チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「チャイコフスキーがなぜ歌舞伎?/チャイコフスキーはなぜアニンテリにはきちがいされるのか?」

2012年04月05日 18時40分21秒 | チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー
歌舞伎の特徴のひとつに、
「見得を切る」というものがある。それが
歌舞伎の大きな魅力ともなってる。
登場人物の感情が高揚したここ一番という場面で、
その役者が演技を一時停止して、相応の
「pose」を取る。そのとき、
舞台のほうでツケを打ったり、客席からは
通ぶったのが役者の屋号を叫んだりすると、
一般客は「心打つクライマックス」感が煽られる。
拍手喝采の大喜びである。
こうして演じる舞台側と見てる客席側とが
「一体」となって、揺れんばかりの感動が生まれるのが、
「舞台」なのである。
クラシック音楽で指揮者がオケをコンダクトして音を出しても、
合奏仲間で曲を奏しても、
これに似てえもゆわれぬ感動が起きる場合もある。が、
それは所詮、舞台の内輪だけでのことであり、
演奏を供する側の中だけでの話である。
観客はその感動を聴いて受けることはできるが、
自己内で増幅した感動を表に表して
フィードバックしてはいけないことになってる。
クラシック音楽は他の舞台の見世物よりはるかにセンスィティヴというか高尚
(客席からの反応は演奏後の拍手のみという暗黙の了解があり、
どんなに感動しても演奏の途中(楽章と楽章のはざまも含めて)で
拍手したり笑ったりしててはいけないとされてる)になってるので、
"見得を切りすぎ"ては安っぽくなるので興ざめになる。
というか間違いである。ところが、
そんなのが「いい」という手合いがまた多いのである。
トスカニーニやボスコフスキーよりフルトヴェングラーやカルロス・クライバーのほうが
"はるか多く"に支持される由縁である。
そんな提供者と享受者との関係で成り立つ音楽など、もはや
"クラシック音楽"ではない。大衆向けの"ポップス"である。
ベートーヴェンやチャイコフスキーの音楽のような超絶の天才が創り出した
最高峰の音楽で、
庶民大衆向け演劇である歌舞伎の見得切りのようなことを讃美しては、
サーヴィス料が含まれてるチャージに、別途(ベット)、チップを添える愚であり、
その認識レヴェルを見透かされてカネを毟り取られるカモと同じで、
エセ芸術をつかまされるだけで、その頭で、
真のベートーヴェン、本当のチャイコフスキーを味わうことなど、無理である。
それはともかく、そうはいっても、
融通がきかない機械のようにただ楽譜そのままを再現しても、
それはヒトの感情の揺れになじむものではない。とはいえ、
それをはき違えて、作曲家が指示してないことを挿し挟もうとする
身の程知らずの不届き者があとを絶たない。
その愚行がどんなに作品の意図を曲げても、自分こそが
"新たな可能性"を追求する"芸術家"だと思いこむ。
一般的なIQテストで120さえもいかないくせに。

「クラシック音楽はインテリが聴くもの」という認識がされてるのは、
あながち的外れではない。私のような
無学・低学歴という例外は、もちろんある。が、
いわゆるインテリにもピンからキリまである。当然ながら、
キリ寄りが多い。そういう手合いは、
チャイコフスキーの音楽に「ロシアの大地」を感じたいらしい。が、
チャイコフスキーは祖父が下級貴族に列せられたその傍流の、
いわば貴族に準じる身分の家に育ち、
使用人はいたが、農奴も持たず領地もなかったので、
自然は愛しただろうが、「ロシアの大地」への執着などなかった。
自分で麦を育てたこともなければ、ブタにエサをやったこともないし、
自分の荷物を運んだこともなかった。また、
確かにロシアの大地は広いかもしれないが、
ヒトの目に入る面積は北海道の大地と同じどころか、
通天閣から見下ろした視界に入る大阪市街の広さと
それほど変わらないはずである。

