東映の岡田茂が死んだ。かつて、
東映が任侠映画路線になって時代劇を作らなくなったとき、
大リストラを敢行した人物である。
「時代劇はTVで」というように、
「仮面の忍者赤影」「銭形平次」「素浪人月影兵庫」「日本剣客伝」
などが私が子供の頃にTVで作られ放映されてた。ともあれ、
こういう所謂"業界"では、撮影がおして深夜にまで及ぶことを、
アナログ時計の短針が夜の零時をまわるさまを、
関数グラフの極大(キョクダイ)値で接線の傾きがプラスからマイナスに変じるかのごとく、
「てっぺん」「てっぺん越え」などと言った。
今でもAV女優さんあたりが好んで使う用語なようである。ときに、
米男優の故Gary Cooper(ゲイリー・クーパー、1901-1961)は、
チャイコフスキーとおなじく5月7日が誕生日である。
"The Pride of the Yankees(邦題=打撃王)"(1942)
で、ルー・ゲーリッグを演じたことがある。
団鬼六が好きだったという現代の将棋は「9*9」の盤面で競うが、
野球では、ひとティームのメンバーを「ナイン」という。
さて、
英語の"noon"は、古代ギリシャ語由来のラテン語の序数詞
nonus(ノーヌス、=9番めの)の女性形、
nona(ノーナ)がもとになってる。すなわち、
"nona hora(ノーナ・オーラ、=第9番めの時間)"
="the ninth hour"
である。けっしてホラではない。
朝の6時が一日の始まりだったから、
第9番めの時間は15時である。この時刻に、
カトリックでは礼拝が行われた。ところが、
これが英国ではカトリックに背いたヘンリー8世が
英国国教会を打ち立てると、その礼拝も、
12時に執り行われるようになる。そして、
時計盤も90度まわして、そのまま
12時を"the ninth hour"→"noon"
としてしまったのである。
ちなみに、
nonaは9の倍数接頭辞としても生きてるが、
giga(巨人を意味するgigasギーガス由来の)のほうが
9関連の接頭辞としては一般的である。
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の巨漢女性、
ジゴーニュおばさん(Mere Gigogne)も同源である。いっぽう、
近年流行りのnanoは、小人を意味するnanosナーノスが語源、
ということになってる。が、
孔子と仔牛の別も聞き分けれず、
エヴァ・ロンゴリア女史とアニータの顔も見分けれない拙脳なる私は、
nanoはnonaの業界用語だから「マイナス9乗」なんだと
ずっと間違って思いこんできた。
ともあれ、
米映画"High Noon(邦題=真昼の決闘)"(1952)は、
ゲイリー・クーパーが主演して映画2作めのグレイス・ケリー女史が若妻役を演じた
"西部劇"である。約90分の映画が、
午前10時半から正午までを描いてて、
TVドラマ"24-TWENTY FOUR"の先駆である。といっても、
厳密に時々刻々を描いてるわけではない。ちなみに、
グレイス・ケリー女史の映画デビュー作は"Fourteen Hours"である。
(あらすじ)
1870年のHadleyville(ハドリーヴィル)。
Oregon(オレゴン州)に同名の町が実在するが、この映画では
New Mexico(ニュー・メクスィコウ)にある町と設定されてる。
敬虔なクウェイカー教徒のエイミー(グレイス・ケリー)と結婚した
初老の保安官ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)は、
保安官を辞めて雑貨店でも営むつもりで町を去る矢先だった。が、
5年前に逮捕した無法者ミラーが北部で死刑判決を受けながらも減刑され、
今度は釈放されたという知らせが入る。
ケインを恨むミラーが復讐に来るのは決まってた。
