに、
実際のリデル同様にエディンバラ大に学んだイケメンのイアン・チャールスンはゲイで、
1986年にHIV感染と診断された。
1989年11月、シェイクスピアにゆかりの英国国立劇場のひとつ
オリヴィエ劇場で「ハムレット」のタイトルロウルを演じた2か月後の翌年1月、
エイズによる日和見感染症悪化のために"主に召され"た。
チャールスンは自分がエイズで死んだと発表されることを望んだため、
日本でもその旨が報道された。ちなみに、
「炎のランナー」のエグゼキュティヴ・プロデューサーは、"死の商人"の甥、
Dodi Al-Fayed(ドディ・アル=ファイド、1955-1997)である。
ロンドン五輪も終わろうとしてる。
今から30年前に日本で封切られた映画
"Chariots of Fire(チャリオッツ・オヴ・ファイアー=炎の二輪戦車、
邦題=炎のランナー"は、
実在の人物である2人の五輪陸上短距離金メダリストが主役である。
そのひとりHarold Abrahams(ハロルド・エイブラハムズ、1899-1978)の
葬儀の場面から始まる。そして、物語は60年前から
1924年パリ五輪が回想されてく。
♪ドドドド・ドドドド・ドドドド・ドドドド♪
というバスの通奏に乗って、
♪ドーーー│<ソーーー・ーーーー・・ーーーー♪
というもったいぶった前奏が置かれる。そして、
♪ド・<ファ<ソ<ラ│>ソーーー・>ミーーー・・●♪
♪ド・>シ>ラ>ソ│<シー>ソ・<ラー>ファ・・<ソー♪
という、フリースの子守歌とモーツァルトの子守歌の違いが判らない
拙脳なる私にも聴き取れる程度の動機によって成り立ってる
主題が繰り出される。
ヴァンゲラスというギリシャ人通俗音楽作家の有名な曲である。
この音楽を背景にして、パリ五輪陸上
100m金メダリストのハロルド・エイブラハムズ役の
Ben Cross(ベン・クロス、1947-)や
400m金メダリストのEric Liddell(エリック・リデル、1902-1945)役の
Ian Charleson(イアン・チャールスン、1949-1990)らが他の
陸上ティーム・メンバーらと浜辺を走るスィーンが記憶に残る映画である。
エイブラハムズは英国におけるユダヤ人でケンブリッジ大生、
リデルはスコットランド出身の英国聖公会宣教師の両親の
赴任先の天津生まれで自身も宣教師でエディンバラ大生、
というそれぞれの立場・人生のごく一部の邂逅が描かれる。
リデルは原理派キリスト教徒ゆえに、"安息日"である日曜に
予選が行われるという100mに頑なに出場することを拒む。
400mの出場権を持つティームメイトがそんなリデルに譲るのである。
リデルはもともと400mこそを得意としてたのだった。そして、
6人がエントリした400mの大外コースをリデルは走った。
当時の世界記録で優勝する。チャールスンの演技は、
ゴウル前で手の振りがアホの坂田師匠のようになる。ちなみに、
映画では最終コーナーの外側のフェンスに
"LIPTON'S TEA"という垂れ幕がかかってる。が、
実際の当時の映像が残ってる。そこには、
観客席とトラックの間にフェンスはないので、
垂れ幕がかけられようもない。
有楽町のビックカメラに用があったとき
「有楽町ビルヂング」のビルの地下駐車場に車を駐めると、
1階の「有楽町リプトンコーナー」という店の脇を通る。
Lipton Teaはスコットランドのグラスゴー生まれのアイルランド人
Thomas Lipton(トマス・リプトン、1848-1931)が創業した
セイロン紅茶ブランドである。リプトンの両親は
飢饉にみまわれたアイルランドからスコットランドに移り住んだ。
そこでグロウサリを営んでた。リプトンは14歳のとき、
たったひとりでアメリカに渡った。そして、
農場の季節労働者として働き、NYのグロウサリの店員となった。
22歳のときにグラスゴーに戻り、アメリカで学んだ
「広告・宣伝」の重要性を採り入れて父の店を盛りたてて、
チェイン店化に成功した。リプトンは40歳の頃、
紅茶に目を付けた。そして、
packet tea(袋封紅茶葉)という売りかたを考案し、
セイロン(現在のスリランカ)に渡って新たな買い付け地を開拓した。
リプトンはロンドンで死亡したが生涯独身で子もなかったため、
その莫大な遺産は故郷グラスゴーに寄附された。
自身はグラスゴーの両親の墓に葬られた。
店員から興した身とはいえ最終的には、
経済的に恵まれない子供を援助した慈善活動の功績で
ナイトからバロネットに叙せられた人物にもかかわらず、
そこは一般庶民の墓地である。
映画の垂れ幕がどのような意図だったのかは、
ダチョウとガチョウと河本準一の違いが明瞭に説明できない
拙脳なる私には知るよしもないが、
トマス・リプトンが「宣伝に長けた」商人だったことは確かである。
競技生活を終えたのち、
エイブラハムズはスポーツキャスターとしての人生を送り、
映画で描かれてるように1978年まで生きた。いっぽう、
リデルは親と同じく中国へ英国聖公会宣教師として
天津に転進した。そして、日中戦争のなか、
米国の在米日系人強制収容の報復措置として
日本軍は在中欧米人を同様に扱うことにした。
その一環としてリデルは山東省のウィーシー収容所に収容された。
収容所とはいえ、監視するのが日本軍なので、
信仰の自由があり礼拝も差し支えなかったという。実際、戦後の
1952年から1990年までの38年間、日本での宣教活動を送った
Stephen Metcalf(スティーヴン・メトカーフ、1927-)は、
収容所内でリデルに"主の教え"を施され、それが
"憐れむべき"日本での伝道を決意させた、という。また、
執筆や子供には各国流の教育も許されてたという。ただし、
日本軍の戦局悪化に伴って、
食糧や医療品は不足してったらしい。そんな中、
1945年2月、収容3年めの43歳のリデルは
脳疾患(脳腫瘍だったといわれる)で"主に召され"た。ちなみに、
実際のリデル同様にエディンバラ大に学んだイケメンのイアン・チャールスンはゲイで、
1986年にHIV感染と診断された。
1989年11月、シェイクスピアにゆかりの英国国立劇場のひとつ
オリヴィエ劇場で「ハムレット」のタイトルロウルを演じた2か月後の翌年1月、
エイズによる日和見感染症悪化のために"主に召され"た。
チャールスンは自分がエイズで死んだと発表されることを望んだため、
日本でもその旨が報道された。ちなみに、
「炎のランナー」のエグゼキュティヴ・プロデューサーは、"死の商人"の甥、
Dodi Al-Fayed(ドディ・アル=ファイド、1955-1997)である。
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