ポリニャック公爵夫人
昨日は大江戸探検隊のメンバーたちと、
東京タワーに昇ってきた。桜田通り側の地下駐入口の路地が
工事で狭くなってたので、知り合いがいる
東京タワー・スタジオの駐車場に置かせてもらった。
道を迂回したということでもなかったが、
"うかい"で豆腐料理を食ってきた。ともあれ、
その大江戸探検隊のメンバーの子と、
先月25日には丸の内の三菱一号館美術館に、
「ヴィジェ・ルブラン展」を観にいってきた。といっても、
この展覧会におけるヴィジェ=ル・ブランの作品は、
全体の3分の1程度の点数しかない。
ヴィジェ=ル・ブランは、
Marie Elisabeth-Louise Vigee Le Brun
(マリ・エリザベト・ルイズ・ヴィジェ(のちに画商ル・ブランと結婚)、1755-1842)
という、"マリ・アントゥワネトの画家"として知られる。
自身もたいそう美人な画家である。
1755年の生まれであるから、王妃と同い年である。
この「(麦藁帽の)ポリニャク公爵夫人像」では、
薄い黄色の帽子に補色である薄い水色のリボンが巻かれ、
その間にマーガレットや赤いスミレのような花と羽根が挿し込まれてる。
巻かれた髪は栗色で、頬紅が広めに塗られてる。
薄くて柔らかそうなほとんど白いクリーム色の生地の、
ギャザーのあるゆったりめな、胸が大きくあいたドレスには、
二重のギャザー襟飾りが縫いつけられてる。そして、
帽子のリボンと同色のリボンで襟飾りが胸の真ん中で結ばれ、
その下には帽子と同系色で柄入りのベルトが巻かれてる。それから、
やはり薄い布地の黒いショールが夫人の腕から背を覆ってる。
美しく愛くるしい美貌を、品のある装飾品で飾ってるような
いでたちである。
ポリニャク公爵夫人(Duchesse de Polignac、
Yolande Martine Gabrielle de Polastron
=ヨランド・マルティヌ・ギャブリエル・ドゥ・ポラストロン、1749-1793)とは、
王妃マリ・アントゥワネトのお気に入りだった女性である。
ルイ16世の下の妹マダム・エリザベトと、このギャブリエルだけが
いわゆるプチ・トリアノンに宿泊することを許された。
ポラストロン伯爵家という由緒ある家柄に生まれたが、
家は借財によって没落してた。さらに、幼少時に母親が死んだため、
修道院に預けられて養育された。そのような不遇を託ったためか、
したたかさを身につけた。政治的に没落した名門の
ポリニャク伯爵家に嫁ぐと、まず、ルイ16世の弟にして、のちに
シャルル10世としてフランス王になるアルトゥワ伯爵に取り入った。なぜなら、
アルトゥワ伯は兄妃マリ・アントゥワネトと仲がよかったからである。
ポリニャク伯爵(のちに公爵)夫人の目的は王妃だった。果たして、
夫人はその美貌と知性と教養と陽気で王妃の寵愛を受けるようになる。
このポリニャク公爵夫人像を描いたとされる1782年には、
ルイ16世の妹マダム・エリザベトの肖像も麦藁帽を被ってるし、
同年の自画像も麦藁帽を被ってる。そして、翌1783年の、
王妃を描いた肖像も麦藁帽である。この時期の
"モード"だったのだろう。王妃の信頼を得て、ともに浪費をし、
多額の給付金を受けるようになったポリニャク公爵夫人だが、
革命が起きるといちはやく亡命する。
ミラボ伯爵が皮肉ったとされる言葉に次のようなものがある。
"Mille ecus a la famille d'Assas pour avoir sauve l'etat;
un million a la famille Polignac pour l'avoir perdu!"
(ミル・エキュ・ア・ラ・ファミユ・ダサス・プル・アヴワル・ソヴェ・レタ、
アン・ミリヨン・ア・ラ・ファミユ・ポリニャク・プル・ラヴワル・ペルデュ!)
「(拙大意)国家を救った報いとしてダサス家には
年金がたった1000エキュが支払われるだけなのに、
浪費したポリニャク家には100万エキュもの年金が支払われたようなものだ」
エキュとは当時の銀貨である。この"通貨単位"は、やはり当時通用してた
libre(リブル)にも置き換えられてる。リブルはのちのイタリアのリラになった通貨単位で、
英国ではポンドである。だから、リブルはフランス・ポンドとも言われた。
1エキュ=3リブル乃至6リブル、というレイトだったらしい。ちなみに、
ダサス家への年金1000エキュとは、
対英国&普国のクロスター・カンペンの戦い(1760年)で戦死し、フランスを勝利に導いた
ニコラ・ルイ・ダサス大尉に対する国家恩給である。これは、
1960年に同家の男系の血筋が絶えるまで毎年、
フランスの国家形態が王制、共和制、帝政など、どんなものに変わろうとも、
欠かさず支払われてきた、というほどの栄誉ある恩給だった。
いっぽう、
ポリニャク家は、このギャブリエルの
三男の子孫であるピエル・ドゥ・ポリニャクの夫人は、
モナコ公国のモナコ大公ルイ2世の娘シャルロト。その子が
先代のモナコ大公レニエ3世である。その妃は米女優
グレイス・ケリーである。
次男は王政復古で王位に就いた
アルトゥワ伯爵(シャルル10世)のもとで首相になった。
その末っ子エドモンは作曲家になった。そして、
その夫人ウィナレッタはアメリカ人である。
ミシンのシンガー社創業者の娘で、フランス音楽に金銭的寄与をした。
ラヴェルは「亡き王女のためのパヴァヌ」を、
フォレは「ペレアスとメリザンド」を、同夫人に献呈してる。ときに、
Singerといえば、
明日4月18日月曜21時からNHKBSプレミアム・チャンネルの
「極上美の饗宴」で、ジョン・スィンガー・サージェントの
「マダムX」(NY・メトロポリタン美術館蔵)を取りあげるらしい。
サージェントはこの絵でスキャンダルに巻き込まれ、パリを離れる。
革命によってヴィジェ=ル・ブランも命の危険にさらされ、
パリを離れた。イタリア・オーストリア・・ロスィアと転々とする。
ナポレオンが終身執政官となった1802年にヴィジェ=ル・ブランは
やっと帰国する。が、やがてナポレオンとの関係が芳しくなくなり、
スイスやフランドルや英国に渡る。王政復古でまた帰国し、
1842年に86歳の生涯を終えた。
いっぽう、
マリ・アントゥワネトは1793年の10月16日にギロチンで斬首された。
1789年7月、バスチユ襲撃から数日後すぐにスイスのバーゼルに逃れ、
その後にヴィーンに亡命したギャブリエル、ポリニャク公爵夫人は、やがて
癌に冒される。1792年末にミラーノからヴィーンにやってきた
ヴィジェ=ル・ブランはギャブリエルを訪れた。その死期が迫った
ギャブリエルの最後の肖像を描く。そして、
マリ・アントゥワネトの処刑から3箇月たらずの12月9日、
ギャブリエル、ポリニャク公爵夫人はヴィーンで44歳の生涯を閉じた。
ヴィジェ=ル・ブランはマリ・アントゥワネトと同じ年に生まれ、
ポリニャク公爵夫人はマリ・アントゥワネトと同じ年に死んだ。
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