無が教える優しさ。
固定観念をリセットし新しく考え直す。
「是故空中無色」
空(移ろいゆく世界をつかさどる法則)の立場から見れば、私達が思っているこれは物質、
あれは物質ではないという区分けはない。区分けは私達が勝手に作ったものである。
「無受想行識」
五蘊(人間の肉体と心の働き)もない。
「無眼耳鼻舌身意」
私達が感覚を認識する器官もない。
「無色声香味触法」
認識器官によって認識される対象の世界もない。
全ての人に役に立つ教えとして「般若心経」が生まれた。
お釈迦様が作った枠を一度崩して、プレーンな状態にし、誰にでもあてはまるような形にした。
どうやって囚われから解放するのかを般若心経は伝えている。
般若心経の英訳「Heart Sutra」=心臓のお経
宗教の域を越えて心にパワーを与えるとして世界的に拡がっている。
「無無明 亦無無明尽」
無明(煩悩=世の中の本当の在り方を正しく見ることができない愚かさ)がない。
煩悩が消える。
お釈迦様は煩悩が我々の苦しみの本であると言った。
煩悩を消す為の道を「八正道(8つの正しい生き方)」として示した。
しかし般若心経では「八正道」も絶対的なものではないと言っている。
枠組みを「無」によって消すことで世界の在り方を変えてしまう。
私は今の自分を変えたいんだと、私が持っている枠組みはこういうものだと自覚しながら
壊そう壊そうとし続け般若心経を読み、「無」の連鎖を心に染みつかせれば価値観が変わる。
「無知亦無得」
知恵も悟りもない。
知恵の完成という最高の知恵で世の中を見た時には、普通に言っている悟りというような決まった
ゴールの枠組みも消えてしまう。
私達が考えている知恵と「空」の立場から見た本来の知恵があるという二重構造で説明している。
道筋とゴールも枠組みである。完璧に到達するゴールも得られる完成形もない。
常に自分の心を一段上げていくという生き方するという修行。
「菩提薩垂 依般若波羅蜜多故 心無圭礙 無圭礙故無有恐怖」
菩薩(未完成の道を生きる修行中の人)は全てを無として枠組みを取り去り、何もこだわりのない状態に
心を置いて人のために尽くす。
人のために何かを尽くし続ければお釈迦様が仰った修行の道を超えた生き方ができる。
人のために生きる生き方も苦しみを消す一つの道。
般若心経は何かのご縁で出会い、その時に自分の心とスパークした時に役に立つ経典である。
世界は「空」である。
「色即是空」
色(この世を作っている物質全て)は実体をもっていない。
物質とは概念、つまり「空」である。
移ろいゆく世界には何か法則があるのではないか?
それを「空」と古代インドの仏教徒達が名付けた。
法則性に全てを集約していく。その究極が科学。
「空」は全ての現象を統括するひとつの法則。
「色即是空」はひとつの大きな宇宙観。
「空即是色」
流れる時間の一瞬を切り取ってつかまえてみたいという思いの表れ。
連続したものを切り取って表現したい。それが芸術。
世界を司っている法則を切り取って世に出したい。それが物理学や科学。
人間がつくりあげてきた文化の根底に「色即是空」「空即是色」の構図がある。
毎日を生きていく一瞬一瞬に意義を見出す。
なぜ私はここにいるのかと考える立場では「空」はポジティブなエネルギーを我々に与えてくれる。
「受想行識亦復如是」
心の中の全ての物も「空」である。よって私という存在も「空」である。
例えば今、自分の心が苦しいと思っていても永遠にそこに存在している苦しみはない。
舎利子は釈迦の一番弟子。知恵第一。
観音様(仏教の修行者である菩薩の代表)が舎利子に諭す。
「是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減」
この世を創っている全ての存在要素は「空」である。
従ってそれは生まれる事もなければ消える事もない。
それは汚れる事もなければ清らかになる事もない。
一方的に物事を決めてかかることはできない。
全ての物が雲散霧消しても要素は「空」の中でつながっている。
私という存在は要素の中に受け継がれていく。
最強の262文字。
サンスクリットで元々は書かれていた。
般若心経とは知恵のお経。
玄奘三蔵がインドから経典を持ち帰って、訳を行った。
その内の1つが般若心経。
インドの音を残したままお経にした音写を行った部分があるのが素晴しい。
般若心経の核心は音写で書かれた部分。
「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」
「照見五蘊皆空、度一切苦厄」
仏教では「我」はない。私とは仮の姿である。
