Occupent nos esprits et travaillent nos corps,Et nous alimentons nos aimables remords,Comme les mendiants nourrissent leur vermine.
Sah ein Knab' ein Röslein stehn,
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
自分を 無 にして ひとの為に働く
毎日 家と会社を 往復しているだけの 「自分」だ。
病気だった頃の「自分」と 私は 何も変わっていない・・・・・・
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
Röslein auf der Heiden,
War so jung und morgenschön,
自分を 無 にして ひとの為に働く
毎日 家と会社を 往復しているだけの 「自分」だ。
病気だった頃の「自分」と 私は 何も変わっていない・・・・・・
Lief er schnell, es nah zu sehn,
Sah's mit vielen Freuden.
Röslein, Röslein, Röslein rot,
Röslein auf der Heiden.
ここでは 誰かの為でない
私は「ただの自分」で ありたい。
私は「ただの自分」で ありたい。
うまい珈琲を 飲みながら
こうして 好きな本を 読んで
たまに 車を走らせ 私は 海を見に行きます。
こうして 好きな本を 読んで
たまに 車を走らせ 私は 海を見に行きます。
エセー:『 Me ♯』どれみの詩③
~ The fish storyⅡ「光る風景」(2019.8.10 公開: 現在クローズ)
: ら メール to クロノ風琴 / リブート版:The fish storyⅡ「光る風景」
(2023-02-17 公開: 現在クローズ)を 再編集
Forest Swords - Night Sculpture
Ⅲ ものカタる(自分)のイチを (観る)ための 「言葉」
Ⅲ ものカタる(自分)のイチを (観る)ための 「言葉」
貴方は どんなデバイスで
Webサイトを 閲覧しているだろうか。
私のブログは 実のところ
デバイスの種類で
意味内容や 情報量の 受容度 が 大きく 異なるサイトだ。
スマホだと 40パーセントに 満たないだろう。
タブレットは それより 若干 あがるかもしれない。 OSの違いも ありそうだ。
PCでの閲覧が 望ましい。
だが、 それも ある種の 調整 が 必要だ。
Webサイトを 閲覧しているだろうか。
私のブログは 実のところ
デバイスの種類で
意味内容や 情報量の 受容度 が 大きく 異なるサイトだ。
スマホだと 40パーセントに 満たないだろう。
タブレットは それより 若干 あがるかもしれない。 OSの違いも ありそうだ。
PCでの閲覧が 望ましい。
だが、 それも ある種の 調整 が 必要だ。
私の「エセー」記事は 大抵 冒頭に 画像や 動画を 配置している。
この姿で お目に かかる みなさんはじめまして 。
ブログ 「 I am Nobody!Who are YOU?」へ ようこそ!
この画像動画が デバイス画面の 中心 に 来るよう
( 拡大 ) 若しくは ( 縮小 )調整して はじめて
このブログの せいかくな 全体像 が みえる作りになっている。
( 拡大 ) 若しくは ( 縮小 )調整して はじめて
このブログの せいかくな 全体像 が みえる作りになっている。
この 視座 から のぞむ
形態 が仮想現実空間 の 正式な 「私」だ。
形態 が
この姿で お目に かかる みなさん
ブログ 「 I am Nobody!Who are YOU?」へ ようこそ!
Cowboy Bebop OST 1 - Tank!
