今日はTVのあちこちできれいなおねえさんらが
「暦の上では立秋です」なんて言ってる。
「立秋」というと哀しい響きがするように感じる。
「立原正秋」(1926-1980)を想起してしまうからである。同人は
三島由紀夫(1925-1970)に対して劣等感による執着的な対抗意識を持ってて、
「剣」「食」「能」という三島が通じてるものに関して
自分も相当な素養があったように装った。そして、
(実際にはたいしたことはないが)三島に
人口比4パーセントほどだった「士族」の血が流れてることについては、
自分も"貴族の出"だという粉飾で劣等意識を補った。が、
実際はキム・ユンキュという朝鮮人だった。それでもなお、自筆の年譜によれば、
"父母とも日韓混血で父は李朝末期の貴族"などと虚構を重ねた。
実際は両親ともに朝鮮人で、両班(ヤンパン)などであるはずもなく
白丁(ペクチョン)だった。
誰それのようなすごい人と仕事をした、
どこそこの大学を出た、
教養人と思われる著述業をしてる、などと自分を盛る、
出自や経歴を虚構で飾り、見栄っ張り、
態度がでかく、女性に高圧的、という、
聞くも涙語るも涙のかわいそうな人物だったようである。
スルポヨ~~~。
哀れといえば、
稼ぎと頭髪が薄い私ではあるが、先週は
話をもらった臨時の仕事のオファーを
タイミングが合わないことを方便に断ってしまった。
報酬を思うともったいない気もいまだする。が、
長時間同じ仕事を続けることができない症候群、
なこともさることながら、
私には想像力が著しく欠如してるので、ゴッホのように
現に存在するものを描くならまだしも、
虚構の世界である小説や詩を書くことができないのである。
ところが、
オツムの出来が違うゲーテともなれば、
小説や詩だけでなく、色彩論をぶったり、錬金術も心得たものである。
そんな文豪ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の中の
ミニョンの詩は4篇あり、また、それぞれに
多くの作曲家が曲をつけてる。
♪トマあ~~って、いいるうよお、さおのおさあ、き~~~~~♪
はアンブロワズ・トマが作曲したものではないが、たとえば、
1)トマの「君よ知るや南の国」として知られる
"Kennst du das Land, wo die Zitronen bluehn"、
2)「ただ憧れを知るもののみが」の
"Nur wer die Sehnsucht kennt"、
3)「しゃべるなって言って、黙れって言って」
"Heis mich nicht reden, heis mich schweigen"
4)「輝かせておいて、もうじき天に召されるまで」
"So last mich scheinen, bis ich werde"
などには、
ベートーヴェン、シューベルト、ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル、
リスト、ローベルト・シューマン、グノ、デュパルク、ヴォルフ、
そして、チャイコフスキーがそれぞれ曲をつけてる。中でも、
シューベルト、シューマン、ヴォルフは4つすべて作曲しててどれも秀逸である。
ベートヴェンのもすばらしい。ともあれ、チャイコフスキーも
ミニョンの死の直前のもっとも悲しい内容の4)以外の3つに曲をつけた。
2)「6つのロマンス op.06」第6曲、
1)「6つのロマンス op.25」第3曲、
3)「6つのロマンス op.57」第3曲、
である。このうち、
1)がいわゆる「君よ知るや南の国」にあたるものである。
チャイコフスキーは1875年の2月乃至3月に、3つめとなる
"Шесть романсов(シェーシチ・ラマーンサフ=6つのロマンス)"を作曲した。
その第3曲が「ミニョンの歌」である。第2曲の作詩者である
Федор Иванович Тютчев
(フィョードル・イヴァーナヴィチ・チューッチェフ)がゲーテの原詩を
露訳編詩したものである。
<<Песнь Миньоны(ピェースニ・ミニオーヌィ=ミニョンの歌)>>
"Ты знаешь край, где мирт и лавр растет?"
(ティ・ズナーイェシ・クラーィ、グヂェ・ミールト・イ・ラーヴル・ラスチョート)
「(拙大意)ミルテ(ギンバイカ)や月桂樹が育つ故郷を知ってる?」
"Глубок и чист лазурный неба свод,"
グルボーク・イ・チースト・ラズールィィ・ニェーバ・スヴォート、
「(拙大意)深くて混ざりけのない紺青色の空が続く、」
"Цветет лимон, и апельсин златой"
(ツヴィチョート・リモーン、イ・アピリスィーン・ズラトーィ)
「(拙大意)レモンが花を咲かせ、金色のオレンジが」
"Как жар горит под зеленью густой?"
(カーク・シャール・ガリート・パト(パド)・ズィリョーニユ・グストーィ?)
