ヨン様が関空にやってきた。tvでその映像が流されてたが、その
ヘアスタイル・ファッション・しぐさなどの風体は、
10年あまり前のマイケル・ジャクスンそのものである。ともあれ、
関空の船着場からクリスタルウイングに乗って神戸に行った、という話は聞かない。
いっぽう、船場の吉兆が閉店するという会見をしてた。ときに、そこの女将、
「ささやき女将」として数箇月前に一躍名をはせた人物である。あのとき、
「偽装はユキすぎでした……名前が湯木だけに……」
などと質問に答えておけば洒落で済んでた、ということもないかもしれないが、
倅のほうに機転がきく能がまったくなかったのが致命的である。
「頭の中が真っ白になってた、言え」
とおかんにささやかれたら、それが記者らに聞こえてるのは明らかなのだから、
「頭の中はともかく、私の頭髪は半分白くなってたものでして」
くらい言えば、爆笑を得るか、または、ただ顰蹙をかうだけで
経営状態まで「手つかず」で済んだのである。それらはともかくも、現在の
「吉兆グループ体制」は創業者湯木貞一が「5」人の子に
「吉兆」の暖簾を分けたことによる、のだそうである。ただし、創業者が偉くても
分けたのが「5」の倍数だとバカになる、とか、
オバハンは「ヨン」様にバカみたいになる、と世界のナベアツも言ってない。
「悲愴交響曲」の第2楽章は、ソナータを主楽章に持つ交響曲の
「おきまり」のひとつとして「舞踊楽章」が充てられてる。
古典なら第3楽章だったのだが、ここでは第2楽章である。
チャイコフスキーは「悲愴交響曲」を「音楽」の集大成とすべく構成した。
そこには過去の秀作が「引かれ」てる。
【主題】は、大バッハの「マタイ受難曲」をベートーヴェンが自ら
「grand sonate pathetique
(グラン・ソナト・パテティク)」とフランス語で命名した
ピアノ・ソナタ第8番のソナタ楽章導入部および主部の主要主題を引き、
ビゼー「カルメン」の「花の歌」を対抗主題に引用した。
【冒頭の楽器使い】は、モーツァルトの未完に終わった遺作「レクィエム」の
「弦の伴奏にのってファゴットが主題を吹き始める」に倣った。
【冒頭の和声】は、「ベト9」の主調ニ短調に対する属調イ短調の空虚「5」度を
主調ロ短調の下属調ホ短調の空虚「5」度に置き換えた。
【タイトル】は、上記の「ベトpfソナタ」の「パテティク」を、その
「5」楽章の交響曲をフランス語で表記した
「(la )symphonie pastorale
((ラ・)サンフォニ・パストラル)」を引いたのは
ベルリオーズの「symphonie fantastique
(サンフォニ・ファンタスティク)」であるが、その
「ファンタスティク」にまた「パテティク」を置き換えたものである。
【舞踊楽章】は、そのベルリオーズの「幻想交響曲」の「第2楽章」の
[valse」を引いたものである。ちなみに、
「悲愴交響曲」第3楽章の「マルシュ」は、
「幻想交響曲」の「終楽章の前の楽章」の「march」を採り入れ、
「タランテッラ混じり」のそれが「すでに毒グモに噛まれて」毒がまわりつつな
「断頭台への道行き」であることを示した。そして、ベルリオーズがちりばめた
【イデー・フィクス】を、チャイコフスキーは「悲愴交響曲」に採用した。
♪ド>シ>ラ>ソ♪という「母アレクサンドラ」の「固定観念」を
第1楽章、第2楽章、そして、第3楽章のそれぞれ結尾部に置き、
終楽章の「第2主題」ではあるがしかし「本当の主要主題」である
「母と踊るラストダンス」の「ワルツ」だった。という「予告」をしたのである。
ベルリオーズが強烈に引かれてたハリエットの主題を第5楽章では
グロテスクなものに変えたのとは少しく趣は異なるが、
「悲愴交響曲」の最後は♪ド>シ>ラ>ソ♪が♪ラ>ソ>ファ>ミ♪と短化され、
母および自分のむごたらしい死にざまを表す「すすり泣き」に変えた。そして、
消え入るように、心臓の鼓動が止まるように終わらせたのである。ちなみに、
ベルリオーズは父が医者だったが、チャイコフスキーは祖父が医者だった。
チャイコフスキーにとって、もっとも大切だった「舞踊曲」は、
「ポロネーズ」でも「マズルカ」でも、ましてや、
「五パック」でも「ゆうパック」でもない。
「ワルツ」である。だが、そのワルツ、
「ズン・チャッ・チャッ」にしろ「ズ、チャ・ーチ・ャー」にしろ
「3拍子」である。走攻守である。しかし、
チャイコフスキーはその「集大成」の交響曲の舞踊楽章を
ワルツにはしたものの、拍子は常識的な「3拍子」ではなく、
「5」拍子という「変態」な拍子にしたのである。
「悲愴交響曲」の完成(オーケストレイションはまだ)と同時に短期間で作曲した
「18の小品(pf)」(op72)の第16曲
「ヴァルス・ア・サンク・タン(5拍子のワルツ)」の5/8拍子は
「悲愴交響曲」の第2楽章が「ワルツ」であることの「念押し」である。
「5拍子は珍しくないんですよ。ロシアの音楽にはよくあることです」
などと、知ったかぶりするむきがいる。なら、その手の御仁は
例をあげることができるだろうか? よくあるというなら10個くらい、
それが無理なら5個、いや、3個でもいい。おそらく、
ひとつもあげれないはずである。が、中には
個数をクリアできるむきもいるかもしれない。ただし、
この問題の肝腎なことを忘れるに違いない。
悲愴交響曲「以前に」あった5拍子であることを。
「2拍子(4拍子)」と「3拍子」にあてはめれない民謡はともかく、
「5拍子」などという「音楽作品」など「なかった」のである。では、
「このワルツはなぜ5拍子なのだ」
と問われるだろう。そのかたがチャイコフスキーの本質へ向うのとは
まったく違ったヴェクトルをお持ちのかたならこう答えよう。
「チャイコフスキーが人生における楽しいロマンティックな思い出を表すのに、
ブルックナーの第4番の『タタ・タタタ』という『2+3』を真似したんです」
と。だが、真摯にチャイコフスキーやその音楽の本質を知りたいと
切望してるかたがたには次のことを示唆しよう。
チャイコフスキーは熱心なキリスト者ではなかったけれど、それでも
当時のキリスト教(ロシア正教)の呪縛から逃れれるほど、
前衛的でも共産主義者でもなった。そして、彼は
母親を聖母マリアのような存在として認識してた。だから、
最愛の母を裏切るような「同性愛者」である自分が
「異端者」であるという自責の念にとらわれてた。
ポズナンスキーとかいうチャイコフスキー研究の権威をふりかざす者は、
「同性愛は当時はもうそれほど忌避されるものではなかった。
チャイコフスキーの趣味も公然の秘密だった」
などと知ったかぶる。「公然の秘密」とは、誰もが知ってても
公には口にできないタブーなのである。それが「正式」に
世間に公表されてしまうこととはまったく違う。学者などというものは、
そんなこともわからないのである。
マリアの子イエスはハリストツケ否ハリツケになったとき、
両掌、両足裏を十字架に釘付けにされ、さらに、
脇腹を槍で刺された。その「5」つの「傷痕」を
「聖痕=stigmata(スティグマータ/スティグマの複数形)」
と言うらしい。 「精魂」こめて作曲した「悲愴交響曲」を
チャイコフスキーは甥のボブに献呈した。
「ボブの母は(チャイコフスキーの妹の)アレクサンドラ」であり、
「チャイコフスキーの母はアレクサンドラ」である。
チャイコフスキーの母はアレクサンドラは、
5度、出産した(最後は双子だったので、産んだ子は6人)。
ボブもチャイコフスキーと同じく「同性愛者」だった。ちなみに、
スティグマはそれぞれ、「5」本の指がある左右の手のひら、
「5」本の指がある左右の足の裏、そして、脇腹の「5箇所」である。
ここで「脇腹」であるが、その上には肋骨がある。
肋骨というのは左右それぞれ12対、計24本あるのだが、
上から7対(真肋)は胸骨(胸の真ん中の縦の骨)とくっついてる。いっぽう、
