普段の私はチャイコフスキーマニアであることも
オヤジギャガーであることも周囲にはひた隠しにしてるので、我が
チャイコロジーもこのブログでしか発散してない。平素は
熊さんも出さないのである。ところが、先日、
「○○○さんって、オペラに詳しいって聞いたんですけど」
と、とある分野の偏執者の若者に訊かれてしまった。うろたえて、
「オ、オ、オペラじゃなくて、リ、リ、リカ。リカちゃん人形には詳しいけど」
と、吃音まじりの機転の利かない答えをしてしまった。どこから漏れたのか。
「あ、ああ、昔、金持ちのボンボンと仲良しだったから、
そいつの影響でちょっとだけなら知ってるってだけだよ」
「最近、急にオペラに興味が出てきちゃって。でも、周りには
ロックとかジャズ好きな人はいてもオペラには詳しい人がいないから」
ということなのだそうである。なんでも、
パヴァロッティの「ネッスン・ドルマ」を聴いて、
「目が覚めるほど」驚いたのだそうだ。
「クラシック音楽っていうのはすごいですね」
そこで、つい、フジtvの「ピンポンパン」は
「トゥーランドット」の3役人の名から採ったんだよ、とか、
知識をひけらかしたくなってしまった。が、考えたら
ママロッティと遊ぼうピンポンパン体操も知らない年代である。ぐっとこらえて、
「プッチーニって、オーケストラへのアレンジがすこぶる巧かったらしいよ」
とだけ答えておいた。
「だから、あのアリアでも、最後のクライマックス前に、ほら、
女声の合唱がささやくように歌うところがあるでしょ。そのとき
ヴァイオリンなんかが小刻みに助勢してるでしょ」
「ええ」
「あれ、『体がゾクゾク震える』ほどに効果的らしいね」
「ああ、そうなんですか」
「って、それくらいしか知らないや。役に立たなくて悪いね」
若者は私がたいして知らないと信用したみたいである。また
『隠しオヤジギャグ』にも気づかなかったようだった。が、
それでよかったのである。ときに、オペラといえば、
「ペラ」2500円の「売文夫」だった頃が懐かしい。あの頃は
富士通の「親指シフト」の「ワープロ」に向かって
猛烈な速さで文永煎餅を焼いてたものだが、
原稿用紙も「ペラ」なんて言葉もなくなった今では、
1回まとめて200個の弘安煎餅焼きが月3件、月収6万という、
超ビンボー生活である。この季節でも、とても、
「日本橋三越」に出向いて中元を手配する稼ぎはない。ときに、
昭和24年の今日は下山事件が起きた日なのだそうである。
轢死現場は綾瀬だったが、赤ちゃんをあやせば、そこは
乳児ランドである。ニュー・ズィーランドの首都は
ウェリントンであるが、それは初代ウェリントン公爵の爵名に由来する。
のちの初代ウェリントン公爵アーサー・ウェズリーは、
1769年にダブリンで生まれたそうである。ダブリン生まれだからといって
アイルランド人とは限らないが、イングランド人かどうかも、
ムンクの「叫び」の人物の顔の形とインド料理のナンと山手線の軌道、
の区別もつけがたい拙い脳の私は知らない。が、ともあれ、
明和6年、ウェリントン公は甘藷先生青木昆陽が死んだ年に生まれた。
奇しくもナポレオンと同い年である。ところで、
イートン校在学者および卒業者を「イトウニアン」と言うそうであるが、
ハトヤの宿泊者もそう呼ぶかどうかは、イートン校の代表電話番号が
4126であるかどうかによる。ウェリントン公は、
イートン校は中退だし西日暮里の開成高校も出てないが、
ウェズリーから改姓してウェルズリーとなり、陸軍士官学校に入った。
それからの人生は順風満帆である。もともと、
子爵から伯爵になった家の三男坊に生まれ、自身も子爵、伯爵、侯爵と
順次昇爵し、1814年には公爵を叙爵。陸軍では32歳で少将、
39歳で中将、44歳で元帥。そして、政治家としても、
ヴィーン会議特命全権大使、英国首相、と、
絵に描いたような出世男である。ただひとつ、やなこと、といえば、
1830年のリヴァプール-マンチェスター鉄道開通式当日である。
パークサイド駅に停車中、鉄道会社の注意を無視して、車内の来賓
