Pixysのポジティブライフ

困難に立ち向かうアラフィフの日常
働いて働いて働いて働いて、たまに旅に出る

憂鬱

2007-01-07 22:45:45 | おもしろくない話
超楽天家の私でも、一年に一度程落ち込むことがある。いや、落ち込むというよりは、沈む(憂鬱)という感じだろうか。何を見てもおもしろくない、何をしても楽しくない、そんな感じの時だ。別段、体調が悪いわけでも機嫌がよくないわけでもなく、疲れているわけでもない。ただ自分が生きているのは何故なのかと考え続ける。
挨拶も話も誰とでもするし他人にはいやな思いはさせないようにしているので、顔も広く友人も多いけれど、実は私は人と深く関わるのがあまり好きではない。それは家族間でも同様である。一人で考えてる、一人でいるのが一番心地いい。たまに本当に一人になりたいと思うときがあって、誰にも会いたくない、話をしたくないときがある。それが私が沈んでいる時の状態だ。一人で考えたい時である。
特別嫌なことがあったわけではないし、ただ今まで生きて培ってきたはずの何もかもが面倒で捨てたくなる。それが私に唯一ある闇の部分。早く死ねればなー思う。だからと言って自殺願望があるわけじゃなくて、この肉体を特に必要としていないのだ。無になりたいのである。

今日、実家に家族が集まり、酒を飲み思い出話をした。父が昔を思い出し、今を悲観して涙を流した。生きている事のわずらわしさを感じたのはこの時だった。なんでって思う人もいるかもしれないけど、すごく面倒なのだ。母が病気で看病しているのも父を手伝うのも、それは子である自分の役目であり父や母を好きだからではない。子供から考えるとそういうもので、例えばそれが両親でない別の身近な人であっても同じ事をするだろう。親だからという特別な思いなどない。私の中ではもっと機械的なあたりまえのことなのだ。そこに妙な思いや感情が私の中にあると思われると、とたんにいやになってくる。自分のやっている事がくだらなく思えてくる。
嬉しいとか悲しいとか、全部ひっくるめて、それは自分のも他人のもわずらわしい。人間だから感情はあるものだけど、あっていいのはドラマの中だけで、実際に目の前にあるとかなりうざったく思うのである。嬉しいのは目の前にあるといいが、私とは無関係にあってほしいのだ。そういった外観からであると本当に心から喜べる。

人がこの世に産まれてきたことには必ず意味があると聞いたけど、自分の役割はなんなのか、生きながら考え続けている。なぜなのか自分にはわからない。たぶん子供を産んだ時にそれは終わったような気がしてならないのだ。でもまだ生きている。じゃあ、自分は何のためにいきていくのか、今何のために生きているのか。自分自身の楽しみなど欲しくはないし、特に辛いことがあるわけでもなく、今生きているのだから、他に何か意味があるはずなのに、それがなんなんだかわからない。

主人はやさしいし子供はかわいい。不幸だと思った事は一度もない。だけどそれと私自身と何の関係があるのか、未だ謎である。そばにいるのが私でなくてもきっと彼らは幸せになる。そういう心根のやさしい人達だから。だったら、私は死ぬまでにあと何をすればいいのかがわからない。またこうしたいという願望もない。もう充分満足してしまっているのだ。ただ全ての煩悩を捨てて寺に入り、修行だけに専念していくつかの魂を救い、やがてやってくる死を迎えたい。
それを家族に言ったら思いっきり笑われた。おかしいのかな。でもずっと前からそう思っていた。何もいらない、何の価値もないところに行きたいな。そうすれば生きていた意味がわかるような気がするんだよね。

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