旅は完結しましたが、今日はリアル旅中のこころの旅編です。
鈴虫寺で聞いた貴重なお話を少しシェアさせてください。
もしも、まだ行ったことがなくて、先入観とかを避けたい方、つる姫の小難しい話が嫌いな人はこの記事は読まないでくださいね。
自身、物事にもよりますが、先入観や前知識を持って観たり行ったりするのが、あまり好みではありません。
見て知りそ、知りてな見そ。です。
私の記憶に残った物を、順不同ですが書き記しておきます。
まず、最近の若者が無表情だというお話がありました。
その話が出た時に、偶然ですが、とても気になっていたのです。
長机を挟んで向かい側に座り、説法を聞いている若い女の子二人。
座った場所が住職さんに背を向ける位置でもあったのですが、最初から最後まで背を向けたままで話を聞いています。
私と住職さんの間に位置していたので、見ようとしなくてもその子たちが目に入る状態だったのです。
私は思うのです。人の話を聞く時は、基本顔をそちらに向けるべきではないかと。
まあ、状況として、向きを変えるのが難しかったのかも知れません。
しかし、話をよく聞いているのかいないのか、その子たちは、面白い話にも、全く表情を変えません。
私は、面白い話には声を出さずに笑い、納得すれば小さく頷きつつ聞いていました。
話をする側にしてみれば、無表情、無反応って、ほんと、いやなものだと思います。
このお寺に来て、一応話を聞いてお守りを買って、願い事をして、写真を撮って、それで満足して帰る人がいる。
というお話もありました。
どうぞ、「観光客」ではなく本当の意味で「参拝者」になっていただきたいと、おっしゃっていました。
その通りだな、と思いました。
あそこに行ったここに行った、インスタにあげた、お土産も買った。
もちろんそれでもいいと思います。
見聞を広めるのはとても良い事ですし、本人がそれでよければ他人がとやかく言う事ではないです。
私だって、何か所か回った時には、あれ?この時何処に行ったんだっけ・・と思う時もあります。
旅の行程はゆっくりと、と思うのは、欲張って沢山回りすぎて、後で考えたらどこがどうだったのか、わからなくなるから。
これまた、時と場合に寄りますが、これからは、ひとつひとつの場所を大切に丁寧に訪れたいって思う。
人それぞれ、目的もやり方も違うのが、旅という物でしょうし、それは命の旅に共通するものかもしれないですね。
また、沢山歩くというのは、また別の話で、歩ける元気がある限りいくらでも歩きたいと思います。
なので、基本一人旅にはなるでしょう。
節分を過ぎたばかりでしたので、鬼の話もでました。
先日私も記事にしたような記憶がありますが、鬼は人のこころの中にいるというお話。
一番厄介なのが、赤鬼、青鬼、黒鬼。だそうです。
残念ながら、その3つの鬼のそれぞれの意味をはっきり記憶していないのですが、もっともっとと欲しがる欲深い鬼、、それから他人を憎む、ねたむ気持ちの鬼、疑うという鬼。などを意味するものだったと思います。
人間だれしも、それらの鬼、感情を一切持たないで生きて行く事は出来ないと思います。
しかしそれらの感情に支配されてしまうと、しあわせになんて決してなれません。
これらの鬼はすべて、他人との関わりの中で生じるものでもありますね。
そして、極楽と地獄のお話。
ある男が死んで、閻魔様の前に来たのですが、何らかの書類が不備で、生き返る事に決まりました。
中略
この世に戻るまでに少し時間があったので、せっかくだからと、その辺を見て回りました。
すると「地獄の部屋」というのがありました。
中をみてみると、存外綺麗で居心地よさそうです。
大きなテーブルの上にはご馳走が並んでいますが、それらを囲んでいる人たちは、何故か顔色も悪くやせ細っています。
よくみると、彼らは左手を椅子にくくりつけられ、右手には、長い柄のスプーンを持っています。
彼らはその長いスプーンで食事をしようとするのですが、柄が長すぎて、自分の口に食べ物を入れる事が出来ません。
お互いに、お前が邪魔だ、うるさい、などと争い、いがみ合っています。
男は、その部屋を後にしました。
すると今度は「極楽の部屋」がありました。
中をのぞいてみると、地獄の部屋と全く同じようなつくりです。
違うのは、その部屋の人たちは、顔色もよくてふっくらしています。