ウェリントン公爵首相に車窓の外の反対車線上から挨拶しようと下車した議員が
反対列車が近づいてきて慌てて転び、逃げ遅れて足を轢かれて死亡した、
というレキシ的事故が起きてしまったのである。それでも、
アーサー・ウェルズリーは栄光に包まれた83年の生涯を送った、
幸せな人物だった。ところで、
ウェリントン公爵家はこのアーサー・ウェルズリーを初代とする。が、
現在、王族公爵家5家および別格3家を除く英国公爵家27家の中で、
「席次」第22番という「下っ端」公爵家なのである。そもそも、
英国の爵位は「公>侯>伯>子>男」であるが、
「連合王国」である英国の成立事情どおり、それぞれの爵家には、
「イングランド位」>「スコットランド位」>「グレイト・ブリテン位」
>「アイルランド位」>「連合王国位」
という5つの序列(ピアリッジ)があるのである。叙爵が1814年、と新しい
ウェリントン公爵家は、このうちの
「連合王国公家」という最下位序列なのである。ちなみに、
競馬で知られるダービー伯爵家は、シュロウズブリー伯爵家に次ぐ、
イングランド伯爵位の次席である。同家は「名門」なのだが公爵ではない。
公爵位叙爵を断った、という「エピソウド」を持つことでも有名である。
スコットランド公爵位第2のハミルトン公爵家の第5代公爵の長女、
エリザベス・ダグラス=ハミルトンと結婚した
第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの
別荘「ディ・オウクス」で結婚祝いに3歳牝馬の競走が提案された。それが、
「ディ・オウクス」である。ただし、ダービー伯と「オウクスの処女」
とまで呼ばれたエリザベスは、のちに離婚することになるのである。
例によって、だいぶ話が逸れてしまったが、
栄光に包まれたウェリントン公爵の人生の中でもその頂点は、
「ワーテルローの戦い」の勝利である。
1815年6月18日、大雨後の不良馬場。ウェリントン公は
フランス軍の挑発にけっしてのらなかった。それが
あざとい陽動作戦であることなど、先刻承知だったのである。
フランス軍歩兵の突撃開始で戦闘が始まり、連合軍の中の
ベルギー軍が早くも逃げ出す。が、ノブレスオブリージュの精神を
身につけてる英国は、司令官であるピクトン中将自らが戦死しながらも、
その穴を埋めるのである。臆するのは英国兵も同じである。
五十歩百歩という言葉は実戦においては厳密には正しくない。
百歩逃げるほうが、はるかに命拾いするのである。が、
英国のノブレスオブリージュが他国と違うところである。
しもじもはともかく、貴族・准貴族は普段の特権の代わりに、
有事には命を賭けて国体を護持するのである。戦中までの我が国も、
国体護持のために国民は自らを犠牲にしてきた。大東亜戦争で
330万人の日本人が落命して護った国体である。それを、
いとも簡単に途絶えさせようとした者がいる。
330万人の尊い命の犠牲をただの無駄死にしようとする国賊である。
さて、フランス軍の砲撃が始まると、ウェリントン公は英国軍を
防衛自陣まで「転進」させる。が、これを「退却」と、先入観でしか
ものを見れないフランス軍のネー元帥が、歩兵の集合を待たずに、
騎兵だけで突撃してしまうのである。騎兵突撃隊に、
20の歩兵方陣を組んでただ一斉射撃でひたすら耐える英国軍。
歩兵の援護射撃なしに騎兵だけで突撃しても効果がないことを
ネーは知らなかったのである。これでも戦争のプロの軍人なのである。と、
柘植久慶の著書を読むと、ナポレオンの冴えのなさや、
部下が意外に無能だったことが手に取るようにわかるのである。逆に、
ウェリントン公の臨機応変な手配は、勝つべくして勝った、と思わせる。
ちなみに、ネーは戦後、ルイ18世によって銃殺による死刑に処せられる。
さて、プロイセン軍の到来で、戦況は一変し、
ナポレオンの100日天下は終わるのである。
1815年、それはベートーヴェンが「第九」の作曲を開始した年
(9年後の1824年に完成)だった。
オヤジギャガーであることも周囲にはひた隠しにしてるので、我が