仮の私を構成しているのが「色、受、想、行、識」の五蘊。
色 体を作っている物質。
受 外からの刺激に対して私がどう受け取るか。
想 受け取ったものを積極的に作り上げて考える。
行 何かをするという意思作用。
識 外から入った情報を心に認識する。
それらは「空」である。
私たちは特定の概念をつくりその関係性の中で世界を見ている。
概念に囚われた生活をしていると他人が決めた概念に操られて間違った行動をとる危険性がある。
「空」を理解する事でモノの見方を180度転換できる。
教育テレビ『100分de名著』を見て、心に留めておきたい言葉を書いておきます。
幸福とは義務である
哲学を「学ぶ」から哲学を「する」。
教養ではなく自分の生き方に反映させていく。
人生のすべての状況の中に幸せの可能性があって、ほんの少し発想や行動を
変えれば幸せは手の近くにある
幸福になることは他人に対しても義務であることは十分に言われていない。
男も女もみな、絶えずこう考えるべきであろう。
つまり、幸福というものは、といっても自分のために獲得する幸福のことだが、
もっとも美しくもっとも寛大な捧げものである、と。
自分が幸福になることが社会や周囲に対しての幸福である。
幸福も伝播する。
意志する楽天主義。
楽観主義が誓いを要求することがよくわかる。
はじめはどんなに奇妙に見えようとも幸福になることを誓わねばならぬ。
幸福を希望せよ。
自分が辛くても、その辛さを横に置いて誰かのために何かをしている時に
幸せを感じる人が多い。
絶望的な状況になった時にでも、今生きていることの意味を大切にして見失わない。
要するに幸福に関しては、推論することも予見することもできないのである。
いま現にもっていなければならない。
幸福が未来のなかにあるように見えるときはよく考えてみるがいい。
それはつまりあなたがすでに幸福をもっているということなのだ。
希望すること、それは幸福であるということなのだ。
今、努力しないと不幸や悲しみが常に入ってくる。
幸福であろうという強い意志を持ち続ける。
教育テレビ『100分de名著』を見て、心に留めておきたい言葉を書いておきます。
人間関係の負の連鎖から脱するには礼儀正しさ
礼儀正しさはダンスのようなもの。
堅くなったり、独りよがりにならず相手も自分も穏やかに自然体でいられる事。
無駄のない洗練された動きが大事。
自分の感情をコントロールした上で人と付き合う。
相手に合わせていく。形式に込められた心が大事。
人間関係の距離感を微調整していく。
礼儀 politesse → しなやか・自分
↓
自然な物腰・処世術・生活の知恵
習 慣
礼節を訓練によって自然なものに変えていく。
礼儀(社会や他人との接点)と幸福は表裏一体。
自分自身に対する礼儀
無作法な人間は一人でいるときでもやはり無作法である。(自分を大切にしない)
ほんのわずかな動きにも過剰に力を入れてしまう。
こわばった情念と臆病という自己恐怖が感じられる。
幸福でない人がいたら
相手への憐れみや同情は不幸や悲しみを増幅させる。
悲しんではなるまい。期待を持つべきなのだ。
人は自分の持っている希望にしか、人にはやれないものだ。
自分のなり行きを信じ、未来を明るく考え生命が勝利すると信じなければならないのだろう。
彼に与える必要があるのは、この生命の力だ。
無関心であれというのではない。そうではなくて快活な友情を示すことだ。
誰も人に憐れみを引き起こさせることは好まない。
もし自分がいても健康な人間のよろこびを消し去りはしないということが
わかれば、彼はたちまち立ち直り元気が出る。
信頼こそすばらしい妙薬である。
自然の力で信頼や快活さ友情、希望の方に導かれるはず。
自分の快活さが伝わっていくようにする。
自分の不幸を他人に話さない。
他人に言われた悪口を気にしない。
他人を束縛しない。
自分を大切にしないと他人に与えることはできない。
人と人との関わりはお天気まかせのようなものではなく、
自分達の手で美味しく育てる果実のようなもの。
人はお金儲けや商売のためには努力をするのに自分の家の中の
幸福のために努力をしていない。
自分の事を考えるな。遠くを見よ。
間近の小さな出来事に囚われず、視線を水平線の合わせてみてはどうだろう。
憂鬱な人は物事を読みすぎる。
人間関係の中で相手に期待しうる唯一のこと、それはお互いの本性を認め
相手が自分自身であり続けるのを求めることだけである。
その人があるがままの姿であるのを望むこと、それが真実の愛である。
自分を律しなければ幸福な人間関係は築けない。