「(拙大意)緑に濃く茂った葉の下でものすごく熱く燃える」
"Ты был ли там? Туда, туда с тобой"
(ティ・ブィル・リ・ターム? トゥダー、トゥダー・ス・タボーィ)
「(拙大意)そこに行かない? そこに、そこに一緒に」
"Хотела б я укрыться, милый мой."
(ハチェーラ・プ・ヤー・ウクルィーツァ、ミールィィ・モーィ。)
「(拙大意)逃避できらたいいのにね、ダーリン」
[アッレーグロ・モデラート、4/4拍子、3♭(変ホ長調)]
***♪ソ│<レ>ド・>シー・・ー>ラ・>ソ>レ│
<シ>ラ・>ソー・・●>ミ・<ラ>ソ│
>ファファ・<ソ<ラ・・<シー・ー>♯ファ│
<ソー・ーー・・●●・●>ミ│
<ファ>♯ド・<レー・・ー<ミ・<ファ<ソ│
<ラ>ミ・<ファ<ラ・・<シ>ソ・<ラ<シ│
<レ>シ・>ラ<シ・・>♯ソー・●>ミ│
(リテヌート)
<ド>ラ・<シー・・●●・●>ミ│
<ド>ラ・<シー・・●●・●(フェルマータ)
(ア・テンポ)
>ミ│
<ファー・ー>レ・・<ミー・ー<ソ│
<ラー・ー<シ・・>ソー・ー、ソ│
<ラ>ミ・<ファ<ソ・・<ラ<シ・<ド<レ│
<♭ミ
(をソと置き換えて変ト長調に転調)
ー・ーー・・>ソー・ソソ│
ソー・ーー・・(変ホ長調に帰還)●(<)シ・>レ<ラ│
(リテヌート)
>ソー・ーー・・●<シ・>レ<ラ│
>ソソ・ソソ・・<シー・ーッ>ソ│
ソー・ーー・・●●・●♪
この曲も含めてop.25の「6つのロマンス」は、
「ピアノ協奏曲第1番」をニコライ・ルビンシチェインとニコライ・フーベルトに
弾いて聴かせ、さんざんな酷評を食らった直後に書かれた。また、
その頃、チャイコフスキーは陪審員を務めたらしい。
帝立法律学校を出て法務省の官僚になったチャイコフスキーには、
ネフリュードフのように「Everyday、カチューシャ!」のような、
渦中の人とかカチューシャの人とかいう感慨はなかったに違いない。
「暦の上では立秋です」なんて言ってる。
「立秋」というと哀しい響きがするように感じる。
「立原正秋」(1926-1980)を想起してしまうからである。同人は
三島由紀夫(1925-1970)に対して劣等感による執着的な対抗意識を持ってて、
「剣」「食」「能」という三島が通じてるものに関して
自分も相当な素養があったように装った。そして、
(実際にはたいしたことはないが)三島に
人口比4パーセントほどだった「士族」の血が流れてることについては、
自分も"貴族の出"だという粉飾で劣等意識を補った。が、
実際はキム・ユンキュという朝鮮人だった。それでもなお、自筆の年譜によれば、
"父母とも日韓混血で父は李朝末期の貴族"などと虚構を重ねた。
実際は両親ともに朝鮮人で、両班(ヤンパン)などであるはずもなく
白丁(ペクチョン)だった。
誰それのようなすごい人と仕事をした、
どこそこの大学を出た、
教養人と思われる著述業をしてる、などと自分を盛る、
出自や経歴を虚構で飾り、見栄っ張り、
態度がでかく、女性に高圧的、という、
聞くも涙語るも涙のかわいそうな人物だったようである。
スルポヨ~~~。
哀れといえば、
稼ぎと頭髪が薄い私ではあるが、先週は
話をもらった臨時の仕事のオファーを
タイミングが合わないことを方便に断ってしまった。
報酬を思うともったいない気もいまだする。が、
長時間同じ仕事を続けることができない症候群、
なこともさることながら、
私には想像力が著しく欠如してるので、ゴッホのように
現に存在するものを描くならまだしも、
虚構の世界である小説や詩を書くことができないのである。
ところが、
オツムの出来が違うゲーテともなれば、
小説や詩だけでなく、色彩論をぶったり、錬金術も心得たものである。
そんな文豪ゲーテの「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」の中の
ミニョンの詩は4篇あり、また、それぞれに
多くの作曲家が曲をつけてる。
♪トマあ~~って、いいるうよお、さおのおさあ、き~~~~~♪
はアンブロワズ・トマが作曲したものではないが、たとえば、
1)トマの「君よ知るや南の国」として知られる
"Kennst du das Land, wo die Zitronen bluehn"、
2)「ただ憧れを知るもののみが」の
"Nur wer die Sehnsucht kennt"、
3)「しゃべるなって言って、黙れって言って」