チャイコロジーもこのブログでしか発散してない。平素は
熊さんも出さないのである。ところが、先日、
「○○○さんって、オペラに詳しいって聞いたんですけど」
と、とある分野の偏執者の若者に訊かれてしまった。うろたえて、
「オ、オ、オペラじゃなくて、リ、リ、リカ。リカちゃん人形には詳しいけど」
と、吃音まじりの機転の利かない答えをしてしまった。どこから漏れたのか。
「あ、ああ、昔、金持ちのボンボンと仲良しだったから、
そいつの影響でちょっとだけなら知ってるってだけだよ」
「最近、急にオペラに興味が出てきちゃって。でも、周りには
ロックとかジャズ好きな人はいてもオペラには詳しい人がいないから」
ということなのだそうである。なんでも、
パヴァロッティの「ネッスン・ドルマ」を聴いて、
「目が覚めるほど」驚いたのだそうだ。
「クラシック音楽っていうのはすごいですね」
そこで、つい、フジtvの「ピンポンパン」は
「トゥーランドット」の3役人の名から採ったんだよ、とか、
知識をひけらかしたくなってしまった。が、考えたら
ママロッティと遊ぼうピンポンパン体操も知らない年代である。ぐっとこらえて、
「プッチーニって、オーケストラへのアレンジがすこぶる巧かったらしいよ」
とだけ答えておいた。
「だから、あのアリアでも、最後のクライマックス前に、ほら、
女声の合唱がささやくように歌うところがあるでしょ。そのとき
ヴァイオリンなんかが小刻みに助勢してるでしょ」
「ええ」
「あれ、『体がゾクゾク震える』ほどに効果的らしいね」
「ああ、そうなんですか」
「って、それくらいしか知らないや。役に立たなくて悪いね」
若者は私がたいして知らないと信用したみたいである。また
『隠しオヤジギャグ』にも気づかなかったようだった。が、
それでよかったのである。ときに、オペラといえば、
「ペラ」2500円の「売文夫」だった頃が懐かしい。あの頃は
富士通の「親指シフト」の「ワープロ」に向かって
猛烈な速さで文永煎餅を焼いてたものだが、
原稿用紙も「ペラ」なんて言葉もなくなった今では、
1回まとめて200個の弘安煎餅焼きが月3件、月収6万という、
超ビンボー生活である。この季節でも、とても、
「日本橋三越」に出向いて中元を手配する稼ぎはない。ときに、
昭和24年の今日は下山事件が起きた日なのだそうである。
轢死現場は綾瀬だったが、赤ちゃんをあやせば、そこは
乳児ランドである。ニュー・ズィーランドの首都は
ウェリントンであるが、それは初代ウェリントン公爵の爵名に由来する。
のちの初代ウェリントン公爵アーサー・ウェズリーは、
1769年にダブリンで生まれたそうである。ダブリン生まれだからといって
アイルランド人とは限らないが、イングランド人かどうかも、
ムンクの「叫び」の人物の顔の形とインド料理のナンと山手線の軌道、
の区別もつけがたい拙い脳の私は知らない。が、ともあれ、
明和6年、ウェリントン公は甘藷先生青木昆陽が死んだ年に生まれた。
奇しくもナポレオンと同い年である。ところで、
イートン校在学者および卒業者を「イトウニアン」と言うそうであるが、
ハトヤの宿泊者もそう呼ぶかどうかは、イートン校の代表電話番号が
4126であるかどうかによる。ウェリントン公は、
イートン校は中退だし西日暮里の開成高校も出てないが、
ウェズリーから改姓してウェルズリーとなり、陸軍士官学校に入った。
それからの人生は順風満帆である。もともと、
子爵から伯爵になった家の三男坊に生まれ、自身も子爵、伯爵、侯爵と
順次昇爵し、1814年には公爵を叙爵。陸軍では32歳で少将、
39歳で中将、44歳で元帥。そして、政治家としても、
ヴィーン会議特命全権大使、英国首相、と、
絵に描いたような出世男である。ただひとつ、やなこと、といえば、
1830年のリヴァプール-マンチェスター鉄道開通式当日である。
パークサイド駅に停車中、鉄道会社の注意を無視して、車内の来賓
ウェリントン公爵首相に車窓の外の反対車線上から挨拶しようと下車した議員が
