チャイコフスキー スペードの女王
クラのソロがリテヌートかつ息が漏レンドくらい弱まり(「pppp」)、
→アンダーンテ・ソステヌート、5♭。
アカペラの4声部男声合掌が、パニヒーダを厳かに執りおこなう。
「ガスポーチ(主よ)、プラスチー(許し給え)・イェムー(ヤツを)、
イ(そして)、ウパコーィ(永遠の安らぎを与え給え)・
イェヴォー(ヤツの)・ミャチェージュヌユ(悩みぬいた)・
イ(そして)・イズムーチェンヌユ(苦しみぬいた)・ドゥーシュ(魂に)」
(変ニ長)♪ソー|ソーーー・ーーソー|<ドーード・ドーーー|ーー
ドー・ドードー|<レーー>ド・>ラー
<ドー|<ファーー>ミ・>レーーー|ーー
レー・ーーレー|<ミーー>ド・ドードー|
<レーーー・ーーーー|<ミーーー・ー♪
万感迫り来る、息がつまるほど心揺さぶられる挽歌である。が、
チャイコフスキーの研ぎ澄ませれた感性の凄味は、それで終わらない。
挽歌の終わりの音と同時に幕が静かに降りてくると、
その挽歌とバトンタッチするように、
管弦がこの世のものとは思えぬ9小節の「愛の主題」の残骸を、
奏ではじめるのである。ちなみに、変ニ長の結び、といえば、
「マゼッパ」における、マリーヤの「救いのない子守歌」が参照される。
♪ド>シ>ラ>ソ|<ラーー<シ|<ミー>ソー♪
それはともかくも、この「スペードの女王」の結びは、
ファゴ、バストロ&バスチュー、トレモロのティン、とコンバスが
主音を通奏で支えつづける上で、
「ドルチッスィモ」と指定された弱音器具着け弦(コンバ以外)が、
繊細に、かつ情念を込めて、擦りだすのである。「愛の主題」の残骸は、
ヒトが決して見ることができない世界のヴァージョンにアレンジされてる。
(変ニ長)♪○【♯ファ<ソ<ラ・ラン】>ソソー|
○<シ<ド<レ・レン>ドドー|
○<レ<♭ミ<ファ・ファン>♭ミ♭ミー|
ーー<Nミーーー<ファー|
○○<ソーーー<♭ラー|
ーー>ソー>ミー>ドー|
>ソー>ミー>ドー○○|
>ドーーー・ーードー|
ドーーーー(「pppp」)♪
最後の変ニ長の主和音を引き伸ばしてはいけない。が、
指揮者という連中は一様に必ず伸ばすのである。そんな愚挙が平気でできるのは、
チャイコフスキーの音楽をまったく理解してない、という証である。少なくとも、
「2分音符+8分音符の長さ」どおりに切り上げることで生じる
「はかなさ」と「余韻」の妙に対して鈍感である。ところで、
上記の階名【♯ファ<ソ<ラ】部分は、音名でいえば【ト<変イ<変ロ】である。
これは「変ホ長」の♪ミ<ファ<ソ♪とscanすることができる。
モーツァルトの「39番交響曲」の終章、
♪ミ<ファ|<ソ>ファ(>ミ>レ>ドッ○<レッ○|>ソーー♪である。
また、次のオペラ「イョラーンタ」とその同時上演の「ハシバミ割り人形」の
最初の音と最後の音を並べると、「g→as→b→b」。
これは「変ホ長」の♪ミ<ファ<ソ→ソ♪とscanすることができる。
チャイコフスキーの深層に、変ホ長の♪ミ<ファ<ソ<ソ♪が
流れてる、ということもあるかもしれない。
それらはともかくも、大バッハの「受難曲」にまでマタイで遡れる、
ベート-フェンの「悲愴ソナタ」由来の「3度上がって2度下がる」という
「365歩マーチ・コンセプト」の「愛の主題」は、
「ただそれを知るもののみ」が継承できるのである。それは、19世紀後半、
ヴァーグナーの「トリ&イゾ」の「愛の動機」
♪ラ<シン<ド|ドー>レ<【ド<レン<ミ|ミー>レー】<ミン<ファ|
<ソ>ド<♭シー>ラン>ソ|ソ>ファン>ミ♪
を経由して「スペードの女王」に繋げられた。そして、さらには
「ハシバミ割り人形」「悲愴交響曲」へと伝えられ磨かれた、
チャイコフスキーの天分きらめくものである。ここで、
また「スペードの女王・結び」に立ち返ると、この最後の9小節への、
和声、楽器の音色づかい、アーティキュレイション、抑揚、
どれもが最良なのである。とくに、クラリネットとトランペットの
弱音での「クラリーノ音」の効果。人の死、人の生命の尊厳を、
これほど痛ましく、それでいて深い慈愛で表した音楽はない。
幽玄の世界、白銀の世界、有と無の二面あるいは境界、光速の世界、
どんな言葉も的を射ることはできない。チャイコフスキーが書いた
数多い傑出した音楽の中でも、とくに秀でたものである。
ここを聴いて胸の奥から「熱い感情」がこみ上げてこないむきは、
ヒトが備えててしかるべき情操が欠如してる可能性、
を疑ってみてもけっして無意義ではない。ときに、
世の中で大惨事が起こると、このときとばかりに「心痛む」と表する輩がある。
だが、そいつは被災したかたや被害を受けたかたに、
立場を入れ替わってやっただろうか? 全財産をはたいて義捐しただろうか?
事故や事件、犯罪をナクスような働きをなにかしただろうか?
すべて、否、である。口先だけである。口で言うだけなら、
カネがかからない。タダである。心痛めてる、といいながら、
飯も食えば糞もしてるのである。なんのことはない、通常どおり、
日常生活を送ってるのである。呆れた輩である。もとより、
ヒトビトの幸せ、世の平和を唱えるのは、天皇、ローマ法王のような
やんごとなきかたがたのお役目である。僭越である。不遜である。無礼である。
いっぽうで、石油その他の資源に無関係ゆえに報道されなければ、
そこに存在する悲惨・不幸のことはいっさい口にしないのである。
善人ヅラで近寄ってくる悪党に騙されてはつまらない。といって、
本物を見極める洞察力は鍛錬して身につけれるものでもないのが、
めぐりのよくないむきにはつらいところである。くら音において、
無意味な引用もしくは他人の作品を自作と混同してしまう程度のオツムの弱い
「似非作曲家」の「まがい物」に感動してしまうのとよく似てるのである。
アヘンを吸ってラリってても、「ワルプルギスの夜の夢」を書いた
ベルリオーズは「本物」である。ところで、天皇賞の5月1日は、
ドヴォルジャークの「命日」である。また、間寛平のギャグ、
「カイィ~ノ……ガイィ~ヌ」で知られる「作曲家」の「メイ日」でもある。
ガイィ~ヌに手を噛まれないよう、注意されたい。
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