その汽車は正午に到着する。
二人を祝福した民衆は早く町を立ち去るように言う。
ケインも妻のことを思い、一度は馬車で立ち退こうとする。が、
すぐに引き返し、町に戻って保安官のバッジを胸につけ、銃をさげる。
妻のエイミーはかつて父と兄が正義のために悪漢に立ち向かったために
撃ち殺された体験をしてるので、ケインの正義漢ぶりに怒って一人立ち去ると言う。
ケインは味方を募るが誰も与してくれない。
そうするうちに時刻は近づいてくる。そして、
時刻表どおりに汽車が到着し、出迎えた仲間三人とミラーは町にやってくる。
民衆はみな家に引き籠もり、町は静まりかえってる。
町にはケインだけが立ってるのである。そして、ついに
ケインは一人で応戦する。ケインがミラーに声をかけて、
双方が発砲する。すると、ミラーの味方一人だけがケインの弾で死ぬ。
その銃声に夫が殺されたと思ったエイミーは、
いったんは乗車して発車寸前だった汽車から飛び降り、
町に向かって走ってくる。倒れてるのがケインでないと判るとエイミーは、
無人の保安官事務所に入る。ケインは厩でもう一人を倒した。が、
ミラーが厩に火を放ったのでケインは馬を解き放つ。
利き手の左腕を負傷したケインは不利になるが、敬虔なクウェイカー教徒のエイミーが、
窓の中からミラーの仲間の背を打ち抜いた。ところが、
ミラーによってエイミーは人質とされてしまう。
出てくれば女は離し、銃は撃たないというミラーの言葉に、
ケインは姿を現す。が、エイミーがミラーの銃を押さえながら抵抗する間に、
ケインが発砲してミラーを右手の銃で撃ち殺す。
ケインはエイミーを抱き起こし、二人は抱擁する。すかさず、
民衆が出てきてミラーの死を確かめ、二人を遠巻きにする。が、
唯一ケインに助太刀したいと申し出た14歳の少年は、
自分が回してきた馬車に厳しい表情のままのエイミーを乗せる。
ケインは少年にだけ微笑み民衆には冷たい視線を送りながら
胸の「ブリキ製の安っぽい星章」=「保安官バッジ」を右手ではずすと、
地面に払い捨てると、馬車に乗って町から出て行くのだった。
この映画のスタッフはリベラル、つまり、左翼的な思想の持ち主が
大半を占めてた。保安官助手の若者役のロイド・ブリッジズも
共産党員だった。だから、内容も、
政府への批判だと受け止められた。が、結果的には、
卑怯で人間味ある普通の人々=民衆の心理や生態を
誠実に描いてる秀逸な映画となった。が、
一般人に助っ人を頼み、女である妻に助けられるという
西部の男の腰抜けぶりを、ジョン・ウェインは公然と批判した。が、
この映画でオスカーにノミネイトされたが、クーパーは
撮影に入ってて出席できなかった。受賞したら
代わりに受け取ってほしいとクーパーに頼まれたのが、
ウェインだった。クーパーは2度め。ウェインはまだ一度も受賞してない。
ときに、
この映画でクーパーは実際とおなじく、初老の男を演じた。
背が高く足が長い老人が足腰が弱ったうしろ姿ほど、
哀れなものはない。が、
現実のヒーローというものはこんなものである。その点で、
この話にはリアリティがあったといえる。ちなみに、
クーパーの役名はスペルはKaneではあるが、
Cane=杖→ムチ
という語呂合わせ的な寓意を読み取ることもできる。
<汝、殺す勿れ>
父と兄を理不尽にも射殺されて敬虔なクウェイカー教徒になった
エミリーが、夫の正義のために自らの手を汚して
殺人を犯したのである。自分も命の危険に直面し、また、
悪党とはいえ人を殺したがために、エミリーは
「打ち震え(quake)」た。
この話の設定が「日曜日」の「礼拝の時間」である、ということに、
キリスト教国米国の精神が色濃く出てるのである。ちなみに、
自身はカトリックだったものの、グレイス・ケリーは、
全米でもクウェイカー教徒が多いフィラデルフィア出身である。
