エドゥアール・マネ ベルト・モリゾ
かつて、故三波春夫がオリンピックや万博になるとそのテーマソングを歌ったようには、
一昨年の「愛・地球(超低級のダジャレでも商品になる好例)博」で、
♪ブゥ~ケェ~ば、とぶよぉ~な、すみれの花にぃ~~~♪
と故村田秀雄の歌に乗ってキッコロが踊ることもなかったようである。
「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」と名づけられた絵が、
今回の「オルセー美術館展」の「目玉」なようである。
制作されたのは1872年らしい。マネ40歳の年の作である。モデルは、
のちにマネの弟と結婚することになる女流画家のベルト・モリゾ。当時31歳。
マネは他にもモリゾをモデルにした作品を残してるが、それらはいずれも
「写実的」である。つまり、モリゾの実物は、
川崎麻世の女房カイヤのような鋭い眼光の、エラがはった、
ギリシアに近いイタリア人やメキシコ人によくいる、
とびっきり超ラテンなタイプの顔なのだが、この
「ベルト・モリゾ・オ・ブケ・ドゥ・ヴィヨレット」は、
きわめて「美化」されて描かれてるのである。
法務省の高級官吏でブルジョワである父の「不肖の倅」だったマネには、
すでに「身分違い」の内縁の妻と息子がいた。だから、やはり
ブルジョワのお嬢さんであるモリゾには、おいそれとは手を出せなかった、
かもしれない。好みのタイプでなかっただけかもしれない。が、
少なくともモリゾのほうは、絵で尊敬するだけの存在ではなかったようだ。いっぽう、
兄マネはモリゾが弟マネと結婚すると、二度とモデルにして絵を描かなかった。
これも意味ありげである。逆に、モリゾにとって、弟ウジェーヌ・マネは、
兄エドゥワール・マネと同じY遺伝子を持つ男、つまりは
「代替物」だったように思われる。のちに(1883年)、
マネは梅毒がもとで51歳で死ぬことになる
(同年にモリゾの「ライヴァル」だったエバ・ゴンザレスも没する)のだが、
その9年後に夫ウジェーヌが他界し、そのまた3年後にモリゾも54歳で亡くなる。
一人娘のジュリーが罹ったインフルエンザが移った、のが死因とされてるが、
その前からかなり「体力が衰えてた」そうである。さて、
四級の画家にでさえ、作品にはアカデミックな絵画に「お決まり」の
「寓意」がちりばめられてるのである。いわんや、
マネは一級の「サロン画家」である。いっぽう、
1872年当時流行の黒服に身をかためたモリゾの、
胸元の白いブラウスによって「V字」に切り開かれた胸肌、そして、
やや高調したような頬には、「女」が匂いたってるようでさえある。
「avoir les doigts de pieds
en 【bouquet de violettes】
/アヴワール・レ・ドゥワ・ドゥ・ピエ・アン・ブケ・ドゥ・ヴィヨレット)」
(直訳:足の指をすみれのブーケの中につっこむ)という仏語の成句は、
「性的絶頂をむかえる」という意味を表すらしい。
「足の指=♂」「すみれのブーケ=♀」なのだから。
♪すぅみれぇのはぁ~~~なぁ~~~~~、
咲ぁ~くぅ~~ころぉ~~~~~~~~~、
はぁじめぇて、きぃ~~~みぃ~~~をぉ~~~、
知ぃ~~りぬぅ~~~~~~~~~♪
と、宝塚でも壇れいによって歌われてたではないか。たしか、タイトルは
「ブケの一文」。といっても、
「緑の袴を着けたベルト・モリゾ」なる絵はマネは描いてないが。ともあれ、
「すみれのブーケをつけたベルト・モリゾ」というこの「手作り写真」が切り取った
「モリゾの、恥ずかしげながらもつい嬉しさがこみあげてきてしまう顔の一瞬」
は、「男と女の関係成立」の揚げ句以外には説明がつかないように思われる。
モリゾが姉エドマとその娘を同年1872年に描いた「ル・ベルソ(ゆりかご)」には、
その「おだやかな優しさあふれる愛情」という表面の絵の下に、もう一枚、
黒と白の対比というマネの芸風だけでなく、
マネへの強い感情の表出を見てとることができる。
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