恥ずかしい話ですがこの旅に出る前、私は弘法大師様の事をほとんど知りませんでした。
八十八ヶ所廻りをする人には、それぞれの想いがあって当然だと思いますが
信仰心などない、死んでもお墓もいらないと思っている私が、般若心経を読んでいること自体考えてみれば
おかしな話でした。
しかし辛い旅を続けているうちに、お大師様は確実に心の支えになって行きました。
これが日常なら、家族にしんどいとか具合が悪いと言って心配をかけてしまったことでしょう。
誰にも言えない辛さ。しかし心の中にいるお大師様は、そんな私を黙って見守ってくださったのです。
しかし初日からずっと抱えてきた「何のために来たのか。。」という想いはぬぐえませんでした。
こんなにきつい旅に出て、私はもしかして好き好んで命を縮めているのではないか、とさえ思いました。
その日の最後のお寺にお参りする時
今日も最後まで回る事が出来ました。ありがとうございます。
と、心の底から思って合掌していました。
起こる事にはすべて意味があって、人生に無駄な事は何もない。
それは私がいつも思っている事。
この旅に来て辛い思いをしたことにも、きっと意味がある。
しかし日々をこなすのにいっぱいいっぱいの私は、旅中にその意味を見つける事はできず
ただただ最後のお寺まで回る事だけ考えて、毎日なんとか自分の身体と心をメンテナンスしました。
そしてついに、88ヶ所最後のお寺に入りました。
一番霊山寺。
何故かマネキンのお遍路さんが。。
いつもはお堂の脇で他の参拝客の邪魔にならないようにしますが
この日は空いていた事もあり、記念に本堂の中でお経を読みました。
この後大師堂でもう一度お経を読み
南無大師遍照金剛と七回唱えて合掌すると、思わず涙がこみ上げてきました。
最後までお参りすることが出来た。誰にも気づかれず迷惑をかけずにここまでこれた。
二日目の朝の不調を思えば、まさに奇跡でした。
途中リタイアで家族にも心配をかけずに済んだ。
嗚咽を漏らすのを我慢してハンカチで目を押さえている私。
涙の訳を知る由もない周りの人がドン引きしている気配がしますが、どうにもこうにも涙は止まりません。
心の中のお大師様に感謝の気持ちが溢れました。
同行二人。
私は自分の力だけで頑張れたんじゃない。お大師様のお蔭でここまでこれたんだ。
そして皆さんに迷惑はかけられないという気持ちも、気力を上げてくれたと感じました。
自分が自分が、、と頑張っているつもりでも
人は何かしらの形で、意識無意識に関わらず周りの人に助けられて生きているのだと。
この日は、お礼参りのためそのまま高野山へ向かいました。
達成感という言葉とは違う、何かもっと別の思いであふれる心。
余裕綽々で回り終えていたら、得られなかった何かがある。
それを言葉にするにはしばらくの時間がかかるだろうと思った時
こころの中でお大師様の声がしました。
「もう苦行はしなくていい」と。
それは、自分のこころがつぶやいた声だったかもしれません。
これまで分かれ道に来ると敢えて厳しい道を選んできた私は、
悟りこそ一生開けないかも知れないけれど
これからはもっと楽に生きてもいいのではないか、と感じたのです。
もっとも、「これでいい。これが自分が求めてきた自分の姿だ」
とすべての自分を受け入れるのはまだ先の事でしょう。修行は今の命が果てるまで続くのです。
つづく
感謝をこめて
つる姫