すでに「てっぺん」をかなり越してしまった。
東映が任侠映画路線になって時代劇を作らなくなったとき、
大リストラを敢行した人物である。
「時代劇はTVで」というように、
「仮面の忍者赤影」「銭形平次」「素浪人月影兵庫」「日本剣客伝」
などが私が子供の頃にTVで作られ放映されてた。ともあれ、
こういう所謂"業界"では、撮影がおして深夜にまで及ぶことを、
アナログ時計の短針が夜の零時をまわるさまを、
関数グラフの極大(キョクダイ)値で接線の傾きがプラスからマイナスに変じるかのごとく、
「てっぺん」「てっぺん越え」などと言った。
今でもAV女優さんあたりが好んで使う用語なようである。ときに、
米男優の故Gary Cooper(ゲイリー・クーパー、1901-1961)は、
チャイコフスキーとおなじく5月7日が誕生日である。
"The Pride of the Yankees(邦題=打撃王)"(1942)
で、ルー・ゲーリッグを演じたことがある。
団鬼六が好きだったという現代の将棋は「9*9」の盤面で競うが、
野球では、ひとティームのメンバーを「ナイン」という。
さて、
英語の"noon"は、古代ギリシャ語由来のラテン語の序数詞
nonus(ノーヌス、=9番めの)の女性形、
nona(ノーナ)がもとになってる。すなわち、
"nona hora(ノーナ・オーラ、=第9番めの時間)"
="the ninth hour"
である。けっしてホラではない。
朝の6時が一日の始まりだったから、
第9番めの時間は15時である。この時刻に、
カトリックでは礼拝が行われた。ところが、
これが英国ではカトリックに背いたヘンリー8世が
英国国教会を打ち立てると、その礼拝も、
12時に執り行われるようになる。そして、
時計盤も90度まわして、そのまま
12時を"the ninth hour"→"noon"
としてしまったのである。
ちなみに、
nonaは9の倍数接頭辞としても生きてるが、
giga(巨人を意味するgigasギーガス由来の)のほうが
9関連の接頭辞としては一般的である。
チャイコフスキーの「くるみ割り人形」の巨漢女性、
ジゴーニュおばさん(Mere Gigogne)も同源である。いっぽう、
近年流行りのnanoは、小人を意味するnanosナーノスが語源、
ということになってる。が、
孔子と仔牛の別も聞き分けれず、
エヴァ・ロンゴリア女史とアニータの顔も見分けれない拙脳なる私は、
nanoはnonaの業界用語だから「マイナス9乗」なんだと
ずっと間違って思いこんできた。
ともあれ、
米映画"High Noon(邦題=真昼の決闘)"(1952)は、
ゲイリー・クーパーが主演して映画2作めのグレイス・ケリー女史が若妻役を演じた
"西部劇"である。約90分の映画が、
午前10時半から正午までを描いてて、
TVドラマ"24-TWENTY FOUR"の先駆である。といっても、
厳密に時々刻々を描いてるわけではない。ちなみに、
グレイス・ケリー女史の映画デビュー作は"Fourteen Hours"である。
(あらすじ)
1870年のHadleyville(ハドリーヴィル)。
Oregon(オレゴン州)に同名の町が実在するが、この映画では
New Mexico(ニュー・メクスィコウ)にある町と設定されてる。
敬虔なクウェイカー教徒のエイミー(グレイス・ケリー)と結婚した
初老の保安官ウィル・ケイン(ゲイリー・クーパー)は、
保安官を辞めて雑貨店でも営むつもりで町を去る矢先だった。が、
5年前に逮捕した無法者ミラーが北部で死刑判決を受けながらも減刑され、
今度は釈放されたという知らせが入る。
ケインを恨むミラーが復讐に来るのは決まってた。
その汽車は正午に到着する。
二人を祝福した民衆は早く町を立ち去るように言う。
ケインも妻のことを思い、一度は馬車で立ち退こうとする。が、