下の「5」対(仮肋3対+浮遊肋2対)は前面を覆ってないのである。ともあれ、
ロシア正教では、親指と小指の「2本」は曲げて、
人差し指・中指・薬指の「3本」を伸ばしてそろえて
十字を切るのであるが、それを「至聖三者」というのだそうである。
「至聖三者」とはカトリックでいう「三位一体」である。
その「根本的な概念」がキリスト教の「正統」なのである。
「ワルツ」は「3拍子」が「正統な」拍子である。が、
「異端」なチャイコフスキーに「3拍子」はふさわしいだろうか。
「5」つの「傷」を刻まれたイエスは、ユダヤ教にとっては
「大異端」だった。チャイコフスキーはその
「5」を頂戴したのである。つまり、
「悲愴交響曲」第2楽章の「ワルツ」の「5拍子」の意味は、
チャイコフスキーの「異端」を表してるのである。ただし、
「世界のナベアツ」よりもなおモロに「犬っぽくなる」わけではない。が、
この交響曲を捧げた甥ヴラヂーミルをチャイコフスキーが呼んでた愛称
「ボブ」は、英名のロバートのニックネムのボブなわけではない。
「猟犬、忠犬、愛犬」を意味するロシア語「ボービク」のさらなる指小形である。
チャイコフスキーがどんな「料簡」で「5拍子のワルツ」を生み出したのか、
と問われれば、「五聖痕」の意味であると私は答える。が、いずれにせよ、
「悲愴交響曲第2楽章」の拍子は「5」の倍数であるから、
少々思案(シヤン)してから「犬っぽくなる」とも答えることにしてる。
ヘアスタイル・ファッション・しぐさなどの風体は、
10年あまり前のマイケル・ジャクスンそのものである。ともあれ、
関空の船着場からクリスタルウイングに乗って神戸に行った、という話は聞かない。
いっぽう、船場の吉兆が閉店するという会見をしてた。ときに、そこの女将、
「ささやき女将」として数箇月前に一躍名をはせた人物である。あのとき、
「偽装はユキすぎでした……名前が湯木だけに……」
などと質問に答えておけば洒落で済んでた、ということもないかもしれないが、
倅のほうに機転がきく能がまったくなかったのが致命的である。
「頭の中が真っ白になってた、言え」
とおかんにささやかれたら、それが記者らに聞こえてるのは明らかなのだから、
「頭の中はともかく、私の頭髪は半分白くなってたものでして」
くらい言えば、爆笑を得るか、または、ただ顰蹙をかうだけで
経営状態まで「手つかず」で済んだのである。それらはともかくも、現在の
「吉兆グループ体制」は創業者湯木貞一が「5」人の子に
「吉兆」の暖簾を分けたことによる、のだそうである。ただし、創業者が偉くても
分けたのが「5」の倍数だとバカになる、とか、
オバハンは「ヨン」様にバカみたいになる、と世界のナベアツも言ってない。
「悲愴交響曲」の第2楽章は、ソナータを主楽章に持つ交響曲の
「おきまり」のひとつとして「舞踊楽章」が充てられてる。
古典なら第3楽章だったのだが、ここでは第2楽章である。
チャイコフスキーは「悲愴交響曲」を「音楽」の集大成とすべく構成した。
そこには過去の秀作が「引かれ」てる。
【主題】は、大バッハの「マタイ受難曲」をベートーヴェンが自ら
「grand sonate pathetique
(グラン・ソナト・パテティク)」とフランス語で命名した
ピアノ・ソナタ第8番のソナタ楽章導入部および主部の主要主題を引き、
ビゼー「カルメン」の「花の歌」を対抗主題に引用した。
【冒頭の楽器使い】は、モーツァルトの未完に終わった遺作「レクィエム」の
「弦の伴奏にのってファゴットが主題を吹き始める」に倣った。
【冒頭の和声】は、「ベト9」の主調ニ短調に対する属調イ短調の空虚「5」度を
主調ロ短調の下属調ホ短調の空虚「5」度に置き換えた。
【タイトル】は、上記の「ベトpfソナタ」の「パテティク」を、その
「5」楽章の交響曲をフランス語で表記した
「(la )symphonie pastorale
((ラ・)サンフォニ・パストラル)」を引いたのは
ベルリオーズの「symphonie fantastique
(サンフォニ・ファンタスティク)」であるが、その
「ファンタスティク」にまた「パテティク」を置き換えたものである。
【舞踊楽章】は、そのベルリオーズの「幻想交響曲」の「第2楽章」の
[valse」を引いたものである。ちなみに、
「悲愴交響曲」第3楽章の「マルシュ」は、
「幻想交響曲」の「終楽章の前の楽章」の「march」を採り入れ、
「タランテッラ混じり」のそれが「すでに毒グモに噛まれて」毒がまわりつつな
「断頭台への道行き」であることを示した。そして、ベルリオーズがちりばめた
【イデー・フィクス】を、チャイコフスキーは「悲愴交響曲」に採用した。
♪ド>シ>ラ>ソ♪という「母アレクサンドラ」の「固定観念」を
第1楽章、第2楽章、そして、第3楽章のそれぞれ結尾部に置き、
終楽章の「第2主題」ではあるがしかし「本当の主要主題」である
「母と踊るラストダンス」の「ワルツ」だった。という「予告」をしたのである。
ベルリオーズが強烈に引かれてたハリエットの主題を第5楽章では
グロテスクなものに変えたのとは少しく趣は異なるが、
「悲愴交響曲」の最後は♪ド>シ>ラ>ソ♪が♪ラ>ソ>ファ>ミ♪と短化され、
母および自分のむごたらしい死にざまを表す「すすり泣き」に変えた。そして、
消え入るように、心臓の鼓動が止まるように終わらせたのである。ちなみに、
ベルリオーズは父が医者だったが、チャイコフスキーは祖父が医者だった。
チャイコフスキーにとって、もっとも大切だった「舞踊曲」は、
「ポロネーズ」でも「マズルカ」でも、ましてや、
「五パック」でも「ゆうパック」でもない。
「ワルツ」である。だが、そのワルツ、
「ズン・チャッ・チャッ」にしろ「ズ、チャ・ーチ・ャー」にしろ
「3拍子」である。走攻守である。しかし、
チャイコフスキーはその「集大成」の交響曲の舞踊楽章を
ワルツにはしたものの、拍子は常識的な「3拍子」ではなく、
「5」拍子という「変態」な拍子にしたのである。
「悲愴交響曲」の完成(オーケストレイションはまだ)と同時に短期間で作曲した
「18の小品(pf)」(op72)の第16曲
「ヴァルス・ア・サンク・タン(5拍子のワルツ)」の5/8拍子は
「悲愴交響曲」の第2楽章が「ワルツ」であることの「念押し」である。
「5拍子は珍しくないんですよ。ロシアの音楽にはよくあることです」
などと、知ったかぶりするむきがいる。なら、その手の御仁は
例をあげることができるだろうか? よくあるというなら10個くらい、
それが無理なら5個、いや、3個でもいい。おそらく、
ひとつもあげれないはずである。が、中には
個数をクリアできるむきもいるかもしれない。ただし、
この問題の肝腎なことを忘れるに違いない。
悲愴交響曲「以前に」あった5拍子であることを。
「2拍子(4拍子)」と「3拍子」にあてはめれない民謡はともかく、
「5拍子」などという「音楽作品」など「なかった」のである。では、
「このワルツはなぜ5拍子なのだ」
と問われるだろう。そのかたがチャイコフスキーの本質へ向うのとは
まったく違ったヴェクトルをお持ちのかたならこう答えよう。
「チャイコフスキーが人生における楽しいロマンティックな思い出を表すのに、
ブルックナーの第4番の『タタ・タタタ』という『2+3』を真似したんです」
と。だが、真摯にチャイコフスキーやその音楽の本質を知りたいと
切望してるかたがたには次のことを示唆しよう。
チャイコフスキーは熱心なキリスト者ではなかったけれど、それでも
当時のキリスト教(ロシア正教)の呪縛から逃れれるほど、
前衛的でも共産主義者でもなった。そして、彼は
母親を聖母マリアのような存在として認識してた。だから、
最愛の母を裏切るような「同性愛者」である自分が
「異端者」であるという自責の念にとらわれてた。
ポズナンスキーとかいうチャイコフスキー研究の権威をふりかざす者は、