"Heis mich nicht reden, heis mich schweigen"
4)「輝かせておいて、もうじき天に召されるまで」
"So last mich scheinen, bis ich werde"
などには、
ベートーヴェン、シューベルト、ファニー・メンデルスゾーン=ヘンゼル、
リスト、ローベルト・シューマン、グノ、デュパルク、ヴォルフ、
そして、チャイコフスキーがそれぞれ曲をつけてる。中でも、
シューベルト、シューマン、ヴォルフは4つすべて作曲しててどれも秀逸である。
ベートヴェンのもすばらしい。ともあれ、チャイコフスキーも
ミニョンの死の直前のもっとも悲しい内容の4)以外の3つに曲をつけた。
2)「6つのロマンス op.06」第6曲、
1)「6つのロマンス op.25」第3曲、
3)「6つのロマンス op.57」第3曲、
である。このうち、
1)がいわゆる「君よ知るや南の国」にあたるものである。
チャイコフスキーは1875年の2月乃至3月に、3つめとなる
"Шесть романсов(シェーシチ・ラマーンサフ=6つのロマンス)"を作曲した。
その第3曲が「ミニョンの歌」である。第2曲の作詩者である
Федор Иванович Тютчев
(フィョードル・イヴァーナヴィチ・チューッチェフ)がゲーテの原詩を
露訳編詩したものである。
<<Песнь Миньоны(ピェースニ・ミニオーヌィ=ミニョンの歌)>>
"Ты знаешь край, где мирт и лавр растет?"
(ティ・ズナーイェシ・クラーィ、グヂェ・ミールト・イ・ラーヴル・ラスチョート)
「(拙大意)ミルテ(ギンバイカ)や月桂樹が育つ故郷を知ってる?」
"Глубок и чист лазурный неба свод,"
グルボーク・イ・チースト・ラズールィィ・ニェーバ・スヴォート、
「(拙大意)深くて混ざりけのない紺青色の空が続く、」
"Цветет лимон, и апельсин златой"
(ツヴィチョート・リモーン、イ・アピリスィーン・ズラトーィ)
「(拙大意)レモンが花を咲かせ、金色のオレンジが」
"Как жар горит под зеленью густой?"
(カーク・シャール・ガリート・パト(パド)・ズィリョーニユ・グストーィ?)
「(拙大意)緑に濃く茂った葉の下でものすごく熱く燃える」
"Ты был ли там? Туда, туда с тобой"
(ティ・ブィル・リ・ターム? トゥダー、トゥダー・ス・タボーィ)
「(拙大意)そこに行かない? そこに、そこに一緒に」
"Хотела б я укрыться, милый мой."
(ハチェーラ・プ・ヤー・ウクルィーツァ、ミールィィ・モーィ。)
「(拙大意)逃避できらたいいのにね、ダーリン」
[アッレーグロ・モデラート、4/4拍子、3♭(変ホ長調)]
***♪ソ│<レ>ド・>シー・・ー>ラ・>ソ>レ│
<シ>ラ・>ソー・・●>ミ・<ラ>ソ│
>ファファ・<ソ<ラ・・<シー・ー>♯ファ│
<ソー・ーー・・●●・●>ミ│
<ファ>♯ド・<レー・・ー<ミ・<ファ<ソ│
<ラ>ミ・<ファ<ラ・・<シ>ソ・<ラ<シ│
<レ>シ・>ラ<シ・・>♯ソー・●>ミ│
(リテヌート)
<ド>ラ・<シー・・●●・●>ミ│
<ド>ラ・<シー・・●●・●(フェルマータ)
(ア・テンポ)
>ミ│
<ファー・ー>レ・・<ミー・ー<ソ│
<ラー・ー<シ・・>ソー・ー、ソ│
<ラ>ミ・<ファ<ソ・・<ラ<シ・<ド<レ│
<♭ミ
(をソと置き換えて変ト長調に転調)
ー・ーー・・>ソー・ソソ│
ソー・ーー・・(変ホ長調に帰還)●(<)シ・>レ<ラ│
(リテヌート)
>ソー・ーー・・●<シ・>レ<ラ│
>ソソ・ソソ・・<シー・ーッ>ソ│
ソー・ーー・・●●・●♪
この曲も含めてop.25の「6つのロマンス」は、
「ピアノ協奏曲第1番」をニコライ・ルビンシチェインとニコライ・フーベルトに
弾いて聴かせ、さんざんな酷評を食らった直後に書かれた。また、
その頃、チャイコフスキーは陪審員を務めたらしい。
帝立法律学校を出て法務省の官僚になったチャイコフスキーには、
ネフリュードフのように「Everyday、カチューシャ!」のような、
渦中の人とかカチューシャの人とかいう感慨はなかったに違いない。
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