チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「写楽デビュー役者大首絵の点数28という奇妙な数字/特別展『写楽』(国立博物館平成館)」

2011年05月26日 00時43分52秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる
「トリスタン和音」が機能和声崩壊の端緒だ(その真偽はともかく)として、
この和音を著名にしたのは、スイスの音楽学者
Ernst Kurth(エアンスト・クアト/いわゆるエルンスト・クルト、1886-1946)だった。
他方、
"Sharaku"(1910)を著して写楽を絶賛したのは、ドイツ人
Julius Kurth(ユリウス・クルト1870~1945)だった。

寛政6年(およそ、西暦1794年)5月、
役者大首絵28枚によって蔦重からデビューし、その後、
第2期、第3期、そして、翌年正月の第4期と、たった
10箇月ほどの間(閏11月がある)に140種強の浮世絵版画を描き、
そのあとプツリと姿を消した覆面絵師東洲斎写楽の、
<ほとんどすべての作品を網羅する夢のラインアップ>
というのが謳い文句の展示が、東京・上野の
国立博物館平成館で現在開催されてる。

その写楽のデビューである役者大首絵は、すべて、
「大判」である。浮世絵の判型は時代によっても差異があるが、
「大奉書」の縦半裁が「大判」サイズで、
現在の度量衡でおよそ39cm*26.5cmである。そして、すべてが、
「大首絵」(おおくびえ)と呼ばれる、
胸から上だけを描くフレイミングである。さらに、
「28」点すべてに「黒雲母摺(くろきらずり)」あるいは
単に「雲母摺(きらずり)」と呼ばれる、
人物の背景を「雲母(うんも)」でベタ塗りして
独特の光沢をもたせる工夫が施されてる。

で、
「なぜ、写楽デビューは役者大首絵で28点だったのか?」
といえば、
大「首」絵。「きら」ずり。28(=「4*7」)。
つまり、
「吉良」と「47士」
という語呂合わせである。3年前、ギリシャのコルフ島の美術館で
"見つかった"といわれる"写楽唯一"の肉筆であるという扇面画には、
「仮名手本忠臣蔵」の一場面、
4世松本幸四郎の加古川本蔵と松本米三郎の小浪が描かれてる。

ところで、
第3期に描いた相撲絵の真ん中の子供、
大童山文五郎は、吉良の親類上杉の米沢と同じく
出羽国出身(村山郡長瀞村)であり、
名字は「塩」野だった。

ちなみに、
吉良家の筆頭家老は、「斎藤」宮内忠長である。
浅野の浪人が討ち入った"吉良邸"で応戦し、鎗傷を受けた者に、
取次15両3人扶持「斎藤十郎兵衛」(二十五歳)という家臣がいた。
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