人間の創造に関しては古事記よりアィヌ民話のほうが優れていると思う。
(北見美幌・菊地儀之助老伝承)の物語によると国造神(コタンカラカムイ)が人間の形を造り終えてから、それに「眠たい」とか「食べたい」とかという、十二の欲の玉を身体に入れるとすっかり完全な身体ができあがった。とあります。
古事記では人間造りに関しては意識的に触れていないのだと考えられる。これは天皇家の歴史書である、と居直って創った物語としか考えられない。行動に対する善悪を入れる訳にはいかなかったと考られる。と言うより善悪を曲げて書いたのだろう。
既に、これを制作した時代には仏教は伝来していたわけだから、人間の欲望に関する考え方はあったと思われる。キリスト教においても人間の欲望に関しては根源的なものとして取り扱っている。
その点でアィヌ民話は人間にはすでに欲望があるのだからそれに対してどうあらねばならないか考えようとしている。歴史から何かを学ぼうとするならば古事記は歴史書としても失格となるのではないかと考えてしまう。
現に、幾度も出てくる、騙し討ち(日本武尊の隼人戦)はその後もアィヌ相手(シャクシャイン)にも使う事にもなる。勝ち方としては学んだが人の在り方としてはどうだったのか未だに疑問に思っている。
(北見美幌・菊地儀之助老伝承)の物語によると国造神(コタンカラカムイ)が人間の形を造り終えてから、それに「眠たい」とか「食べたい」とかという、十二の欲の玉を身体に入れるとすっかり完全な身体ができあがった。とあります。
古事記では人間造りに関しては意識的に触れていないのだと考えられる。これは天皇家の歴史書である、と居直って創った物語としか考えられない。行動に対する善悪を入れる訳にはいかなかったと考られる。と言うより善悪を曲げて書いたのだろう。
既に、これを制作した時代には仏教は伝来していたわけだから、人間の欲望に関する考え方はあったと思われる。キリスト教においても人間の欲望に関しては根源的なものとして取り扱っている。
その点でアィヌ民話は人間にはすでに欲望があるのだからそれに対してどうあらねばならないか考えようとしている。歴史から何かを学ぼうとするならば古事記は歴史書としても失格となるのではないかと考えてしまう。
現に、幾度も出てくる、騙し討ち(日本武尊の隼人戦)はその後もアィヌ相手(シャクシャイン)にも使う事にもなる。勝ち方としては学んだが人の在り方としてはどうだったのか未だに疑問に思っている。