さて。
この視座 から 見える
調整前と調整後の 「言葉」の 違い お気づきに なるだろうか。
字のサイズ、色は もちろんのこと 私は
標準のゴシック体以外に 4、5 種類の 書体フォントの 使い分け を している。
ルビ振りの文章は スピ・精神世界系ブログ で まず見ないだろう。
ここにある文章は すべて
プログラム言語(HTML言語、CSS言語)に よって 精密な 編 集 が 施されているのだ。
この
調整前と調整後の 「言葉」の 違い お気づきに なるだろうか。
字のサイズ、色は もちろんのこと 私は
標準のゴシック体以外に 4、5 種類の 書体フォントの 使い分け を している。
ルビ振りの文章は スピ・精神世界系ブログ で まず見ないだろう。
ここにある文章は すべて
プログラム言語(HTML言語、CSS言語)に よって 精密な 編 集 が 施されているのだ。
推敲の徹底は もちろん 書式スタイル にも こだわる。
私は 書いた文章を ただ ぺったり そのまま 載せてはいない。
文字と文字の スペースを 半角全角に したり
行間も pt(ポイント)レベルで 調整 する。
大まかな意句 に 分けて 右左
画像、動画映像と あわせて 配置するだけでなく
セクション内での 改行、字下げ(インデント)に 至るまで 設定 している。
私は 書いた文章を ただ ぺったり そのまま 載せてはいない。
文字と文字の スペースを 半角全角に したり
行間も pt(ポイント)レベルで 調整 する。
大まかな
画像、動画映像と あわせて 配置するだけでなく
セクション内での 改行、字下げ(インデント)に 至るまで 設定 している。
プロほどではないが、素人なりに 出来る限り の 編集校正を 行なう。
使用文字数は プログラム言語を合わせ
平均 2万字。 前回のエセーでは 3万字近い文字を 使っている。
原稿用紙 1枚程度(400字)の 体裁を 整えるのに 2,3時間かかる事は ザ ラ だ。
「よく」みせたい
「多く」の ひとに アクセスしてもらいたい
「すべて」理解してほしいなら
記事内容だけでなく、この程度の 丹精は して 当然、できて 当り前と 個人的には思う。
スピリチュアル・精神世界に 携わるものならば 猶更 でないのか。
「
ココのせいしんに 変則的な ユウゲンを 求める。
想いや 思考、
神仏や 真理真実を 表現するのに
一言一句、画像映像 ひとつひとつの 選別 に
神仏や 真理真実を 表現するのに
一言一句、画像映像 ひとつひとつの 選別 に
細やかな配慮の みられないサイトを 私は 評価しない。
論外 である。
ここまでする 私のブログは 「よく」みせる 必要 も
「多く」のひとに アクセスしてもらう 必要 も
「すべて」理解してもらう 必要 もない。
ただの 自己満足 なサイトだ。
だが、自己満足の 「自己」を ずっと課題にしているブログだ。
ここに イル、 此処に イなければ イけない
イイ続ける
そもそも そういう「自己」の
Sah ein Knab' ein Röslein stehn, 少年は見つけた、小さなバラを
Röslein auf der Heiden, 野中の 小さなばらを、
War so jung und morgenschön, 若く すがすがしい美しさの。
私は 仮想現実空間なしには イられない ネット民と ここにいる目的が 逆だ。
Lief er schnell, es nah zu sehn, すぐ駆け寄って、そばで見た、
Sah's mit vielen Freuden. 喜びにあふれて、見た。
Röslein, Röslein, Röslein rot, 小さなバラよ、赤い小さな薔薇よ、
Röslein auf der Heiden. 野中の 小さなばらよ。
Röslein auf der Heiden, 野中の 小さなばらを、
War so jung und morgenschön, 若く すがすがしい美しさの。
私は 仮想現実空間なしには イられない ネット民と ここにいる目的が 逆だ。
Lief er schnell, es nah zu sehn, すぐ駆け寄って、そばで見た、
Sah's mit vielen Freuden. 喜びにあふれて、見た。
Röslein, Röslein, Röslein rot, 小さなバラよ、赤い小さな薔薇よ、
Röslein auf der Heiden. 野中の 小さなばらよ。
「それゆえ」 今まで このブログの
ただしい閲覧方法について 公けに 述べることはしなかった。
ただしい閲覧方法について 公けに 述べることはしなかった。
日々の生活や その出来事
日記だとか、本当の事、真実なんだと
人は あれこれ 見せたがり、言いたがり、共有したがる。
ビジネス 商売なら まだしも
公けに 何かを 発信したい この種の 欲 が 私には もともと あまりない。
よき言葉アソビ、センセイ 神様仏様ゴッコは
ソウゾウ いじょう に 高くツく。
ソウゾウ いじょう に 高くツく。