その人物の名をgoogleの検索欄に打ち込むと、
「誤訳」という項目がすぐさま自動的に補われる人物が、
チャイコフスキーを"はじめとする"ロシア音楽を紹介する新書を出したらしい。
きれいなおねえさんがたのブログやツイッターを拝見するのが私の
楽しみのひとつである。が、
顔が好きで添付されてる写真を見たいからブログを覗く、
ということも多い。顔が魅力的でも
文章はまったくつまらないヒトというのは、
存外に多い。また、
ネタそのもののつまらなさもさることながら、
文章力のない御仁もけっこういる。
音楽や美術と違って文章は誰もが「すなる」ものである。だから、
安易に手を染めやすい。が、
文学的なセンスや言い回しのコツが備わってないむきが
文を書いたりすると、目も当てられないものになる。そして、
その才のなさに本人が気づいてなさそうなことがよくある。また、
いい歳になっても話し言葉を一般的な抑揚で話さないのや
幼少期に訛りのきつい地域で育ったのや、
インテリを気取ってことさら小難しい言い回しや単語を使いたがるのにも、
話し言葉の思考のままが文章になってしまう書き言葉下手が多い。
ショスタコーヴィチ程度の音楽のことさえ知らない輩が、
他人様から銭を取るようなものでチャイコフスキーをカタるなど、
無礼である。