「同性愛は当時はもうそれほど忌避されるものではなかった。
チャイコフスキーの趣味も公然の秘密だった」
などと知ったかぶる。「公然の秘密」とは、誰もが知ってても
公には口にできないタブーなのである。それが「正式」に
世間に公表されてしまうこととはまったく違う。学者などというものは、
そんなこともわからないのである。
マリアの子イエスはハリストツケ否ハリツケになったとき、
両掌、両足裏を十字架に釘付けにされ、さらに、
脇腹を槍で刺された。その「5」つの「傷痕」を
「聖痕=stigmata(スティグマータ/スティグマの複数形)」
と言うらしい。 「精魂」こめて作曲した「悲愴交響曲」を
チャイコフスキーは甥のボブに献呈した。
「ボブの母は(チャイコフスキーの妹の)アレクサンドラ」であり、
「チャイコフスキーの母はアレクサンドラ」である。
チャイコフスキーの母はアレクサンドラは、
5度、出産した(最後は双子だったので、産んだ子は6人)。
ボブもチャイコフスキーと同じく「同性愛者」だった。ちなみに、
スティグマはそれぞれ、「5」本の指がある左右の手のひら、
「5」本の指がある左右の足の裏、そして、脇腹の「5箇所」である。
ここで「脇腹」であるが、その上には肋骨がある。
肋骨というのは左右それぞれ12対、計24本あるのだが、
上から7対(真肋)は胸骨(胸の真ん中の縦の骨)とくっついてる。いっぽう、
下の「5」対(仮肋3対+浮遊肋2対)は前面を覆ってないのである。ともあれ、
ロシア正教では、親指と小指の「2本」は曲げて、
人差し指・中指・薬指の「3本」を伸ばしてそろえて
十字を切るのであるが、それを「至聖三者」というのだそうである。
「至聖三者」とはカトリックでいう「三位一体」である。
その「根本的な概念」がキリスト教の「正統」なのである。
「ワルツ」は「3拍子」が「正統な」拍子である。が、
「異端」なチャイコフスキーに「3拍子」はふさわしいだろうか。
「5」つの「傷」を刻まれたイエスは、ユダヤ教にとっては
「大異端」だった。チャイコフスキーはその
「5」を頂戴したのである。つまり、
「悲愴交響曲」第2楽章の「ワルツ」の「5拍子」の意味は、
チャイコフスキーの「異端」を表してるのである。ただし、
「世界のナベアツ」よりもなおモロに「犬っぽくなる」わけではない。が、
この交響曲を捧げた甥ヴラヂーミルをチャイコフスキーが呼んでた愛称
「ボブ」は、英名のロバートのニックネムのボブなわけではない。
「猟犬、忠犬、愛犬」を意味するロシア語「ボービク」のさらなる指小形である。
チャイコフスキーがどんな「料簡」で「5拍子のワルツ」を生み出したのか、
と問われれば、「五聖痕」の意味であると私は答える。が、いずれにせよ、
「悲愴交響曲第2楽章」の拍子は「5」の倍数であるから、
少々思案(シヤン)してから「犬っぽくなる」とも答えることにしてる。
個人的には、チャイコと音楽修辞学というのは、ある程度は関わりがあると思っています(私がその根拠としているのはロメジュリの中間部のホルンの使い方)。
しかし、こういうのは深読みしようと思えばどこまででもできると思うのです。
例えば、悲愴は明らかに4度(下行)音程への執着があります。3楽章の最初Ob.により演奏されるテーマは完全4度のみでできています。対位法では4度跳躍2つによる7度音程は生硬なので避けられるにもかかわらずです。
しかしそれが母への思慕を表すかは「うーん…。」という感じです。
深読みしようと思えば、白鳥の湖ワルツが十字架音型だとか、眠りの森の美女ワルツが怒りの日だとか、悲愴3楽章の冒頭Vn.は十字架音型だとか(OnBeatのみ抽出するとH-A-C-H)、4楽章の冒頭Vn.も十字架音型だとか…、何でも言えますよね…。それが本当に悲しいことを表していたかどうかは、ぶっちゃけ作曲者に聞かないと分からない。
2拍子と3拍子の混合についても、やはりチャイコではよく出てきますよね。チャイ5の2楽章などなど。
これに関しても、2拍子が女で3拍子が男で5拍子は同性愛者なんだという分析には私は同意できず、チャイコが好んで使っただけという可能性を捨てきれません
。そういった意味が付加されているという意見には、懐疑的です。
5拍子の使用に関してはボロディンが先にやってますしね。
しかし、悲愴が過去の傑作を下敷きにしているという意見にはおおむね賛成です。冒頭なんかまさしくラメントバス(低音が半音階的に4度下がり(あら、また4度下行ですね)また戻る)ですしね。見事に古典的な音楽修辞。
あと、Trp.の管の話ですが、highBbを鳴らすためにB管を使っているのは間違いないでしょう。あの音が後期交響曲の中で一番音が高いのです。それに伴って、「B-AGF-Es~」というメロディーは重要度が高いというのも導けると思います。それが何を表しているかは分かりませんが。
長文失礼いたしました。
コメント、ありがとうございました。
ご覧になる皆さまがどのようにお感じになるかについては
私の遠く及ぶところではありませんので、
御意見についてはとくに申し上げることはないのですが、
それでも、せっかくコメントくださったのですから、
いくつかお聴きいれ、あるいは、お答えください。
1.<ロメジュリの中間部のホルンの使い方>
ここの箇所を詳らかに解説くださり、ご教授いただければ幸甚です。
2.<対位法では4度跳躍2つによる7度音程は生硬なので避けられるにもかかわらず>
対位法をここにあてはめなければならない根拠をご指摘ください。
3.<ぶっちゃけ作曲者に聞かないと分からない>
お手数ですが、訊いてきてみてください。
4.<2拍子と3拍子の混合についても、やはりチャイコではよく出てきますよね。チャイ5の2楽章などなど>
この<などなど>という<よく出てくる>作品というものを具体的に挙げて教えていだだけますでしょうか。
5.<2拍子が女で3拍子が男で>
とは、どこに書きましたでしょうか。思い出せません。ご指摘ください。
よろしくお願いいたします。
2. 特に対位法にこだわりはないですが、4度跳躍2つによる7度音程というのはあまりメロディーとしては使われないということを強調したかったまでです。(階名読みで)ソドファならまだ例があるかもしれませんが、ラレソやシミラはかなり珍しいと思います。
3. 教えてはくれないでしょうね。作品のプログラムすら秘匿してたぐらいですからね。
4. 2拍子と3拍子の混合ももちろんありますが、多いのは2と3の混合全般です。3と4の混合もあります。パッと思いつく限りでは、チャイ5全楽章、チャイ4の1・4楽章、チャイ3の2・3・5楽章、チャイ2の1・2・3楽章、チャイ1の1・3楽章、くるみ割り人形の行進曲,花のワルツ、ロメジュリ。1812序曲も少し。
5. それはこのサイトではありません。失礼しました。古代数秘学では2が女性、3が男性になるとのこと。チャイコフスキーがそれを意識したとは思えませんがね。
Hr.は2人の息使いを表しているのではないでしょうか>
・すばらしい感性をなさってますね。勉強になります。音楽のド素人である
私など、まったく想像もつきませんでした。ありがとうございました。
「嘆息の音型」が意味するものは「イエスの受難に対する悲嘆」……
「2羽のスズメが1アサリオンで、あるいは5羽のスズメが2アサリオンで売られてるではないか。
1アサリオンの銅貨を出すのと2アサリオンの銅貨を出すのとでは同価ではない。
倍出せば1羽分得をするのだ。これを日本という国では
『スズメの涙』と言ってるようだが、これはまた不条理とも言える。が、
その1羽でさえあなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはないのだ。
あなたがたの髪の毛1本までも残らず数えられている。だから、
恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかに勝ってるのだから、