このブログは それ故 私にとって はじめての SNS になる。
「 必要があるから ここにいる 」
ブログを はじめて 7年。
今まで 言う必要の なかったことを いま「あえて」述べている。
必要が あるから 述べる 。 そうしなければならない 「自分 」 を 察知したからだ。
「 必 要 が あ る か ら コ コ に あ る 」
しんじつ、この「いい」の おそろしさ を
仮想現実空間にいる よい人間 様は 認識どころか 自覚すらしては いまい。
ブログを はじめて 7年。
今まで 言う必要の なかったことを いま「あえて」述べている。
「 必 要 が あ る か ら コ コ に あ る 」
しんじつ、この「いい」の おそろしさ を
仮想現実空間にいる よい
此のブログ「エセー」の
公開されるまでの 過程について ざっと 説明しておこう。
公開されるまでの 過程について ざっと 説明しておこう。
ブログ原稿は テキストファイルで 書いている。
そのとき 感じたこと、思ったこと、
考えたこと、インスピレションで得た ものごと 全て 精確 に 言葉に 起こす。
我ながら、その書きっぷりたるや 前回「暴風雨」 と 表した通り
とても よみものとは 思えない、何でもアリの カオス状態 である。
さまざまな 次元の言葉が 入り混じる。
とても よみものとは 思えない、何でもアリの カオス状態 である。
さまざまな 次元の言葉が 入り混じる。
混線、脱線 アメあられの中 少しずつ 歩を進めるように 言葉を 選び選びして 綴っていく。
なにかを 言葉にして
洗いざらい 吐き出すと 気持ちがいい。
洗いざらい 吐き出すと 気持ちがいい。
だが 同じように ひどい苦しみも おぼえる。 そうでなければ おかしい。
私にとって 「かくこと」は 禅でいうところの
「接心」であり、「独参」に準ずる 行 と 述べた事がある。
物理的に
心理的に
霊的において
すべてを 貫通する「ある」言葉を したためる
臨深であり、眺臨の「いち」につく 行為 で あるからだ。
このブログの目的は この「モノかき」を 継続していく事。これに尽きる。
テキストデータで 書いた原稿は
エセーの 見取り図 全体像の ラフスケッチ を 行う為
その後、一度 ワードに移す。
ブログ記事を どのように みせるか、
その主旨や目的、方向性を さらに 詰めていく 作業だ
エセーの 見取り図 全体像の ラフスケッチ を 行う為
その後、一度 ワードに移す。
ブログ記事を どのように みせるか、
その主旨や目的、方向性を さらに 詰めていく 作業だ
必要な 資料資材を かき集め 話の流れや ロジックを 確認しつつ
画像・動画映像の 設定や選定、配置、
公開までの スケジュール調整を 含め 具体的 な 編集工程を 決めていく。
画像・動画映像の 設定や選定、配置、
公開までの スケジュール調整を 含め 具体的 な 編集工程を 決めていく。
この作業が ブログをするなかで 一番たのしい 時間だ。
わくわくと 気持ちが はずむ 一方 ふとよぎる
かすかな淋しさ。
見知らぬ「ち」へ 旅出つ 出発前の 心もちにも 似た
この「幻影の人」は
自分の 或る瞬間に 来てまた去って行く。
「私」は どこへいくのか
わからない。行先のみえない 出会いと別れと
antarā-bhava 中有の「かなしみ」故に。
かすかな淋しさ。
見知らぬ「ち」へ 旅出つ 出発前の 心もちにも 似た
この「幻影の人」は
自分の 或る瞬間に 来てまた去って行く。
「私」は どこへいくのか
わからない。行先のみえない 出会いと別れと
antarā-bhava 中有の「かなしみ」故に。
ワードで 体裁を 整えた原稿は
最後 ブログ編集ページに 場を移して
文字の形態や 空間スペースを プログラム言語に 変換する。
難儀な工程だ。 此処は 体力、忍耐、 時間との 勝負。
画像、動画映像との バランスも 図らねばならない。 この 加減調整 が むつかしい。
ワン ツー ワン ツー
ワン ツー ワン ツー
ワン ツー ワン ツー
テクニックとセンスが 要求される 荒行 だ。 時流は 刻々と変化する。
他言語に 移し替える際に かならず生じる
いくつもの 齟齬や見落としの ジタイも 同時対応 ソーレ。
ワン ツー ワン ツー
せいかくな 写生が 第一。
とい進めながら
適切な 「いち」 を 見極める。
適切な 「いち」 を 見極める。
一語一単語が もつ感触を
損なわないよう 不要な 意味価値を 削ぎ落し
ワンセンテンス、いちセクションを ていねいに 組んでいく。
しあわせは 歩いてこない
だから 歩いて ゆくんだね
「三百六十五歩のマーチ」 を まさに 「じ」で 行く
一行 かいて 振り返る。
・・・・・・何かが 違う。
・・・・・・何かが 違う。
また もとの「イチ」 に 戻る。やりなおし。
一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる
前後の 繋がりが 曖昧だ。
形容詞に メリハリがない。この挿話は 必要か?