すぐに引き返し、町に戻って保安官のバッジを胸につけ、銃をさげる。
妻のエイミーはかつて父と兄が正義のために悪漢に立ち向かったために
撃ち殺された体験をしてるので、ケインの正義漢ぶりに怒って一人立ち去ると言う。
ケインは味方を募るが誰も与してくれない。
そうするうちに時刻は近づいてくる。そして、
時刻表どおりに汽車が到着し、出迎えた仲間三人とミラーは町にやってくる。
民衆はみな家に引き籠もり、町は静まりかえってる。
町にはケインだけが立ってるのである。そして、ついに
ケインは一人で応戦する。ケインがミラーに声をかけて、
双方が発砲する。すると、ミラーの味方一人だけがケインの弾で死ぬ。
その銃声に夫が殺されたと思ったエイミーは、
いったんは乗車して発車寸前だった汽車から飛び降り、
町に向かって走ってくる。倒れてるのがケインでないと判るとエイミーは、
無人の保安官事務所に入る。ケインは厩でもう一人を倒した。が、
ミラーが厩に火を放ったのでケインは馬を解き放つ。
利き手の左腕を負傷したケインは不利になるが、敬虔なクウェイカー教徒のエイミーが、
窓の中からミラーの仲間の背を打ち抜いた。ところが、
ミラーによってエイミーは人質とされてしまう。
出てくれば女は離し、銃は撃たないというミラーの言葉に、
ケインは姿を現す。が、エイミーがミラーの銃を押さえながら抵抗する間に、
ケインが発砲してミラーを右手の銃で撃ち殺す。
ケインはエイミーを抱き起こし、二人は抱擁する。すかさず、
民衆が出てきてミラーの死を確かめ、二人を遠巻きにする。が、
唯一ケインに助太刀したいと申し出た14歳の少年は、
自分が回してきた馬車に厳しい表情のままのエイミーを乗せる。
ケインは少年にだけ微笑み民衆には冷たい視線を送りながら
胸の「ブリキ製の安っぽい星章」=「保安官バッジ」を右手ではずすと、
地面に払い捨てると、馬車に乗って町から出て行くのだった。
この映画のスタッフはリベラル、つまり、左翼的な思想の持ち主が
大半を占めてた。保安官助手の若者役のロイド・ブリッジズも
共産党員だった。だから、内容も、
政府への批判だと受け止められた。が、結果的には、
卑怯で人間味ある普通の人々=民衆の心理や生態を
誠実に描いてる秀逸な映画となった。が、
一般人に助っ人を頼み、女である妻に助けられるという
西部の男の腰抜けぶりを、ジョン・ウェインは公然と批判した。が、
この映画でオスカーにノミネイトされたが、クーパーは
撮影に入ってて出席できなかった。受賞したら
代わりに受け取ってほしいとクーパーに頼まれたのが、
ウェインだった。クーパーは2度め。ウェインはまだ一度も受賞してない。
ときに、
この映画でクーパーは実際とおなじく、初老の男を演じた。
背が高く足が長い老人が足腰が弱ったうしろ姿ほど、
哀れなものはない。が、
現実のヒーローというものはこんなものである。その点で、
この話にはリアリティがあったといえる。ちなみに、
クーパーの役名はスペルはKaneではあるが、
Cane=杖→ムチ
という語呂合わせ的な寓意を読み取ることもできる。
<汝、殺す勿れ>
父と兄を理不尽にも射殺されて敬虔なクウェイカー教徒になった
エミリーが、夫の正義のために自らの手を汚して
殺人を犯したのである。自分も命の危険に直面し、また、
悪党とはいえ人を殺したがために、エミリーは
「打ち震え(quake)」た。
この話の設定が「日曜日」の「礼拝の時間」である、ということに、
キリスト教国米国の精神が色濃く出てるのである。ちなみに、
自身はカトリックだったものの、グレイス・ケリーは、
全米でもクウェイカー教徒が多いフィラデルフィア出身である。
すでに「てっぺん」をかなり越してしまった。
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