地に落ちたスズメをマタイでもいいのだ」
というイエスの高邁な溜息……だと思いこんでた私などには、
俗人の男女による「性的快感から生じるせつない耽息」などとは、
到底思いつかないものでした。すごいですね。無垢な
ジュリエッタの、ロ夫婦(めおと)の間柄になれない反目し合う
教皇派対皇帝派という名家どうし、という立場から生じた
純愛熱愛からは、そのような嘆息も聴けるのですね。ちなみに、
再現されるときにはf乃至ffという強音で吹かれますから、
初々しい嘆息というよりは性行為の絶頂を知った雄叫びに近い喘ぎ、
といったところでしょうか。短時間に大人になってしまったのでしょう。が、
しかしまたこのすばらしい貴殿の観念的推測も、
やはり貴殿がおっしゃる「深読み」でない、
という決定的な客観的論拠が示された、とは、
到底言い難いように思えるのが、大変に残念です。
1.<Hr.がスラー付き2音下行音型をしつこく演奏>
・それでは、交響曲第5番第2楽章で、最初のHr.の主題が
第32小節からチェロで再提示されますが、そのときに、
Hr.の、次いでcl.の、そしてBn.と、しつこく繰り返される
「スラー附き2音下行音型のゼクヴェンツ(階名で言えば同じくラ_ソー)」も、
ご丁寧にアクセンドで書いてありますので、やはり
「伝統的なため息音型」もしくは貴殿がおっしゃるところの
「男女が絡み合うなまなましい溜息」と考えてよろしいのですね。
2.<特に対位法にこだわりはない>
・そうなのですか。では、
ことさら「対位法」という語を引き合いに出されたのは、
何か特段の意味がおありなのかな、とも思ったのですが、
実は何ら意味はなかったもの、と受け流してよろしいですね。
2.<4度跳躍2つによる7度音程……
ソドファならまだ例があるかもしれませんが、ラレソやシミラはかなり珍しい>
・階名で(音価は無視)ホ短調の♪ラ_ミミ^ラ_【ミ^ラ^レ】♪のことですか? すると、
続く、ob.ではなくtrmbそしてHr.&trmpによる♪レ_ララ^レ_【ラ^レ^ソ】♪も判るのですが、
では、すぐさま実質ロ短調に転じてしまう19小節めからは、ob.は
ロ短調の♪ラ_レレ^ラ_レ^ラ♪という5度跳躍を吹いてるのですが、上記ふたつと
同様に(【si-mi-la】rly)、【ジミ^ラ】というのがどこで出てくるのか、
ぜひとも、具体的に当該箇所を示して教えてください。
3.<教えてはくれないでしょうね。作品のプログラムすら秘匿してたぐらいです>
・秘匿した、とはいっても「作品自体」は残したんですね。
「解る者にはわかってほしい」ということだと私は感じてます。それにしても、
<<ぶっちゃけ作曲者に聞かないと分からない>>とおっしゃったのは貴殿なので、
そのようなお答えだと、それがまったく意味をなさない身も蓋もない一文だった、
ということになってしまいましたね。残念です。
4.<2拍子と3拍子の混合ももちろんありますが、
多いのは2と3の混合全般です。3と4の混合もあります>
・これでは
<<2拍子と3拍子の混合についても、やはりチャイコではよく出てきますよね>>
に対する、例示を求める私の質問の答えにはまったくなってませんね。
<<2拍子と3拍子の混合>>である「5拍子」の作品をぜひ挙げてくださいませんか。
5.<チャイコフスキーがそれを意識したとは思えませんがね>
・その推定の拠り所(裏づけ)は何でしょうか。
以上、音楽のド素人である私にも解かり易いような明瞭なお答えを
よろしくお願いいたします。
かつてYAHOO掲示板で「4度下降」にずいぶんと拘泥なさるかたがいたのを
懐かしく思い出します。なぜそんなにこだわるのだろうと思いましたが、
なにか「よんど」ころない事情でもおありだったのでしょう。そういえば、
ベートーヴェンの「5楽章制交響曲『パストラル』第2楽章」終いのFl.による
ナイチンゲールのコワイロも、ラ_ゾラ_ゾラ_ソという「2度」の下降音型の反復でした。
ツガイが初めて肉体的に結ばれたときの「息づかい」を表してたんでしょう。
ウズラはOb.がミーーミ・ミーーーという「1度」、カッコーはCl.がミー_ドーという「3度」、
ですから、やはり「夜啼き鶯」だけあってナイチンゲールに、江戸家猫八師匠でなく
フルートによる「嘆息の音型」が充てられた、というわけですか。
"Bach"によって仕上げられたバロックの書法が、
ベートーヴェンの田園の"Szene am Bach"の小鳥たちの鳴き声に継承されてた、
というわけですね。「4度」については音楽のド素人の私などの
遠く知るところではありませんが、それ以上の飛躍ともなると、
「5人組」のひとりではあっても、「増4度」がお得意の
ムーソルグスキーの「ボリス・5度ノ符」の影響を受けた、
「田園交響曲」など取るに足らないもの、と言ってた
度ビュッスィを待たねばならない(※)のですから、なんとも皮肉なことですね。
>交響曲第5番第2楽章のHr.→Cl.→Bn.
まず数が少ないので、その可能性は少ないと考えます。Hr.・Cl.・Bn.で9コに対し、ロメジュリは70コぐらいはあります。そしてアクセントの位置も違います。
2. 意味がないことはないのですがね、対位法の旋律規則というのは作品を見る上でなかなか便利でして。チャイ5の1楽章の第1主題も、対位法的にはアウトなんです。ここにチャイコ味があるんですよね。まぁご存じないのであれば無視していただいて結構です。
>si-mi-la
ここはちょっと意見が分かれるところだと思うのですが、練習番号[T]から20小節間ぐらいをすべてG-durと考えた場合、最初のHr.2・4はre-lala-re-la-re-so、次のCl.2+Tbn.1はmi-sisi-mi-si-mi-laとなります。もし最初の10小節間をD-durと分析なさるならば、Hr.2・4はsol-rere-sol-re-sol-do、Cl.2+Tbn.1はla-mimi-la-mi-la-reとなります。どっちみちsol-do-fa以外は珍しいです。
3. >「解る者にはわかってほしい」ということだと私は感じてます。
同感です。しかし、何をもって「解った」と言えるのでしょうか。私はやはり作曲者以外は解らないと思います。passionbbb様はどうお考えですか。
4. 「2拍子と3拍子の混合は5拍子」とどこに書きましたか。2拍子3拍子の混合は6/8を3/4と取ったり、2小節の3/4を3小節の2/4と取ったりしても発生します。「チャイ5の2楽章」と例示しているので、分かっていただけると思ったのですが…(ただし、これは2連符と3連符と4連譜の連結の例なので例としてはダメですが)。
5. チャイコが数秘学に明るかったという情報がないからです。何らかの必然性がない以上、数秘学の適用はは分析を煩雑にするだけでなく、誤った見解を生むだけでしょう。
あなたが拘泥なさっている母アレクサンドラ云々も4度順次下降ではないですか。
・すばらしい解釈ではないですか。ただ、
「2人の」だとすると、その息づかいに
「区別」はないのですね、Hr.のソロなので。あるいは、
「ラ」がローメオで「ソ」がジュリエッタ、というような
「阿」「吽」の呼吸なのでしょうか。
奥が深いですね。
1.<まず数が少ない……そしてアクセントの位置も違い>
・なるほど。「数の多寡」と「アクセントの位置」、
このふたつが「分岐線」ということですか。
勉強になります。ちなみに、
若いふたりの「息づかい」は「ハ>ァ」という
「前に力が入る」アクセントなのですね。たしかに、
「ァ<ハ」という「うしろに重量がかかる」、
酸いも甘いも噛み分けてきた艶のある息づかいに比べて、
初めてどうしが欲求と若さにまかせて手探りながらも
アクセンクトウしてる感じがするアクセントの置きかたのほうが、
初々しく新鮮で無垢な感じがしますね。鋭い!