この行は 敷衍、ニュアンス優先で ・・・
よ し。次。
人生は ワン ツー パンチ
汗かき べそかき 歩こうよ
・・・・・・画像が うるさい。10% 明度を 抑えよう
このMV動画じゃ あの
ドスンとくる、低音の音が いいかもしれない・・・
あなたのつけた 足あとにゃ
きれいな花が咲くでしょう
すこしずつ ただの言葉が 言の葉になっていく。
Tu le connais, lecteur, ce monstre délicat,
- Hypocrite lecteur, - mon semblable, - mon frère !
ワン ツー ワン ツー
なにかが ひらいて
えとおとの繋がる みちの 世界が 見えてくる
腕を振って 足をあげて
ワンツーワンツー 休まないで歩け
・・・・・・そうして
たどり着いた視 座 から 観える
是が このブログ「エセー」の 「いち」である。
- Hypocrite lecteur, - mon semblable, - mon frère !
ワン ツー ワン ツー
なにかが ひらいて
えとおとの繋がる みちの 世界が 見えてくる
腕を振って 足をあげて
ワンツーワンツー 休まないで歩け
・・・・・・そうして
たどり着いた
是が このブログ「エセー」の 「いち」である。
Best Fashion Film: Hidden
自分を 分解してみると、
自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覚の世界、肉体の世界がある。
これ等は 大体 理知の世界と 自然の世界の 二つに分けられる。
次に 自分の中に 種々の人間が ひそんでゐる。
先づ 近代人と 原始人がゐる。
前者は 近代科学の 科学 哲学 宗教 文芸によつて 表現されてゐる。
また後者は 原始文化研究、原始人の心理研究、民俗学等に 表現されてゐる。
ところが 自分の中に もう一人の人間が ひそむ。
これは 生命の神秘、宇宙永劫の神秘に 属するものか、
通常の理知や情念では 解決の出来ない 割り切れない人間がゐる。
これを 自分は「幻影の人」と 呼び また 永劫の旅人とも考へる。
西脇順三郎「旅人かへらず」はしがき より抜粋 「西脇順三郎詩集」那珂太郎編・岩波文庫
自分の中には、理知の世界、情念の世界、感覚の世界、肉体の世界がある。
これ等は 大体 理知の世界と 自然の世界の 二つに分けられる。
次に 自分の中に 種々の人間が ひそんでゐる。
先づ 近代人と 原始人がゐる。
前者は 近代科学の 科学 哲学 宗教 文芸によつて 表現されてゐる。
また後者は 原始文化研究、原始人の心理研究、民俗学等に 表現されてゐる。
ところが 自分の中に もう一人の人間が ひそむ。
これは 生命の神秘、宇宙永劫の神秘に 属するものか、
通常の理知や情念では 解決の出来ない 割り切れない人間がゐる。
これを 自分は「幻影の人」と 呼び また 永劫の旅人とも考へる。
西脇順三郎「旅人かへらず」はしがき より抜粋 「西脇順三郎詩集」那珂太郎編・岩波文庫
モノカタリエセー: Mythos 人工天国のあがり (2024-7-24公開 以下「Mythosあがり」という)と
いりのトロイメルより λόγος (2024-07-30公開 以下「いりλόγος」という)で
使用した引用文のうち 紺字の文 は 萩原朔太郎の詩文だ。
あのひとと よるの私の モノカタリ
エセー「The fish story」は 萩原の詩を オマージュに 創作している。
ちなみに 「Mythosあがり」「いりλόγος」は
「The fish story」から 20数年後を経た ふたりのハナシだ。