しかし、地獄の部屋の人と同様、左手はくくりつけられ、右手に長い柄のスプーンを持っています。
何だ、極楽も地獄もまるで同じじゃないか・・・男はそう思いました。
しかし、その人たちの食事の光景を見ていると、彼らは向かい合った相手に、自分のスプーンでご飯を食べさせ合っているのです。
長い柄では、自分の口には入らないけれど、少し離れた相手の口には、食事を運ぶ事ができるのです。
極楽と地獄というのは、こういうことなのか。。
そう思って目を覚ますと、男は自分の家の布団の上にいました。
というお話です。
同じ状況でも、極楽にもなれば地獄にもなる。
この話、ご存じだった方もおられるかと思いますが、私はとても衝撃を受けました。
そして、最近の自分のこころの中を指摘されたような気がして、とても反省しました。
鬼の話にしても、極楽と地獄の話にしても、他者との関わりを外して、考えることはできません。
それが人という物なのです。
術後、四国巡礼をして、導き出した答えは「天国や極楽は、遠い空の上にあるんじゃない。生きているうちに自分の中につくるものだ」という事でした。
にもかかわず、人一倍感情に波があり、悪い事ばかりほじくりだして、本当は自分がいかにしあわせか、ということから逆に目をそらしていた節が大いにあります。
あの時のサトリをケロッと忘れて、実は自分で地獄を作っている。
人の成功や幸せに妬みを感じたり、誰かを恨んだり嫌ったりして、無駄な時間を費やしていたようにも思います。
人がしあわせになっても、じぶんの幸せが減る訳ではない。
全ての人が幸せにいられることを願える事が、自分自身の幸せなのだ。と本気で思えないと。
実は、今回初めて写経をした時に、願いを書く場所があり、私は「身体健全」と自分の事を当たり前のように書きしるしました。
しかし、写経を納めるとき、ふと前に書いた人の言葉が目に入り、大きな衝撃を受けました。
その方は「世界平和」と書かれていたのです。
一時間かかって書いて納める写経に、心からそう願って書ける、なんと大きな愛とやさしさ。
自分は本当にダメだなあ、と思いました。
きれいごとを言いつつ、結局は自分の事しか考えていないんです。
ただ、この事によって自分にますます自信をなくし、自分を嫌うのは、それも違うとも思います。
誕生日の一人旅は、本当に大切な事を沢山教えてくれました。
でも、知るだけ、納得するだけではだめなんです。
いけないと思う思考や行動を変えなければ。
口で言うのは簡単。行動しなければ、何の意味もない。
分かってるけど、できない、って言うのは、結局わかってないと同じだと思います。
中途半端にわかるくらいなら、知らない方がまだましだとも。
過去と他人は変えられないが、自分の行動は変えられる。はず。
そして、そのタイミングに遅すぎる、という事はないのだと、信じなくては。
年を取ると頑固になるといいますが、どうせ私は、という想いは捨てなくては。
そんなような、こころの旅。京都の旅が終わってもまだ続く旅です。
まずは、自分が今置かれている場所、環境で「足るを知る」こと。
本当の意味で感謝という事を知らなければ、一生幸せになんて気づかない。
そんな人が周りにもたくさんいるんです。反面教師と思いつつ、結局自分もおんなじでした。
赤鬼青鬼黒鬼に餌を与え続けてたんですね。
今に思うと、今回鈴虫寺に行ったのは、あの友人の計らいのような気がしてきます。
いわゆる弱者ための仕事をしていた、正義感の強かった彼女が亡くなって、ろくに何もしないこの私が生き延びている。
世の中は不公平や理不尽、不条理が当たり前なんです。
いい加減それに気づけよ、って教えてくれたのかも。
それが、生きてる私のこじつけだとしても、今なら素直に彼女に感謝することができます。
そう言えば、彼女と最後に見た花は、彼女が嫁いだ先の香川県の、雨の日の栗林公園の梅でした。
彼女、水族館も好きだったわ。京都じゃないけど、江の島水族館にも一緒に行ったんだった。
つる姫はまだ、当分死にましぇん。
まあ、こればかりは誰にもわかりませんが、今しばらくは人生の旅を続けられるはずです。
最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
還暦過ぎてもまだまだ未熟なつる姫ですが、これからもどうぞよろしくね。
今日も笑顔で過ごしましょう。
感謝をこめて
つる姫
(ブログ開設から2772日)