はてなブログのこと

2015-02-08 14:42:23 | Weblog
私の思い違いということもありえるわけだが、たびたびとなると考えてしまうではないか。


夕べから考えているけれど、本来、はてなは自分個人の思いを吐露できる日記としてメモのように始めたのに、本来は相棒ブログもあちらをメインにするつもりだったgooブログがどうしようもない動画ブログになってしまったためにこちら(はてな)がメインになり、そうなるとこちらが本音を書くと勝手に削除されたり、修正されたりするくだらないブログになってしまった。うんざりだ。

これは本来の当方の主旨に反する状況だ。この状況でこのブログを続けるのは腹が立つ。相棒以外はしばらくここは休む。非公開の方はこれまで通り使う。

ここに書いていたようなことは当分、戻ってきましたか、泉のほとりにいくことにする。あちらは広告つきだけど書き換えや削除はされたことがないからだ。どちらもほったらかしにしてあるブログだけれど、so-netブログは結構重要な記事も書いてあって、なんといってもplalaより古い6、7年前、パソコンをはじめて間もない頃の記事も残っている。yahooブログは今は亡き天敵さんに踏み荒らされていったん退会しているから古いものは残っていない。勝手に修正するようなブログでは真実を伝えることはできないし、不安だ。

昔のブログだが今も同じ気持ちだ

2015-02-08 13:52:56 | Weblog
気がつけば7月・・・これは3、4年前に書いたものなのです。

これを覚えていてくださった方々にはものすごくご無沙汰してしまい、失礼いたしました。今日は実を言うと、他のブログからの転載であります。ちょっと面倒な話題で、ある方々には手をつけたくないらしい記事をこれの前に書いたのですが、やっぱり読んだ方は非常に少なかったのでした。

こちらとしては読まれても読まれなくても書くだけですが、昨日の記事の背後にあるのがどういうことなのか、今日あらためて書き、あちらにおいておくだけでは心もとないのでここにも乗せておくことにいたしました。(カトリック教会は他宗教との関係について結構うるさいのです。それはわかっていますが、こちらもちゃんとした理由があって言いたいのです。)



以下、内容。

おっはようございま~す。夕べに引き続いてマリーで~す。

どうしたんだって? いや別にどうもしないわよ。ただのうちのおばはんの気まぐれ。あの人、今朝起きたら涼しいもんだから喜んじゃったのよ。どうせすぐまた猛暑になるんだけどね。それでもとにかく、涼しいとパソコンに向かう気が起こるみたいよ。

夕べは夜中になんだかつまらない話をしてたけど、なんだかあの人、結構本気の話だったみたい。なぜかって言うとねえ、ほらあの人も還暦を過ぎて、いまやあの人が18歳の時に亡くなったお母さんの年齢を遥かに越えちゃってるの。環境のせいかなあ、子供のころから尼さんとか、シスターとか、宗教的な生活に心をひかれてたんだけど、不思議とカトリック教会の中では自分の道、居場所が見つからないまま還暦過ぎちゃったのね。

原因はいろいろあるんだけど、ここに書くようなことじゃないからやめとくけど、それでもあの人、こんな普通ありそうにもないことにばかり出会っているのは何か意味があるはずだって思ってるのよ。そして自分のことだけじゃなくて、この世の中で起きているたくさんの不条理な出来事や、悲しみ、苦しみ、みんな意味があるはずだって思っているんだわ。

そしてそれは別にいまに始まったことじゃないじゃない。人類の歴史の始まりから、家族に食べ物を運ぼうとして逆に自分が猛獣の食べ物になっちゃった名前も知らないご先祖様だっていたでしょうし、旱魃でもっと良い土地を求めて一家、一族で移動の最中に体力がなくて落ちこぼれちゃった人たちだっていたでしょう。人間の歴史は実は膨大な数の悲しみ、苦しみ、死、別れ、で成り立ってるんだって思うわ。

みんなさあ、何のために生まれてきて、何のために生きて、何のために死んでいったの? 何の意味もなくわけのわからない人生を生きて死んでいくの? その答えが見つからないから年間3万人の自殺者なんてことになってるんでしょう。いや、自殺者だけじゃないな。意味がわからないからほかの人の成功なんて許せないって、足を引っ張ってくれたり、悪いうわさを流したり、他者の成功を自分のものにしてしまったり、宗教家でさえそんなこともあるっていうのは、要は自分自身の存在の意味がわかってないからじゃないのかなあ。

だけど、できればもっと視野を広げて世の中を自分中心にばかり見るのをやめてみたら、まったく違う世界が見えてくるかもしれないじゃないの。というわけでここにちょっぴり仏教の世界観を取り入れてみると、自分のちっぽけさがわかって、そんなちっぽけな存在も全体の中では意味のあるものに変わっているのがわかるかもしれないじゃないの。誰にでもすぐに簡単にとは言わないわよ。だってさあ、自分の持っている器以上には中身も入れられないみたいだもん。

ここで思い出すのは、亡くなった霜山徳爾先生の書いていらっしゃったことなんだけど、細かいことは思い出せないから意味だけ書いたら、一人一人の人生が現実のこの世ではどんなものであろうと、その一つ一つの人生が、別の次元では仏(あるいは絶対者、神)を飾る飾りの一部なんだとか。罪も悪も、どんな醜いものもすべてそこでは「荘厳(しょうごん)」、人間を遥かに超えた存在を飾っていく飾りを作り上げているものなんだとか。これってすごいと思わない?

どんな出来事にも意味があるってことじゃないの。今年ももう7月よ。あと何ヶ月かであの人62歳になる。さすがにもうそんなに先が長いとは思えなくなってきてるのね。いくら平均寿命が延びても個人差はあるし、親類の平均寿命をみると、あんまり期待できない感じ。みんな血圧が高くてだめだったの。腎臓が弱くて、塩分取りすぎはすぐに浮腫みにでてくるし、まあ、そんなものよ。

というわけで、あんまり先のことは考えないで、いま目の前にあるできる事から手をつけていくつもりみたいなの。何ができるのかもわかんないけどね。少なくとも日本人の自分の内なる声に耳を傾けて、気がついたところから考えてみたいってことだと思うわ。 

じゃあさあ、今日はこの辺でおしまいね。ほんじゃ、また。バイバイ。