もとは 別のモノカタリエセーに
挿入される
そのハナシでは ふたりは 脇役、 彼らと コトなる 別の主人公が いる。
赤字 は ノストラダムスの「百詩篇」第10巻からの抜粋。
オカルト好きの よく知る 「一九九九年、七か月云々」の アレだ。笑
オカルト好きの よく知る 「一九九九年、七か月云々」の アレだ。笑
スピリチュアル・精神世界カテで
真理真実、自説の ゼッタイ的 根拠とされる
ダレそれの予言だの 日月神示だか ナニだかしれんが、 アレらは 過大評価し過ぎる。
そもそも テキスト読解が 徹底されていない上に、
ゴロ合わせで ナンでも カンでも 読み解く 解説解読なんぞ ハウツー さえあれば
ああいう シロモノは 字が読める 現代人なら 誰でもできる、同様の予言も 簡単に 作れるのだ。
聖書や 仏典、
世界宇宙の 事象現象を 神または 覚者然と、
いい表すのと 「同じ」テクニック で あり、 トリック がある。
予言を含めた この件に 関する問題点は いずれ 別のエセーで 取り上げてみたい。
真理真実、自説の ゼッタイ的 根拠とされる
ダレそれの予言だの 日月神示だか ナニだかしれんが、 アレらは 過大評価し過ぎる。
そもそも テキスト読解が 徹底されていない上に、
ゴロ合わせで ナンでも カンでも 読み解く 解説解読なんぞ ハウツー さえあれば
ああいう シロモノは 字が読める 現代人なら 誰でもできる、同様の予言も 簡単に 作れるのだ。
聖書や 仏典、
世界宇宙の 事象現象を 神または 覚者然と、
いい表すのと 「同じ」テクニック で あり、 トリック がある。
予言を含めた この件に 関する問題点は いずれ 別のエセーで 取り上げてみたい。
緑字の 仏語と訳 は 「悪の華」で 有名な ボードレールの 散文「人工天国」だ。
芸術家たちから
その独創性と 芸術的完成を「新しい戦慄の創造」と 称えられた
ボードレールは 近代詩、象徴主義の 創始者とされる人物である。
「いりλόγος」で キャラの内面に 添うように置いた 青字の俳句 は 加藤楸邨のもの。
俳句、和歌を よむひとの心眼 には
いつも はっとさせらる、「自然」の 何たるかを なまなまと かんじる。
芸術家たちから
その独創性と 芸術的完成を「新しい戦慄の創造」と 称えられた
ボードレールは 近代詩、象徴主義の 創始者とされる人物である。
「いりλόγος」で キャラの内面に 添うように置いた 青字の俳句 は 加藤楸邨のもの。
俳句、和歌を よむひとの
いつも はっとさせらる、「自然」の 何たるかを なまなまと かんじる。
うちのブログ は スピ・精神世界系カテで 馴染みの 教えに 依拠せず
キリストや 釈迦のような 聖賢覚者、偉人重鎮 著名人の文言を
(使用する際は 出来る限り 和訳せず 原語で引用) そのかわり 詩歌や 散文、小説の言葉を 多用している。
当然ながら これも、明確な 意図あってのものだ(笑)
このブログの前身 2015年 ACIM レポートは
当エセーの「画像」「動画」同様、 「ある」制約 を 課して のぞんだ。
当ブログは 2015年のレポートを さらに シンカさせた 「わたし」の エセーだ。
当エセーの「画像」「動画」同様、 「ある」
ACIMの 教義理論を 根拠、論拠、 イイワケに しない、
ACIMの テキスト用語、「神」「聖霊」「イエス」「愛」「自我」という
便利な 決まり文句を 出来る限り 使わないで「かく」
ロジックと 理性が 反映された 「抽象的世界」 を 述べる 論考文 ならびに
日常のせいかつ目線から み得る 「私的世界」 を 表現する 随想文