反対列車が近づいてきて慌てて転び、逃げ遅れて足を轢かれて死亡した、
というレキシ的事故が起きてしまったのである。それでも、
アーサー・ウェルズリーは栄光に包まれた83年の生涯を送った、
幸せな人物だった。ところで、
ウェリントン公爵家はこのアーサー・ウェルズリーを初代とする。が、
現在、王族公爵家5家および別格3家を除く英国公爵家27家の中で、
「席次」第22番という「下っ端」公爵家なのである。そもそも、
英国の爵位は「公>侯>伯>子>男」であるが、
「連合王国」である英国の成立事情どおり、それぞれの爵家には、
「イングランド位」>「スコットランド位」>「グレイト・ブリテン位」
>「アイルランド位」>「連合王国位」
という5つの序列(ピアリッジ)があるのである。叙爵が1814年、と新しい
ウェリントン公爵家は、このうちの
「連合王国公家」という最下位序列なのである。ちなみに、
競馬で知られるダービー伯爵家は、シュロウズブリー伯爵家に次ぐ、
イングランド伯爵位の次席である。同家は「名門」なのだが公爵ではない。
公爵位叙爵を断った、という「エピソウド」を持つことでも有名である。
スコットランド公爵位第2のハミルトン公爵家の第5代公爵の長女、
エリザベス・ダグラス=ハミルトンと結婚した
第12代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーの
別荘「ディ・オウクス」で結婚祝いに3歳牝馬の競走が提案された。それが、
「ディ・オウクス」である。ただし、ダービー伯と「オウクスの処女」
とまで呼ばれたエリザベスは、のちに離婚することになるのである。
例によって、だいぶ話が逸れてしまったが、
栄光に包まれたウェリントン公爵の人生の中でもその頂点は、
「ワーテルローの戦い」の勝利である。
1815年6月18日、大雨後の不良馬場。ウェリントン公は
フランス軍の挑発にけっしてのらなかった。それが
あざとい陽動作戦であることなど、先刻承知だったのである。
フランス軍歩兵の突撃開始で戦闘が始まり、連合軍の中の
ベルギー軍が早くも逃げ出す。が、ノブレスオブリージュの精神を
身につけてる英国は、司令官であるピクトン中将自らが戦死しながらも、
その穴を埋めるのである。臆するのは英国兵も同じである。
五十歩百歩という言葉は実戦においては厳密には正しくない。
百歩逃げるほうが、はるかに命拾いするのである。が、
英国のノブレスオブリージュが他国と違うところである。
しもじもはともかく、貴族・准貴族は普段の特権の代わりに、
有事には命を賭けて国体を護持するのである。戦中までの我が国も、
国体護持のために国民は自らを犠牲にしてきた。大東亜戦争で
330万人の日本人が落命して護った国体である。それを、
いとも簡単に途絶えさせようとした者がいる。
330万人の尊い命の犠牲をただの無駄死にしようとする国賊である。
さて、フランス軍の砲撃が始まると、ウェリントン公は英国軍を
防衛自陣まで「転進」させる。が、これを「退却」と、先入観でしか
ものを見れないフランス軍のネー元帥が、歩兵の集合を待たずに、
騎兵だけで突撃してしまうのである。騎兵突撃隊に、
20の歩兵方陣を組んでただ一斉射撃でひたすら耐える英国軍。
歩兵の援護射撃なしに騎兵だけで突撃しても効果がないことを
ネーは知らなかったのである。これでも戦争のプロの軍人なのである。と、
柘植久慶の著書を読むと、ナポレオンの冴えのなさや、
部下が意外に無能だったことが手に取るようにわかるのである。逆に、
ウェリントン公の臨機応変な手配は、勝つべくして勝った、と思わせる。
ちなみに、ネーは戦後、ルイ18世によって銃殺による死刑に処せられる。
さて、プロイセン軍の到来で、戦況は一変し、
ナポレオンの100日天下は終わるのである。
1815年、それはベートーヴェンが「第九」の作曲を開始した年
(9年後の1824年に完成)だった。
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