2.<チャイ5の1楽章の第1主題も、対位法的にはアウトなんです。
ここにチャイコ味があるんですよね。
まぁご存じないのであれば無視していただいて結構です >
・ぜひ、対位法をご教授ください。音楽のド素人なもので、
対位法のタイもスラーとの違いも知らないので、
「チャイ5の1楽章の第1主題が対位法的になぜアウト」なのか、
「果たしてチャイコフスキーはその箇所を作曲するにあたって対位法を意識してた」のか、
つまびらかにご解説ください。また、女性経験がきわめて乏しい私のために、
体位法も併せてお願いいたします。机上位の空論だけでもかまいません。ただ、
本題に戻らせていただきますと、
2.<<3楽章の最初Ob.により演奏されるテーマは完全4度のみでできています。
対位法では4度跳躍2つによる7度音程は生硬なので避けられるにもかかわらず>>
・という貴殿のお話に対して、
「チャイコフスキーはこの箇所に『対位法』を使ってるのですか?」
という意味で、
「対位法をここにあてはめなければならない根拠」
をお訊きしたかったのですが、貴殿からは質問の主旨とは方向が違う
お答えしか帰ってこなかった、ということです。また、
仮に、この箇所でチャイコフスキーが「対位法」を用いてた、としても、
「7度音程の忌避」はもうひとつの声に対するものであって、
ひとつの声の旋律の中に7度の開きがあっても、まったく
別の話ではないかと、「対位法を知らない」私は、
訝しく思ったので、平易で明解なお答えをお訊きしたかった、
ということです。よろしくお願い申しあげます。
2.<ここはちょっと意見が分かれるところだと思うのですが、
練習番号[T]から20小節間ぐらいをすべてG-durと考えた場合>
・意見が分かれるもなにも、まず、
<<G-durと考え>>る理屈が私の脳には理解不能です。が、
そこを<<G-durと考え>>てまでもやっと他の「4度飛躍*2→7度」と
同様に例を見つけられた労力は賞賛に値すべきものだと思います。
3.<私はやはり作曲者以外は解らないと思います……どうお考えですか>
・まず、私の考えについてですが、作品のことに関して
「作曲者に聞く」、などという思いはまったくありません。
「聞かれても答えれる」くらいだったら、
音楽作品などにはするでしょうか。そんな必要はありませんね。
音楽作品とは人間の感情の複雑なテクスチュアを簡単には言い表せないから
楽譜という手段で転写したもの、と私は感じます。
ヒトがなぜ感情を表すか、感情を作品として産み出すか……
遺伝子を伝えるためです。が、生物的にはできないヒトもいます。
そういうヒトの中で、わずかな者だけが個体のバトンタッチを超えて、
生命体全般の永続を助長するために産み出すことができるのが
音楽作品だと私は感じてます。ですから、その
ゲノムである「作品自体」を見ればおのずと解ってくることもあり、
程度の低い私には解明できないことも多々あるでしょう。たとえば、
訊いても「私のではない」と虚偽を答えられたとしても
DNAのほうが真実を語ってしまうものです。ですから、当然ながら、
「作品……スコア」から得れる情報がもっとも重要です。他には、
作曲者自体の情報です。たとえば、チャイコフスキーの音楽は、作曲者が
同性愛者であることを無視したら、まったく
的はずれな味わいかたになる可能性があります。
生まれ育った社会的背景(国、富裕度、教育)も大きいでしょう。が、
生まれ育った家庭環境、とりわけ母親からの愛情と母親への思いは、
それを抜きにしてしまえば、どこかの浅いかたがたのように
「甘く、感傷的な、お涙ちょうだい」
で片づけられてしまいます。そして、
アーティキュレイションもフレイズィングも強弱もタメもへったくれもない、
ひらべったい、とおりいっぺんの演奏で満足するのです。
「弁慶がな、ぎなたを持って」みたいな。私の文を見て、
センテンスの頭にある接続詞を行の終いに置いてることが多い、
ということに気づかれたましたか。意図的にしてることです。
接続詞を音楽のアオフタクト(弱起)と同様にして、
強拍に置かれる言葉の重要性を惹起してるのです。
私が「解る者」だとは思いません。が、
そのようなこだわりもなく、ただ、
いいかげんな情報と知識に漫然としてるかたがたよりは
「解る可能性は高いのではないか」と日々、
チャイコフスキーの音楽を考えてます。
・次に、貴殿におかれては、
<<作曲者以外は解らない>>という臨まれかたでしたら、
あれこれお考えにならないで、どこかのお気楽な
「哀愁を含んだ美しく親しみやすいメロディと華やかなオーケストラ、そして、
ロシアの大地を思わせる雄大なスケイルのチャイコフスキーの曲が大好きです」
みたいなかたがたのような楽しみかたをなさってるほうが
知らぬが仏でいいのではないかと思います。それはともかく、
そういうお考えのほうが真意であるとすると、
<<<<ぶっちゃけ作曲者に聞かないと分からない>>>>
とおっしゃりながら、
「チャイコが男女の息づかいに明るかったという情報がない」
にもかかわらず、
<<「2人の息づかいだ」という解釈もできる>>
という「解釈」を引っぱり出すのは、どういうことなのでしょうか、
とあらためて驚いてるところです。
4.<「2拍子と3拍子の混合は5拍子」とどこに書きましたか>
<<2拍子と3拍子の混合ももちろんありますが、
多いのは2と3の混合全般です。3と4の混合もあります>>
<<5拍子は同性愛者なんだという分析には私は同意できず、
チャイコが好んで使っただけ>>
・貴殿が書かなくとも「2拍子と3拍子の混合は5拍子」です。これは、
音楽に明るくないド素人の私にもわかる簡単な事実です。なぜ、
「拍子の混合」を「混合全般」、さらには「別の数」として
すり替えてしまうのでしょう。貴殿が
「チャイコが好んで使った5拍子」とおっしゃるから、
私はそんな事実は知らなかったものですから、
ぜひこの機に勉強したいと思い、その例を挙げてください、
とお願いしてるだけです。わかりやすい質問だと思いますが。それとも、
「2拍子と3拍子の混合」が「2拍と3拍の混合」あるいは
「2つの音符と3つの音の混合」の言い間違え、だったとしたら、
そうおっしゃってくださればいいだけの話です。
5. <チャイコが数秘学に明るかったという情報がない>
・それは「決定的な否定材料」にはなりえませんね。貴殿が
チャイコフスキーのシュミを知らないだけかもしれないとは思われませんか。
わずかの可能性の芽でもハナから摘むことは危険です。
5. <誤った見解を生むだけでしょう>
・ご心配、いたみいります。が、私は所詮、
音楽のド素人です。音楽に関して原稿とか著作権とかから
何らかの対価を得てるプロではありません。見栄も立場もありません。
100の間違いを犯しても、何ら恥じることもありません。
100回ダルビッシュの投球を振って、99球は空振りで
33回の三振(k、と表します)でも、1球でもかすったとしたら、
それだけでいい、というダメモトと思ってやってます。まぁ、
慶派には遠く及ばないケイハくな推量程度かもしれませんが、
仮に誤った見解を示しても、プロや専門家のかたがた、
チャイコフスキー研究の権威のお歴々はもちろん、
無垢な若者らに与える悪影響はないでしょう。が、
たとえ「子宮癌の権威」でも、その先生が男性だったり、
女性であっても自身がその患者でなければ、
理屈は通じても、患者の真の痛みや苦しみはわからないでしょう。
5. <あなたが拘泥なさっている母アレクサンドラ云々も4度順次下降>
・そのとおりですよ。否定しましたか? ただ、
私が拘泥してる、のは確かですが、
チャイコフスキーが偏執してることに注視してる、
と言ったほうが、より正確だと思います。
>Hr.のソロなので
途中からソリ(2声)です。
>数の多寡とアクセントの位置が分岐線
まぁどの分析においてもそうなのですが、あくまで可能性を高めることにしかなりません。「○○個以上あったら、そうだ」とは言えません。しかし、やはり70回は多いと思います。息使い云々の解釈は置いといて、チャイコがこのHr.を重要だと考えていた、という証拠にはなると考えます。
2. チャイ5の1楽章の第1主題の話は後に回します。
>対位法をここにあてはめなければならない根拠
チャイコが音楽学校に行っていたという事実からです。和声学・対位法・管弦楽法・楽式は音楽学校で習う基礎的な学問です。チャイコが行っていた音楽学校の当時のカリキュラムは存じ上げませんので絶対正しいとは言えませんが、音楽学校である以上チャイコは対位法を学んだ可能性が高い。とすれば、和声学・対位法からアプローチするのは何ら妥当性の欠けるものではないと考えます。
>「7度音程の忌避」はもうひとつの声に対するもの
対位法の学習はまず1声の旋律規則から始まります。今問題にしているのはその部分です。2声以上の組み合わせの話は別の話です。それじゃあ「対位法」じゃないよと仰るかもしれませんが、そういうものなのです。悪いのは(確か)フックスです。
2.
>4度飛躍*2→7度の例
>G-durと考えてまでもやっと他の~
同じ個所ですよ。階名が変わるだけです。
それに該当箇所をG-durと考える分析はあながち間違っていないと思うのですがね。まぁしっくり来ないのであればそれはそれで結構です。
3.