他方、
昨年初め頃に発行された一ツ橋村系の
"ビジネス情報誌"に掲載されてたものが、最近、
ネットにアップされたらしい。これもまた、
チャイコフスキーに関してトンデモ内容を書いてる。まず、
<チャイコフスキーが、50代で死んだことはあまり知られていない>
のだという。確かに間違ってない。が、
それではベートーヴェンが50代で死んだことは
けっこう知られてるのか?
バッハが60代半ばで死んだことは?
歴史上の人物が何歳で死んだかなんてそれほど
覚えられてることではない。べつに
チャイコフスキーに限ったことではない。
<藝術家は苦悩の人生を送ることが多い>
と筆者は書いてるが、結婚して子をもうけ、
けっこうな収入と見栄と権威を手に入れてる
"エセ芸術家"のほうがはるかに多い。本来、
「致命的な苦悩や欠落事由があるから創作を補償行為」とした
「結果」が一般人にとってはありがたい「芸術」となるのであって、
「私は"芸術家"だ」などという手合いの"芸術"まで
"芸術"に含ましてるから、混同する者が出てくるのである。
ともあれ、この筆者は、
<今なお、その音楽が、クラシックの「通」の間で
バカにされることがあるからである。
音楽研究家とか批評家でチャイコフスキーが好きだなどと
言おうものならバカにされる>
と書く。が、それはせいぜい20世紀までの話であり、
ネット時代に入ったここ10年余で、"裸の王様"はかなり姿を消した。
現在ではチャイコフスキーの音楽はむしろバカにする者のほうが
恥ずかしいくらいである。で、
この筆者はそのコラムのタイトルを
<「チャイコフスキー」なぜインテリに侮られるのか>
とその原因を紐解いてるもののようにしときながら、その答えは、
<人気があるものはバカにしたがるのがインテリ>
という、何の考察にも説明にもなってない代物である。なにしろ、
<ピアノ協奏曲は、いかにも通俗だと思ったが、ポゴレリッチの演奏で見直した>
などというセンスの持ち主である。チャイコフスキー本人が聴いたら
ポゴレリッチというよりはモーコレッキリにしろと怒り心頭間違いないような、
弾きっぷりがこの筆者の感性にしっくりくるようである。
こんな不必要にグズな演奏ではテンポ感もリズム感もへったくれもない。
音楽へのセンスがまるでない"演奏"である。ちなみに、
このコラムが掲載されたときのその雑誌の特集のキャッチは奇しくも、
<「グズな人」はなぜ、グズなのか>
だった。それから筆者は、
<文学者の場合、同性愛者だと、その味が作品にも出るものだが、
チャイコフスキーの曲には、一向に同性愛者の匂いがしない。
むしろシューベルトの歌曲などのほうが、同性愛者的に聴こえるほどである>
と主張する。論理的でない文章を私なりに解釈すると、こういうことだろう。
「文学では同性愛者はその作品に同性愛者らしいところが出ることが多い。が、
チャイコフスキーの音楽にはそのようなところがない。むしろ、
シューベルトの作品全般ではないにしろ少なくとも歌曲には
同性愛者らしいところが感じられる」
これはチャイコフスキーが同性愛者だったことは自明、かつ、シューベルトは非同性愛者だった、
という前提が暗黙の了解となってるようである。ところが、
前者が同性愛者だったかどうかは実は完全に証明されたわけではない。また、
後者が非同性愛者だったかどうかもしかとは判ってないのである。それから、
文学の場合の同性愛者臭を的確に言及してないし例も挙げてない。
いっぽうで「文学」という一般を、そして、
他方で「チャイコフスキーとシューベルト」(のそれもリートだけにかぎって)のみの
特殊を論じてる、という比較対象の破綻が痛い。また、
<チャイコフスキーは一度結婚しているが、すぐ別れて、あとはずっと独身であった>
という「事実誤認」がもっと罪深いのである。この論調は明らかに
「法律的な別れ」つまり「離婚」のことを言ってるのであり、
「別居」や「離別」のことではない。
銭を払って雑誌を買って読んだ無垢な読者が
誤った知識を植えつけられてしまうおそれが大きい。私は素人ながらに
チャイコフスキーの音楽のファンを50年近く続けてるが、
「チャイコフスキーが離婚した」などという事実は一度も聞いたためしがない。むしろ、
「チャイコフスキーの婚姻」ということに関しては、
当時のロシア(正教)での離婚条件は極めて限定されてるものだったので、
「チャイコフスキーは離婚したくてもできなった」「離婚をついに諦めた」
ということで「有名」なのである。そんな有名な逸話も知らないくせに、
対価を得て、つまりは人様から銭を取って書く、
ということを平気でする神経を怖く思う。
さて、このコラムの結びである。
<批評家が何と言おうと、チャイコフスキーは人々に愛されている>
タイトルから推論するに、この「批評家」が「インテリ」であり、
文中の「クラシック通」=「チャイコフスキーの音楽をバカにする人々」という
命題に則せば、「批評家」=「クラシック通」=「インテリ」ということになる。いっぽう、
「人々」が「非インテリ」ということになる。なるほど、
私はチャイコフスキーの音楽が好きな「人々」のひとりであり、実際に
「非インテリ」である。その範囲においては正しい、ように見える。がしかし、
「チャイコフスキーがなぜか好き」な翻訳の大家の大先生は
東京外国語大という旧二期校ながら我が国の外国語専門分野では
随一の大学を卒業してその学長にまでおさまり、
旧ソ連とも関係深く、最近では、北方領土に関して
日本に示威的な行為をとったメドヴィェージェフ大統領から
プーシキン・メダルを授与され、「ショスタコーヴィチ」や「チャイコフスキー」のみならず、
いわゆるロシア人作曲家の多くについて本を出せるほどの超インテリである。
例外?
否、論理において例外などというものはない。あるとすればそれは、
「矛盾」であり、その論理が誤ってる、ということだけである。ちなみに、
インテリ女性と結婚のようなこともされたという筆者とはまったく違い、
私は論理派とは対極の拙脳の持ち主であり、顔が超キモいために
ロンリーな人生を送ってる、生物として見事に哀れな惨敗者である。
庶民の税金が助成金にまわされてそれに支えられて国立大を出たら、
その恩義に報いなければヒトとしてなっちゃない。もしも世の中に
恩知らず、恩を返さない輩がいたとしたら、
エサにありつくために尻尾を振る畜獣とどこか違うだろうか。ちなみに、
こいつらは二人ともに、
"御幼少のみぎりに「くるみ割り人形」を聴いて
チャイコフスキーの音楽に魅了された"
のだという。
納得ラッカー。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「耳だれ雨だれは初版の調べ(... | トップ | 「2着ではあったけど復活祭は... »

コメントを投稿

チャイコ全般(6つの目のチャイコロジー」カテゴリの最新記事