チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「雷雨の中のレールモントフ惨死/プーシキンになりたかった男(その壱)」

2011年07月27日 00時51分58秒 | 事実は小説より日記なりや?
♪ゲェーーッ、ゲェーーッ、ゲェーッゲ、ゲェーッの、ゲェーーッ……
 ノルウェーにゃーーっ、しーけいも、しゅーしんけいも、ナイっ♪
という法に対して犯人は、
♪ありがとおぉーーーーーってつ、たーえーたーくーてぇー♪
オスロで爆破およびウトヤ島で銃乱射事件を起こしたかどうかは、
事故車両を土中に埋めて即運転を再開してしまう中国共産党の神経と、
北朝鮮と"連携して"日本の政治を行なってる菅直人以下
なりすまし日本人民主党員の性根とでは、
どちらがあくどいか判別がつかない拙脳なる私には判るはずもない。
日本を貶めるのが目的の民主党が政権を握って以降、
法務大臣には北朝鮮のシンパを就けてきた。そして、
自身の延命を図るために、頭の弱い反原発市民を煽って、
反原発に世間の目をそらす作戦を採ってきた。
今度はあのオウム真理教の理論の支柱である中沢新一のオトモダチである
左翼半日活動家坂本龍一に週刊文春が反原発の記事を書かせた。
自動車には乗らず電車を利用して省エネしてるそうで、
ごたいそうなことである。それなら、電気を使う
レコーディングもやらないほうがいい。ちなみに、
地対地ミサイルを日本に向けてるのは、
ロシア、中国、北朝鮮であり、
艦対地ミサイルでただちに日本を狙える国は、
上記の他にアメリカ、イギリス、フランス、南朝鮮(韓国)である。

7月27日は現行暦換算、いわゆる
ミハイル・ユーリエヴィチ・レールモントフ
(Михаил Юрьевич Лермонтов
=ミハイール・ユーリイヴィチ・リェールマンタフ、1814-1841)の命日である。
マリリン・モンロウ(1926-1962)同様に、生年と没年の下二桁の数字が
置き換えられた形になってる人物である。現在、
日本でほとんど顧みられないロシアの詩人・作家である。ただ、
浅田真央女史がまだ全盛だった頃に
ハチャトゥリャンの劇音楽組曲「仮面舞踏会」のヴァルスを用いたが、その
戯曲"Маскарад(マスカラート、1835-36)"の
「原作者」として一般にもわずかに知られてるだけである。
チャイコフスキーも歌曲においては
レールモントフにはただ1篇にのみ曲をつけただけである。
それはチャイコフスキーの歌曲の傑作の宝庫、弟アナトーリーに献呈された、
「6つのロマンス(op.38)」(1878年作曲)の第5曲、
"Любовь Мертвеца(リュボーフィ・ミィルトヴィェーツァ=死者の愛)"
であるが、この曲自体は凡庸である。ちなみに、
この詩はレールモントフ最後の年に書かれたものである。ともあれ、
レールモントフは退役陸軍大尉を父にモスクワで生まれた。
ロシアの貴族の多く同様に外国人の家系で、
Learmonthというサーネイムを持つスコットランド人を父方の祖先に持つ、
小領主の軍人貴族である。いっぽう、
母方はアルスィェーニエフ家という広大な領地を持つ地主貴族である。
レールモントフには帝政ロシア末期の首相を排出することになる名門貴族
ストルィーピン(いわゆるストルイピン)家の血も入ってる(母の母の父)。
レールモントフが3歳のときに母親が21歳で結核のために死んだ。
母の母(エリザヴィェータ・アリクスェーエヴナ・ストルィーピナ→アルスィェーニエヴァ)が
レールモントフを引き取ることになる。
エリザヴィェータと仲がよくなかった父はひとり、
自分の領地に行ってしまう。つまり、
レールモントフは母も、そして父の愛情も知らないで、
祖母のもとで育てられた典型的なおばあちゃん子である。