この(ふたつ)を(ひとつ)として 提示する 「私」 の 課題だった。
自らの手足口を がんじがらめにし、
ココの十字架 に 沿った (形態:レポート)と 言えよう。
ACIMの テキスト用語、「神」「聖霊」「イエス」「愛」「自我」という
便利な 決まり文句を 出来る限り 使わないで「かく」
ロジックと 理性が 反映された 「抽象的世界」 を 述べる 論考文 ならびに
日常のせいかつ目線から み得る 「私的世界」 を 表現する 随想文
この(ふたつ)を(ひとつ)として 提示する 「私」 の 課題だった。
自らの手足口を がんじがらめにし、
ココの
当ブログは 2015年のレポートを さらに シンカさせた 「わたし」の エセーだ。
Disclosure - Hourglass ft. LION BABE
以前、 身内に ヒーラーがいる事を 話した。
相談者の殺到するひとで、
今も 毎日 休みなく 全国各地を 飛び回っているそうな。
実は もうひとり、 そういうひとがいて、
よくは 知らないが なかなか 腕のたつひとらしい。
地元の友人知人には 霊的に 「わかる」「みえる」ひとが 複数人いる。
私の生地 は 物理科学では 説明できない
不思議なちからを 持った ひとの多い 土地柄で、
パワースポットとでもいうのだろうか、 霊的磁場の 強いところらしい。
相談者の殺到するひとで、
今も 毎日 休みなく 全国各地を 飛び回っているそうな。
実は もうひとり、 そういうひとがいて、
よくは 知らないが なかなか 腕のたつひとらしい。
地元の友人知人には 霊的に 「わかる」「みえる」ひとが 複数人いる。
私の生地 は 物理科学では 説明できない
不思議なちからを 持った ひとの多い 土地柄で、
パワースポットとでもいうのだろうか、 霊的磁場の 強いところらしい。
占術や 霊媒、加持祈祷など 病院にかかる感覚で 利用されており、
私の家の隣は 以前 拝み屋が 住んでいた。
進学で 親元を離れる 私の
住む部屋を 見つけてくれたのは 霊能力のある 歯科医だった。
特別な ちからが あるといって 霊的な生業に 就くのは 一握りだ。
そのみちが 非常に おそろしく、
妥協の 決して 許されない 厳しい 務め で あることくらい
かの地の人間ならば なにかしら 肌身で 知っていよう。
そういうトコロだから、宗教も 盛んだ。
多くは その地特有の神道で、
拝所のいたるところで 熱心に 祈りを捧げるひとを よく見かけた。
私の家の隣は 以前 拝み屋が 住んでいた。
進学で 親元を離れる 私の
住む部屋を 見つけてくれたのは 霊能力のある 歯科医だった。
特別な ちからが あるといって 霊的な生業に 就くのは 一握りだ。
そのみちが 非常に おそろしく、
妥協の 決して 許されない 厳しい 務め で あることくらい
かの地の人間ならば なにかしら 肌身で 知っていよう。
そういうトコロだから、宗教も 盛んだ。
多くは その地特有の神道で、
拝所のいたるところで 熱心に 祈りを捧げるひとを よく見かけた。
前に 住んでいた 家の裏には 禅寺、
その次に 越した 家のすぐ近所に 教会が あった。
我ながら キリスト教とは 縁が深い。
日本の 信仰帰属者の 1%に 満たないにも かかわらず 昔から
身近に 必ず クリスチャンが いる。 牧師の子息と 学び合った事もある。
当然、新興宗教の 信者も多い。
大手の 学会員とか、自転車で よく徘徊する 外国人宣教師とか 普通にいて
妙な宗教の張り紙や、ポスティングも あった。
オウム真理教は 公けに なる前から 知っていた。
今も昔も かの地は カルト宗教 の メッカ といえる。