>「聞かれて答えられる」
ベートーヴェンはSym.5の冒頭4音の質問に対し「それは運命がドアを叩く音だ」と答えているので、作曲者に訊くというのはムダなことではないと私は思っています。
>音楽作品とは人間の感情の複雑なテクスチュアを簡単には言い表せないから
>楽譜という手段で転写したもの、と私は感じます。
補足。これはチャイ4の時でしたか、チャイコ自身が似たようなことを言っていたと思います。確か「ロシア音楽史―『カマーリンスカヤ』から『バービイ・ヤール』まで」という本で見ました。
>ヒトがなぜ感情を表すか、感情を作品として産み出すか……
>遺伝子を伝えるためです。が、生物的にはできないヒトもいます。
>そういうヒトの中で、わずかな者だけが個体のバトンタッチを超えて、
>生命体全般の永続を助長するために産み出すことができるのが音楽作品
それはチャイコだけに当てはまる可能性のある事項だと思うのですが…。他の大作曲家で遺伝子を伝えられない人の例が思い浮かびません。
「『作品……スコア』から得られる情報がもっとも重要です」以降は完全に同感です。
>あれこれお考えにならないで、どこかのお気楽な~
私は演奏者ですので、正解は分からないが、考える必要はあると思っています。
>「チャイコが男女の息づかいに明るかったという情報がない」
チャイコが全く性交渉したことがないならば「男女の息づかいに明るくなかった」可能性が高いのでしょうが、それは考えにくいですね。これは直感です。
ロメジュリの場合、ある程度テキストに沿って作曲したと思いますから、私の説はないことはないと考えます。チャイコのセクシュアリティを考えればこそ、性交渉に執着したという可能性は低くないと考えます。
>「2拍子と3拍子の混合は5拍子」
おっと、失礼!おっしゃるとおり「混合」は5拍子で正解です。失礼しました。書きたかったのは「複合」です。
ここに書き直しをさせていただきます。これまでのは一度忘れてください。
「チャイコは2と3の組み合わせをよく使った」というのが私の見解です。例:チャイ4冒頭主題・チャイ5 Mvt.2 b.45(2連符と3連符の混合)、チャイ5 Mvt.1 b.96(2拍と3拍の複合)、Mvt.2 b.46(2連符と3連符の同時使用)。そしてチャイ6 Mvt.2(2拍と3拍の混合)。
5.
>チャイコフスキーのシュミを知らないだけかもしれない
もちろんそれはあります。実際のところ「チャイコと数秘学は関係がない」と主張する側、つまり消極的事実側からの証明は正直困難です。悪魔の証明的だと思います…。
5.
>ご心配、いたみいります~ダメモトと思ってやってます。
そういうスタンスなのですか。ほぉ。
>たとえ「子宮癌の権威」でも、その先生が男性だったり、
>女性であっても自身がその患者でなければ、
>理屈は通じても、患者の真の痛みや苦しみはわからないでしょう。
この文章の意図がよく分からないのですが、ご解説いただけますか。
5.
>「4度下降」にずいぶんと拘泥なさるかたがいたのを
懐かしく思い出します。
>なぜそんなにこだわるのだろうと思いましたが
とあったので、否定されているのかと。
チャイコが4度順次下降に偏執してることは間違いないでしょう。が、それを直接母アレクサンドラにつなげるのは、どうもしっくり来ません。確かにチャイコの複雑な心境、音楽でのみ表せる感情に、マザコン(良い言葉ではないですが)は少なからず影響していると思います。しかし、4度順次下降=母アレクサンドラなのでしょうか。passionbbb様は何か根拠をお持ちなのでしょうか。論理的でなくても思いつきでも直感でも結構です。
>机上位の空論
うまい。
戦後日本の仏師も物資も豊かになりかけてきた
昭和36年の流行語からに切り換えてみました。
1.<途中からソリ(2声)です>
・そういうことを伺ってるのではないのです。そうすると、
「では、2管になるのはなぜ途中からなのですか?」
という話になってしまいます。ともあれ、
ローメオとジュリエッタのソリが合ったことは紛れもないことでしょう。が、
それだったらなぜ<初めて(肉体的に)結ばれるスィーン>なのに、
ホルン単独なのでしょうか、ということです。まぁ、
それもいいとしましょう。世の中には、
スコアを見て「コルネット」と「フレンチ・ホルン」の区別もつかないだけでなく、
それらの音色も聞き分けれないで何十年も過ごしてきたのに、
どの演奏がいいだのわるいだの大きな口を叩くような
職業音楽者もいるのですから、そんなのに比べたら、
貴殿のお話は雲泥の差の高尚なものですから。が、
「嘆息の音型」とは2度下降とはいっても、「短足」というだけあって、
「短2度」であって「長2度」ではなく、
「苦悩」「苦悶」であって「快楽」「性の喜び」ではありません。
それが、貴殿におかれては、「Hr.は2人の息使いを表している」
となり、その具体的な根拠をお訊ねしても、結局は、
<という解釈もできると考えております>
<息使い云々の解釈は置いといて、チャイコがこのHr.を
重要だと考えていた、という証拠にはなると考えます>
になってしまうのですね。私には根拠を求めるのに。
そこらへんをよく考えていただければ幸甚です。
・また、「70回」という回数ですが、
どこを数えれば70になるのでしょうか。すみませんが、
私は楽譜も自分では読めないド素人なので、お手数ですが、
そう主張なさるのでしたら、具体的に第何小節から何小節まで、
とか明示していただけますでしょうか。
2.<チャイ5の1楽章の第1主題の話は後に回します>
・他のお話・ご解説が済んでチャイゴになっても構いませんので、
ひとつよろしくご講義お願い申しあげます。
「巨人、対位法、玉子焼き」と、
子供たちまでもが好きになるくらいに噛み砕いて。
2.<和声学・対位法からアプローチするのは
何ら妥当性の欠けるものではないと考えます>
・このセンテンスの主語が「貴殿」なのか「チャイコフスキー」なのか、
拙脳な私には判別できませんが、もし前者だとすると、
これも私の質問の主旨からずれてます。この質問の段階では、
貴殿がなぜそこに対位法からアプロウチするのか、ではなく、
そこをチャイコフスキーは対位法で作曲したのですか、という主旨です。
タランテッラとマーチを重ねてるから、とか、
第1楽章の序奏=主部第1主題の動機がバッハのマタイ・パッションだから
対位法お得意のバッハの取り口をそこにも真似たから、とか、
1993年は「コレラ」に加えて
「マーラーの巨人*、対位法、egg**」が流行語大賞だったので
(*最終的な完成は1896年、**創刊は1995年でしたっけ?)
チャイコフスキーもそれに乗っかって作曲したという話を聞いたから、とか、
そういう方向のお答えを求めてるのです。
お解りいただけましたでしょうか。そして、
主語が「チャイコフスキー」であったとしても、それでは、
「対位法を学んだから、その箇所も対位法をもとに書いた、
といっても妥当でないといえない、という、
説明になってないお答えです。
2.<G-durと考える分析はあながち間違っていないと思うのですがね>
・では、その分析の過程を詳細にお示しいただけますでしょうか。
3.<運命がドアを叩く音>
・訊いたらベートーヴェンがそう言ったという
押しかけ執事の証言のほうが胡散臭いという説が優勢ですよね。
その人物の「ベートーヴェン語録集」のリスト(これをシントラーのリストと言うそうです)
にあるだけで、他の人による複数証言はなかったはずです。まぁ、
その真偽はどうでも、ベートーヴェンがそう言ったいわなかったにかかわらず、
ベートーヴェンに訊かなくても「ダダダ・ダー」が
「運命の律動」であることは周知の事実です。が、そんなことはどうでも、
3.<<<<ぶっちゃけ作曲者に聞かないと分からない>>>>
→<<<教えてはくれないでしょうね>>>
→<<私はやはり作曲者以外は解らないと思います>>
→<作曲者に訊くというのはムダなことではないと私は思っています>
・拙脳な私にはその不確定性に理解するのが困難でした。が、やっぱり、
「訊くほう」がいい、けど、そっちの方向の中でも、
「訊いてムダではない」というのが最終的なお答え、
と理解してよろしいのでしょうか。
3.<チャイコ自身が似たようなことを言っていたと思います。確か
「ロシア音楽史―『カマーリンスカヤ』から『バービイ・ヤール』まで」>
・その書物を読んだことがありません。が、読んでないにしても、
「チャイコフスキー マニア」などと大口を叩いてるわりには、チャイコフスキーが
「チャイ4の時に似たようなことを言っていた」ということも、
貴殿のコメントで初めて知りました。不勉強で申しわけありません。が、
貴殿にとっては図らずもかもしれませんが、その一文は
「私への最大の讃辞」なのです。10歳のときにチャイコフスキーの音楽を聴いて
