息子にメールしたところ、まさに新幹線に乗るところでした。
この子のタイミングにはいつも驚かされるのですが、今回もそうでした。
さて、職場には事務員は私一人。
なので、即帰宅するわけにもいかず、頭の中でこれからのスケジュールをまとめました。
まずは、その三日後の水曜日に控えていた神宮のカープ戦の件(笑)
同級生たちと行く予定で、チケットを私が一括して預かっていたので、別の人に宅急便で送りました。
宅急便なら間に合う。
その時の私は宅急便の受付のおばさんだった(また笑)
作業をしている間も、頭の中は、いかにして実家にたどり着くかでいっぱいでした。
というのも、私の田舎は「ど」が3つくらいつくものすごい田舎で、新幹線の駅からバスだと2時間ちょっともかかる。
しかもそのバス、どんどん本数が減って、朝と夕方2本しかない。*ちなみに現在は夕方の一本です。
そのまま帰ってすぐに新幹線に乗れば、夕方のバスにぎりぎり間にあう感じでしたが、大学に行っている娘の帰りを待ち、
早めにあげてもらったバイトが終わるのを待っている間に帰省の支度をして、新幹線に乗りました。
新幹線の駅からローカルに乗り換え、行ける限り実家に近い駅までたどり着いた時、何時だったか覚えていませんが、辺りは真っ暗。
下りた駅は無人になっていて、かつてにぎわっていた駅周辺も真っ暗。
普通は駅に停まっているタクシーすらいない。
すっかりさびれてしまっていました。
ああ~~どうしよう~~と思ったとき、タクシーが来た!
実家の地名を聞いて、運転手さんびっくり。まさか、こんな夜からあんな田舎まで。。。
こっちが遠慮して、無理なら何とかします、なんて言ってしまった私でしたが、無理なら駅で寝るしかなかった。
生唾を飲み込みつつ、運転手さんは引き受けてくださり、実家にたどり着いたとき、お通夜の法要は終わっていて、はにかんだような顔の息子がのそ~~と奥から出てきました。
まさかこの朝見送った息子と、この日のうちに会うとは思いもしなかった。
翌日のお葬式はないと踏んで、次の日の早朝に向かおうかとも思っていたのですが、お葬式は翌朝になったと聞いて、無理にでも今日中に帰ってきてよかったと思いました。
タクシー代、めっちゃ高かったけど。
最後は家の目の前にある特養に入っていたおばあちゃんですが、母は毎日のように通っていました。
その日の朝は、おばあちゃんは眠っていたようですが、母がふとおばあちゃんを見た時に、大きな息をひとつしたそうです。
あれ?と思って見ていると、その息は戻ってこなかった。
慌てた母が施設の方を呼び、結局おばあちゃんはそのまま息を引き取ったそうです。
ろうそくの灯りが消えるような、穏やかな最期だったようです。
亡くなる人は最期に大きな息をする、という話は何度も聞きました。
その後の事ですが、ロッキーが亡くなる時もそうでした。
最期の息は、吸い込んだままなんです。吸い込んだ息を吐き出さない。
息をひきとるという日本語の意味を知りました。
おばあちゃんに最期にあったのは、亡くなる前の5月でした。
認知が進んでいたおばあちゃんは、他人を見るような目で私を見ました。
そして、体を起こして、というので起こそうとすると、痛い痛いと騒ぎ、
そのあとは、何か食べさせてくれと、びっくりするような力で私の手をつかみました。
介護士さんだと思ったのでしょうか。
私の知ってるおばあちゃんではない、恥ずかしいけど、正直怖いと思いました。
どうしていいかわからず、何か食べても大丈夫か聞いてくるね、と介護士さんを探しに行こうとしたとき
「つる?」と、疑問形の大きな声で私の名を呼びました。
え?思い出した??
驚きと戸惑いがありましたが、そうだよと答えました。
でも、おばあちゃんの目は違うところを見ています。
誰か呼んでくるね、と行って立ち去り、施設の方に挨拶してそのまま帰りました。
話が通じない、物を食べさせてくれとせがむおばあちゃん。
どう接していいかわかりませんでした。
それが最期でした。
お通夜が終わったおばあちゃん。
ふっくらしていたおばあちゃんは、とても小さくなっていました。
最初の夫を27歳で病気で亡くし、次の夫を戦争で亡くし、一人で4人の子どもを育てたおばあちゃん。
何度も子供と一緒に死ぬことを考えたそうです。
働いて日焼けで真っ黒になって、深いしわや濃いシミを気にしていたおばあちゃんの顔は、寝たきりだったからでしょうか、とてもきれいになっていました。
私はおばあちゃんが42歳の時に生まれた初孫。
おばあちゃんが大好きで、その頃は離れて住んでいたおばあちゃんにお祭りやお正月に会えるのがとても楽しみでした。
おばあちゃんは、優しいけど躾が厳しくて、大切な知恵をたくさん残してくれました。
そんなおばあちゃんにとった最後の私の仕打ち。。
無視して立ち去ってしまった私をおばあちゃんはどう思ったのでしょうか。
怒涛の一日が終わり、翌朝の出棺の時は、私がお茶碗を割る役目を与えられ、割りそこなったらいかんと緊張して頑張ったのに、
後で母に「あんなに大きな音で割ることはなかったのに」といわれて傷つきました。
音を出さずに茶碗を割れる技術があれば(笑)
息子が実家に向かっているその時に、天国に行ったおばあちゃん。
その頃は、ほとんど家にもいなくて日本のどこかや世界を旅していた息子が、実家に行くたびに可愛がってもらったひいおばあちゃんのお通夜にも出れたなんて、奇跡に近いことでした。
お葬式が終わった後、私と息子と娘は、実家の辺りを三人でドライブしました。
早い田舎の秋。
たんぼが黄金色に輝く頃でした。
この時でなければ、息子と歩くこともなかった私のO脚のすざましさ。
そして、幼い時以来、何年も並んで歩くことなどなかった兄妹の後ろ姿をみて
この時間は、おばあちゃんがくれた素敵なギフトだなと思いました。
童心に帰った私の、低いジャンプ。おばあちゃんも一緒に写りこんだかな?
でっかくなった息子のワイルドなジャンプ。
中途半端な娘のジャンプ。
おばあちゃんは、空になり風になり夕日になって、こんな私たちを見ていてくれたはず。
私は、おばあちゃんみたいにたくましくはなかったけど、自分なりに走り続けて、命のバトンは子供たちに渡しました。
最期はおばあちゃんみたいに、ろうそくの灯りがふっと消えるみたいに逝けたらいいなあって思います。
命のリレーの中で、おばあちゃんの命もつながっていくんだね。
ありがとうおばあちゃん。
最後までお読みいただきありがとうございます。
感謝をこめて
つる姫