1828年、14歳になる年にモスクワ大附属のペンション(寄宿学校)に編入して、
1830年、16歳になる年にモスクワ大の政治学部に入り、やがて文学部に移る。が、
1831年、17歳になる年に祖母と常に対立してた父が心臓発作で死ぬ。
1832年、18歳になる年に教授と諍い、退学する。そして、近衛士官学校に入学。
1834年、20歳になる年に卒業して少尉任官。近衛兵としてツァールスコエ・セロー勤務。
博打、酒、女、という放蕩生活の中に置かれる。いっぽうで、
詩作にも力を注ぐ。
1835年、21歳になる年、5年前の16歳の大学生だったときに恋して傷つけられた
Екатерина Александровна Сушкова
(エカチェリーナ・アリクサーンドラヴナ・スーシカヴァ、1812-1868)が、
本当に好きだった女性ヴァーレニカの兄と婚約したことを知る。
自尊心を傷つけられた復讐をするために、エカチェリーナに言い寄り、
その気にさせてモノにする。そして、その"尻軽女ぶり"の事実を
エカチェリーナの家に匿名で送りつける。が、
当然にレールモントフの仕業とバレ、出入り禁止に。
エカチェリーナはペテルブルクを去る(後年、回想録を執筆)。いっぽう、
レールモントフの最愛の女性ヴァーレニカすなわち、
Варвара Александровна Лопухина
(ヴァルヴァーラ・アリクサーンドラヴナ・ラプーヒナ、1815-1851、彼女も
生年と没年の西暦の下二桁の数字が置き換わった例)は、
17歳も年上の裕福な地主オヤジと結婚してしまう。

ここらへんの事情は、プーシキンの韻文小説、いわゆる
「エヴゲニー・オネーギン」における、友人レンスキーの恋人オーリガに対する
"ちょっかい"や、その姉タチヤーナの公爵との結婚、などを
なぞってるのである。まるで、
プーシキンが描いた作品の中の主役
=オネーギン
=ペチョーリン
=我らが時代の主人公
=Герой нашего времени
(ギローィ・ナーシェヴァ・ヴリェーメニ)
を自らが現実の中で演じみせてるかのようである。ともあれ、
この騒動の年の暮、
戯曲「仮面舞踏会」を完成させる。そして、
1837年、23歳になる年、プーシキンが謀られた決闘で死ぬと、
"Смерть поэта(スミェールチ・パエータ=詩人の死)"
という詩を書いて宮廷を非難し、一躍、時代の寵児となった。が、
それは同時に、プーシキン以上の"厄介者"として
ツァーリ「ニコライ1世」の不興を招くことになったのである。
逮捕され調査されたのち、ツァーリ自らの命令で最前線送りにされる。
この後、名門貴族の祖母らの尽力で最前線からリトアニアに転属となる。
次いで、ツァーリ自らの命によって近衛兵として復帰させられる。
その直後、外国に旅立つ最愛の女性ヴァーレニカと最後の再会をする。
1839年大晦日、25歳のとき、新年仮面舞踏会で、
ツァーリの長女と次女に対して不敬な言葉を吐き、
それが憲兵隊長に告げ口されツァーリに伝えられる。
1840年、26歳になる年、フランス公使の息子と決闘し、逮捕される。
これが決定的になってツァーリの怒りは限界を超える。
ツァーリの意向で、最前線中の最前線であるカフカースに送られる。
そこで「現代の英雄」を執筆しながら、
ロシアに対する憎しみが半端でない強敵チェチェンを相手に
手柄をあげ、昇進までするのである。そして、
またしても祖母の働きかけで年末に2箇月の休暇を与えられる。
そして、最後の年である1841年、27歳になるはずだった年、
モスクワ、そしてペテルブルグに戻る。
舞踏会に足を運ぶ。

執筆活動に専念すべく除隊を希望するも、却下。
4月、参謀本部に召還。任地へのすみやかなる帰還命令を受ける。
ペテルブルクを発つも、途中で寄り道。北カフカースの湯治場
ピャチゴールスクで古傷の治療と称して帰還を遅らせる。が、6月、
「いかなる理由があろうとも、レールモントフを最前線に就かせること」
と参謀本部からカフカースの軍事司令部に命令が下る。
7月、ピャチゴールスクで近衛士官学校の級友と口論、決闘を挑まれ、受ける。
7月15日(現行暦7月27日)夕、マシューク山麓で短銃による決闘が行われる。
レールモントフは決闘を申し込まれた側の権利として、
先に発砲する権利があった。が、
フランス公使の息子とのときと同様に、天に向けて発砲。
相手はそのあとレールモントフにしかと狙いを定めた。
弾はレールモントフの心臓を撃ち抜く。即死だった。当日は、
激しい雷鳴が轟いてて、介添人をはじめとする立会人はみな、
レールモントフの死体を置き去りにして逃げてしまった。
夜になってからやっと死体は運ばれた。が、
ツァーリを恐れたピャチゴールスクの教会は、
レールモントフの葬儀を執り行うことを拒否した。
こうして、レールモントフは26歳の生涯を終えた。が、
それはレールモントフが望んだことだったにちがいない。
仕組まれた決闘で殺されたプーシキンになりたかったのである。
母親を知らず、父と祖母の諍いの中で幼少期を過ごした多感な男は、
「余計者」「はみだし者」として消えるしか他に
選択肢はなかったのである。他に選択肢があったのに、
北朝鮮や中国、ロシアに国を売る輩に投票した
バカな日本人も同様の運命を辿るにちがいない。
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