衝撃を受けました。以来、その虜です。が、のちに
チャイコフスキーが他の作曲家について論評した文を読んで、それらが
私の音楽シュミとほとんど同じ、ということを知ったときは、
それまでの好きという思い以上の親近感を覚えました。ですから、
貴殿がそのように指摘してくださったことは、私にとっては
期せずしてまたチャイコフスキーと同様の考えを持ってた、
ということを知って嬉しいのです。ありがとうございます。
3.<それはチャイコだけに当てはまる可能性のある事項だと思うのですが…。
他の大作曲家で遺伝子を伝えられない人の例が思い浮かびません>
・すみません。この一文は拙脳なる私にとってももっとも
難解なもので、何回読み直しても理解できません。今一度、
噛み砕いて、私にも解りやすいように書き直していただけませんか。
3.<私は演奏者ですので>
・"k"ontrabassだったりしたら、ヤフ板の伝説の人物みたいですね。
私が同掲示板を知って見始めたときにはもう、残念ながら
そのかたはいなくてその文章を読んだことがなかったのですが。
3.<ロメジュリの場合、ある程度テキストに沿って作曲したと思います>
・これはまったくの余談ですが、あの話の本質は、その
舞台となった町が神聖ローマ帝国に近い方面にあったので、
教皇対神聖ローマ皇帝の権威対立、つまりは経済抗争です。なので、
「若いふたりの純愛と非業の死」というのは、
実際にあったかもしれないけれど、結局は
カトリック神父ロレンツォの浅知恵でふたりは死ぬことになる、という
反カトリック国教会の英国芝居にはうってつけなわけです。
13歳乃至16歳のふたりがすぐに肉体的に結ばれる、
っていうのに、女性を生対象として見れなかったチャイコフスキーが
シンパスィーを覚えてたかどうかなんて、
シンバシーのサラリーマンのオヤジほどの私があれこれ
喋ヴェローナんて思いません。
4.<「チャイコは2と3の組み合わせをよく使った」というのが私の見解です>
・やはり、そうでしたね。それなら話は解ります。で、私は
「2と3」という「共通項」から、やがてブルックナーにも興味を持つ者
トナールわけです。
5.<この文章の意図がよく分からないのですが、ご解説いただけますか>
・この文章にプログラムはあるけれど、言いたくない……冗談です。
貴殿は頭痛持ちですか? 頭痛でなくても体の痛みというものは、
当人以外の人にはわかりません。医者が問診して検査して
症状を和らげることはできても、その痛み自体を体験することはありません。
他人の痛みが解らない者に親身な治療など望めるはずもないのと同様に、
チャイコフスキーの音楽をただ「神聖化」したり、
その研究で名声や財源を得るための手段にしたりしてるような
「研究家」「専門家」などに、真のチャイコフスキーを求めるのは無理、
ということです。「初めはチャイコフスキーが好きでなかった」とか、
「チャイコフスキーは他の作曲家に比べて恵まれてた」とか、
チャイコフスキー以外の研究者のくせに金のために執筆するような
下劣な根性の人などに……それ以上はもう言わせないでください。
5.<チャイコが4度順次下降に偏執してることは間違いないでしょう。が、
それを直接母アレクサンドラにつなげるのは、どうもしっくり来ません>
・私のこのブログを読んでくださってると思ったのですが……。その
「4度順次下降」をチャイコフスキーは「悲愴交響曲」に鏤めました。そして、
もっとも重要な箇所には「主題」として据えたのです。それが、
終楽章の「アンダーンテ」です。ホルンの伴奏はスィンコペイトされた「タ・ター」、これは
モース信号の「a」です。これが3拍子の中に、「ずらされた」形で3つ。
aレクサーーンドラ・aンドレーエヴナ・aスィエ=チャイコフスキーの母、です。そして、
「4度順次下降」の旋律を擦るvnプリーモとヴィオーラには、
「コン・レネッツァ・エ・デヴォツィオーネ」の標語。「慈愛と献身の心をもって」。
そんな心を持つものは世の中にただ一人。母親です。
母親からの愛情、母親への思慕。
この二つに欠ける、あるいは足りないヒトには、
どんなに楽器を弾くのに長けてても、
どれほど音楽理論を身につけてても、
チャイコフスキーはどだい無理なのです。それが
「解る人」と「そうでない人」との、
はっきりとした線引き、というのが私の本音です。実際に
「解るか」「わからないか」はたいした問題ではないのです。
私のブログを読んでくださってるらしいのに、
その感動に共振しないのであれば、私などに関わってないで、
貴殿は貴殿の道を進まれたらよろしいのではないですか。
5<.机上位の空論 うまい>
・「アクセンクトウしてる感じがするアクセントの置きかた」
のほうが自分としては上出来だと思ってたのですが。
>「嘆息の音型」とは「短2度」であって「長2度」ではなく、
>「苦悩」「苦悶」であって「快楽」「性の喜び」ではありません
バッハは「短2度下行=苦悩」として嘆息音型を使い、チャイコは「長2度下行=快楽」として嘆息音型を使った、というのはちょっと無理矢理でしょうか…。でも長短混ざってるしなぁ…。
確かに「なぜHr.単独なのでしょうか」と言われればそうですなぁ…。もうちょっとよく考えて出直します。
>70回
bars 213-229で28コ、bb.225-242で16コ、bb.390-405で22コ、412-416で10コ、合計76コです。
2.
>チャイ5の1楽章の第1主題
失礼しました!すっかり書くのを忘れていました。
チャイ5 Mvt.1 第1主題はEs|G---AB|CBAG~となりますが、Es-Aが作る三全音は、間に1音(G)入っていても、西洋音楽の伝統的な対位法(旋律規則)の書法では普通避けられるものなのです。これがロシア音楽味、チャイコ味のもとになっているのです。この第1主題は音選択自体が上記のように不安定であり、またリズムもGのタイのせいで3/4への傾向があるというこれまた不安定なリズム、そして和声はI-IVという調性確定力が若干弱い進行が繰り返されており、やや不安定な印象。まぁそれだけなんですがね。
>そこをチャイコフスキーは対位法で作曲したのですか
この表現自体がまずおかしいのです。対位法はフーガとかカノンを作るときだけ使う、ということではないのです。メロディーを書くということ自体が対位法の一部なのです。チャイコが対位法の授業を受け、西洋音楽の伝統をガッチリ学んだのであれば、「4度*2→7度は伝統的でない」ということを絶対に意識したはずです。まぁチャイコが怠惰な生徒だったというなら別かもしれません。
2.
詳細に、とありましたが、簡潔に。和音記号書きを全部やるとかなり煩雑になりますので。
練習番号[T]からなのですが、一回もV-Iのカデンツが出てこないのです(D-durで考えてもG-durで考えても)。半音階上行も調性をあいまいにしています。[Y]で初めてG-durの主和音(第1転回形ですが)に解決しますので、遡って、そこまでは長ーいドミナントであると分析します。
3.
>ベートーヴェンに訊かなくても「ダダダ・ダー」が
>「運命の律動」であることは周知の事実です。
これはなぜですか?チャイコの話から離れてしまうので、少しで構いません。ご解説ください。
>ぶっちゃけ作曲者に聞かないと分からない
文章表現が揺れているのは反省します。しかし、
>「訊くほう」がいい、けど、「訊いてムダではない」
ここが「けど」でつながるのはなぜですか。「訊いてムダではないので、訊く方がいい」です。ただし、チャイコの場合は「教えてくれる可能性が低いだろう」ということです。
>「ロシア音楽史~」~
>貴殿にとっては図らずもかもしれませんが、
いえ、意図通りです。
3.
>ヒトがなぜ感情を表すか、感情を作品として産み出すか……
>遺伝子を伝えるためです。が、生物的にはできないヒトもいます。
>そういうヒトの中で、わずかな者だけが個体のバトンタッチを超えて、
>生命体全般の永続を助長するために産み出すことができるのが音楽作品
私はこの文章を「音楽作品を産み出すことができるのは遺伝子を伝えられない人である」というようにしか理解できなかったため、「音楽作品を産み出した人の中で、生物的に遺伝子を伝えられなかった作曲家はチャイコぐらいしかいないんじゃないの?」という旨の質問をしたのです。私が「ヒトがなぜ感情を表すか~」の文章を勘違いしているのかもしれません。
3.
>"k"ontrabassだったりしたら、ヤフ板の伝説の人物みたいですね
あいにく別人です。その人の存在すら存じ上げません。
4.
ブルックナーってブルックナー・リズム以外に何か2と3の組み合わせありましたっけ?
5.
>貴殿は頭痛持ちですか?~
ああ、そういう意味ですか。よく理解できました。ただ個人的には「初めはチャイコフスキーが好きでなかった」人は別に問題ないと思うのですが…。ちなみに私は片頭痛持ちです。
5.
