古くからの田舎の街道で本当は木下街道(きおろしかいどう)という。父たちが外房の海辺に引っ越すまでは、我が家はこの木下街道沿いに住んでいた。60年前はバスも通っていなかったし、畑や田んぼの中にちょろちょろと人家があるかないかといったところだったのだ。しかし、子供のころ、すでに中山競馬場はあった。普段はほとんど自動車の影などない木下街道に競馬のある時期だけは土日になると車の行列で向こう側に渡るのが大変なほどだった。
そして夕方になると木下街道をトボトボと歩いて下総中山の駅に出る人の行列だ。これは競馬でお金をすっかり使い果たしておけら状態の人の行列で、ここから木下街道の呼び名はおけら街道とも言われていた。
競馬はある面一種の賭け事、ばくちだから、そう単純によいものとは言い切れないが、あの辺に近い家のお母さんたちには格好のアルバイトの口だったのだ。今と違ってスーパーもないからレジの仕事など当然ありえない時代だ。ちょっとそろばんが使える人なら、競馬場の馬券売り場の仕事に応募して働いていた。母も叔母も、時期になると競馬場に仕事に行っていた。でもうちの父は母が外に仕事に出るのを喜ばず、母と喧嘩をしていたものだった。今の時代では考えられない話しだが、父は昔の男だったから女房は家だけ守っていればよいという考え方だったわけだ。
でも母も結局自分の言い分を通して、死ぬちょっと前まで働きに行っていた。そのころは子供も一番上の私が高校生になっていたし、母としても外の空気を吸って別の世界に触れたかったのだろう。叔母もおなじだろう。中山競馬場はそんな時代の思い出につながる場所なのだ。そしてまたそのころは若宮小学校にも競馬場の関係の子供たちもたくさん通学していた。いろいろな思い出につながる場所なのだ、中山競馬場は。
だから今でもお馬さんの走る姿を見ると当時の思い出ともかぶって、なんとも懐かしくてならない。
そういえば、数年前に中山法華経寺に出かけたついでに足を伸ばして、昔の我が家のあった場所を見に行ったことがあったが、なんと年月の経過は恐ろしいもので、子供の頃はバスが通っていなかった木下街道、今は自家用車を持つ家が増えてまたバスも本数が減り、昔と同じく歩いて中山に戻ったのだった。地方の商店街の例に漏れず閑散としていた若宮銀座。足腰が悪くなってしまったからたぶんもう行く機会もないかもしれないが、懐かしい土地、懐かしい人たち、この先どうなっていくのだろうか。
おそらく中山の法華経寺と中山競馬場(本当は船橋市だが)この二つだけはこの先も残っていくのだろう。鎌倉時代の先祖たちが歩いた道、眺めた空、今も同じようにそこにある。
そして夕方になると木下街道をトボトボと歩いて下総中山の駅に出る人の行列だ。これは競馬でお金をすっかり使い果たしておけら状態の人の行列で、ここから木下街道の呼び名はおけら街道とも言われていた。
競馬はある面一種の賭け事、ばくちだから、そう単純によいものとは言い切れないが、あの辺に近い家のお母さんたちには格好のアルバイトの口だったのだ。今と違ってスーパーもないからレジの仕事など当然ありえない時代だ。ちょっとそろばんが使える人なら、競馬場の馬券売り場の仕事に応募して働いていた。母も叔母も、時期になると競馬場に仕事に行っていた。でもうちの父は母が外に仕事に出るのを喜ばず、母と喧嘩をしていたものだった。今の時代では考えられない話しだが、父は昔の男だったから女房は家だけ守っていればよいという考え方だったわけだ。
でも母も結局自分の言い分を通して、死ぬちょっと前まで働きに行っていた。そのころは子供も一番上の私が高校生になっていたし、母としても外の空気を吸って別の世界に触れたかったのだろう。叔母もおなじだろう。中山競馬場はそんな時代の思い出につながる場所なのだ。そしてまたそのころは若宮小学校にも競馬場の関係の子供たちもたくさん通学していた。いろいろな思い出につながる場所なのだ、中山競馬場は。
だから今でもお馬さんの走る姿を見ると当時の思い出ともかぶって、なんとも懐かしくてならない。
そういえば、数年前に中山法華経寺に出かけたついでに足を伸ばして、昔の我が家のあった場所を見に行ったことがあったが、なんと年月の経過は恐ろしいもので、子供の頃はバスが通っていなかった木下街道、今は自家用車を持つ家が増えてまたバスも本数が減り、昔と同じく歩いて中山に戻ったのだった。地方の商店街の例に漏れず閑散としていた若宮銀座。足腰が悪くなってしまったからたぶんもう行く機会もないかもしれないが、懐かしい土地、懐かしい人たち、この先どうなっていくのだろうか。
おそらく中山の法華経寺と中山競馬場(本当は船橋市だが)この二つだけはこの先も残っていくのだろう。鎌倉時代の先祖たちが歩いた道、眺めた空、今も同じようにそこにある。