モールス信号(確かにアメリカ人ならモースっぽいですね)はちょっと唐突な気がします。「チャイコはモールス信号に明るかったのか?」と疑問がわきます。ただ、可能性の芽を摘まないというスタンスならそれでもOKですね。
あと、con lenezza e devozioneのうち、「慈愛」という訳はちょっと…と思いますが、「柔和に、献身的愛情をもって」=「母親」というのはなかなか説得力があるように思います。いや、でも「神」とも考えられるかなぁ…。
>その感動に共振しないのであれば、私などに関わってないで、
>貴殿は貴殿の道を進まれたらよろしいのではないですか。
この説には納得はできるんですが、演奏者としては一つの解釈のみに溺れるというのは少し怖いことなのです。
「ソとドとファの音が出ない」こともあるでしょう。
コントラプンクトゥスに強い執着があるご様子だったので、
コントラバスかな、と思ってしまいました。
1.<バッハは「短2度下行=苦悩」として嘆息音型を使い、
チャイコは「長2度下行=快楽」として嘆息音型を使った、
というのはちょっと無理矢理でしょうか>
・この「発想」自体はすばらしいと思います。私は貴殿のようには
「うーん…。」という感じ、などとはけっして申しません。
疑問な点はもちろんお訊きしますが。
1.<bars 213-【229】で28コ、bb.【【225】】-242で16コ、
bb.390-405で22コ、412-416で10コ、合計76コです>
・「ラ_ソ」だけではないということですね。
3度下行まで数えちゃうんですか。でも、これで
「数の謎」は階名いたしました。私は
「ラ_ソ」だけのことかと思ってましたので。
・余談ですが、【】と【【】】の数字、おかしくないですか?
【】のほうが【【】】より大きいでしょう。
単純な打キー・ミスでしょうか。【【】】は【【325】】では?
2.<Es-Aが作る三全音は、間に1音(G)入っていても、
西洋音楽の伝統的な対位法(旋律規則)の書法では
普通避けられるものなのです。これがロシア音楽味、
チャイコ味のもとになっているのです>
・その「ご説明」はド素人の私にとって説得力という点に関して
極めて乏しいと申し上げなければなりません。そしておそらく、
私だけでなくプロのかたにとっても。ところで、
大Bach様の「無伴奏パルティータ第2番」の終曲シャコンヌなんぞにも、
「対位法」が駆使されてるんでしょうかね? それと、
貴殿にとって「ロシア音楽味」と、たとえばショパンのような
「ポーランド音楽味」は おんなじような舌ざわりですか?
2.<Gのタイのせいで3/4への傾向がある>
・音価を2倍にすれば、という但し書きが抜けてはいませんか?
音価が同値のままでは3拍子にはなりませんね。まぁ、
それはいいとしても、
<3/4への傾向があるというこれまた不安定なリズム>
・なぜ、3/4のほうが6/8より不安定なリズムなんでしょうか?
2.<和声はI-IVという調性確定力が若干弱い進行が繰り返されており、
やや不安定な印象>
・そのIVが、貴殿のおっしゃる「対位法」などではなく、
和声法によって「ファ(貴殿がおっしゃる"Es")」から始まる節を
裏打ちしてるのではありませんか?
2.<まぁそれだけなんですがね>
・それだけですか。
2.<対位法はフーガとかカノンを作るときだけ使う、
ということではないのです。
メロディーを書くということ自体が対位法の一部なのです>
・この「教え」はたとえば私などが入手できる理論書だと
何という本のどこに載ってますか?
2.<チャイコが怠惰な生徒だったというなら別かも>
・音楽教室から音楽院まで、対位法を学んだと
言わザレーンバうそになりますね。
3.<一回もV-Iのカデンツが出てこないのです
(D-durで考えてもG-durで考えても)。
半音階上行も調性をあいまいにしています>
・「あいまいにしてる」のは事実です。が、
だからこそ、「V-Iのカデンツ」に調性を求めることに
無理があるのです。練習番号[T]からふた小節めに
「D-durのV」が「確定」されてるではありませんか。
3.<[Y]で初めてG-durの主和音(第1転回形ですが)に解決しますので、
遡って、そこまでは長ーいドミナントであると分析します>
・その「分析」はさぞ苦しかったのではないですか? ちなみに、
ティンパニをバスと思えば基本形かもしれませんね。ところで、
「長~い(G-durの)ドミナント」だとしたら、
"a"のオルゲンプンクトはどのように説明しましょうか?
3.<これはなぜですか?>
・「シントラーのお噺」が眉唾だと思っても、この交響曲の
「主要動機」が「運命がノックする」ということには
「ベートーヴェンも考えてたにちがいない」と
「受け入れてる」からです。そして、シントラーの噺を疑っても、
「ぶっちゃけベートーヴェンに訊いてみなければわからない」
などという人はあまり見かけませんね。
3.<「訊くほう」がいい、けど、「訊いてムダではない」
ここが「けど」でつながるのはなぜですか>
・そんな繋げかたはしてませんよ。よく読んでください。
3.<チャイコの場合は「教えてくれる可能性が低いだろう」>
・チャイコフスキーはけっして教えません。解かる者にのみ
「感じてほしい」のですから。
3.<「音楽作品を産み出すことができるのは遺伝子を伝えられない人である」
というようにしか理解できなかったため、
「音楽作品を産み出した人の中で、生物的に遺伝子を伝えられなかった
作曲家はチャイコぐらいしかいないんじゃないの?」という旨の質問をした>
・そこに至る過程は違いますが、
「子を残せないがそれに匹敵するほどの真に価値がある、
ヒトの感動という感情を共振させることができるような音楽を
子の代わりに残せた者が若干はいる。その中のひとりが
チャイコフスキーで、しかも、その中の頂点である」
というのが私の持論です。ですから、他には
ベートーヴェン,シューベルト、ブルックナーがいます。あと、
モーツァルトは結婚して子を残した普通人ですが、しかし、
成長した男子ふたりはそこで途絶えてしまいましたから、結局、
モーツァルト自身の遺伝子のサヴァイヴァル度には弱さがあったのでしょう。
4.<ブルックナーってブルックナー・リズム以外に
何か2と3の組み合わせありましたっけ?>
・反対にそれ以外に何かあるのかお訊きしたいですね。
5.<「初めはチャイコフスキーが好きでなかった」人は別に問題ないと思うのですが>
・昔、心理学の「適正テスト」の類で、最初マークしたものを取り消して
別の選択肢に転向しても、当初にマークしたほうが「採られ」ました。
「三つ子の魂百まで」。本当に惹かれる者は初めからひきつけられるのです。
5.<確かにアメリカ人ならモースっぽいですね>
・横浜港から東京に向う汽車から、「あらかじめ目星をつけといた」
大森貝塚を確かめたというからすごいですよね。でも、
彼の頭の中は「日本についたときの愉快な気分」はすぐにふっとび、
「もう留守」になってる、いくら、初日だからまず、
観光を楽しんでくださいといっても「モース」ぐにお仕事モード。
ということから「モールス」と呼ばれるようになった、
というのは、「モルガン・スタンレー」に勤めてた米人から聞いた、
シントラーの足元にも及ばない作り話です。
5.<「チャイコはモールス信号に明るかったのか?」と疑問がわきます>
・別に「明るく」なくても、「・-がa」であることくらい
知ってたでしょう。ちなみに、その持続音の音名自体も「a(イ)」。
3楽章でマーチが再現される前の持続音が「予告」した「a(イ)」です。
「152/2=76」!
5.<con lenezza e devozioneのうち、「慈愛」という訳はちょっと…>
・イタリア語の名詞lenezzaの元はラテン語の形容詞lenisですが、
「薄めて」「延ばして」「拡げて」緩和する・和らげる、という意味です。
「痛みを和らげる」「罪を長~い目で大目に見る」のように。だから、
杓子定規な訳語<柔和>も間違いではありません。柔和な笑顔とは
ラファエッロが描く聖母の慈しみのほほえみのことですから。が、
「柔和に、献身的に」では変でしょう。貴殿も「献身的な『愛情』」などと
「愛情」を補って「意訳」してるではないですか。
5.<演奏者としては一つの解釈のみに溺れるというのは少し怖いことなのです>
・同感です。が、私は「演奏」に「演奏家の解釈」など
あってはならないと考えてます。作曲者が残した楽譜に
その意図を感じとることとはまったく別のものです。
「演奏」が「町を歩く」ことだとしたら、地図作成者が書きこんだ
「道順」「交通手段」「徒歩もしくは乗り物の速さ」などに、
「そこを右折するにはここで車線を変更しておくとうまくいく」
というのが作成者の意図を読むことであって、
「私は東京タワーが見たいからこっちの道から行く」
「タクシーは嫌いだからバスで来た」
「ここの景色はすばらしいからゆっくりと歩いていこうかしら」
などと勝手に変えてしまうのが「音楽演奏の解釈」なのです。
実に不遜な行為です。それから、
私の話は「解釈」でも「説」でもありません。
チャイコフスキーと多くの面で「スィンクロ」すると自覚してる私が
知覚したこと、ですから、
少しでも懐疑的に思われるなら、そういうかたには所詮
チャイコフスキーは無理だと私は思ってます。そういうかたにとっても
時間の無駄です。立ち止まらないことです。