最近は ソレらに 加え いかがわしい スピリチュアル
精神世界の ゲレン外道の輩が 幅を利かせ 霊地や 神域を 喰いものにしているそうだ。
他所でも 同様の被害が 拡大していると聞く。
その次に 越した 家のすぐ近所に 教会が あった。
我ながら キリスト教とは 縁が深い。
日本の 信仰帰属者の 1%に 満たないにも かかわらず 昔から
身近に 必ず クリスチャンが いる。 牧師の子息と 学び合った事もある。
当然、新興宗教の 信者も多い。
大手の 学会員とか、自転車で よく徘徊する 外国人宣教師とか 普通にいて
妙な宗教の張り紙や、ポスティングも あった。
オウム真理教は 公けに なる前から 知っていた。
今も昔も かの地は カルト宗教 の メッカ といえる。
最近は ソレらに 加え いかがわしい スピリチュアル
精神世界の ゲレン外道の輩が 幅を利かせ 霊地や 神域を 喰いものにしているそうだ。
他所でも 同様の被害が 拡大していると聞く。
Run, Rabbit, Run
私が ここで 「エセー」をかくのは、
言葉を要する この「主語 」と 徹底対峙し
ここにいる必要を 少しでも 減らすために ココに居る 「自分」だ。
行為するものの 主語、主格、
主体「自分」が なければ 行為はない、成立しない。存在 じたい「ない」のだから。
「ない」自分の言葉が 理解される事態「ない」
「ない」言葉は 「ない」
価値 は 存在し「ない」
「ない」ものに価値 が 「ある」? よい事が 出来るだろうか?
言葉を要する この「
ここにいる必要を 少しでも 減らすために ココに居る 「自分」だ。
行為するものの 主語、主格、
主体「自分」が なければ 行為はない、成立しない。
「ない」自分の言葉が 理解される事態「ない」
「ない」言葉は 「ない」
「ない」ものに
ときの 不可逆的ことわりは 非情 だ。
会得した「ない」物事を 行為するならば
空性 は「ない」という 言葉 だけ では 決して すまされぬ。
「自我であるが故に自我の観る世界」と 言葉で 言う者は
言葉で 言得る
言葉で 言えば「わかる」
言葉に すれば わかって 貰える 「自我」という言葉が 「ある」
「自我」と言う 「自分」 が「イル」
「自我であるが故に自我の観る世界」と 言葉で 言う者は
言葉で 言得る
言葉で 言えば「わかる」
言葉に すれば わかって 貰える 「自我」という言葉が 「ある」
「自我」と言う 「自分」 が「イル」
「わかる」コトに 価値 が「あり」
その 価値のモトである 原因、業因、因子、「自我」と言得る
その 「自分」が 今まさに ココに いる。「ある」から 言う。出来る行為 だ。
それ故 キ君らは個我創造 を ヨク説いて「イ」よう。
「自分」が「ない」なら 今ココに「ある」コトも、「自我」と 言う事も 出来まい。
言葉を モノの具として シヨウする 非二元の 「殺法」も 扱えず
自他の 虚言妄言すら ミ切れぬ者が 釈尊の 「滅法」を 説く、
まっこと 世も末。
その 価値のモトである 原因、業因、因子、「自我」と言得る
その 「自分」が 今まさに ココに いる。「ある」から 言う。出来る
それ故 キ君らは
「自分」が「ない」なら 今ココに「ある」コトも、「自我」と 言う事も 出来まい。
言葉を モノの具として シヨウする 非二元の 「殺法」も 扱えず
自他の 虚言妄言すら ミ切れぬ者が 釈尊の 「滅法」を 説く、
まっこと 世も末。
ヨクに 憑りつかれ
ヨク「ある」
野狐禅 増上慢 選民意識、あの「眼憑き」には 覚えが ある。
「ここは夢」なる
ヨク 利用なさる 実に おめでたい方々が
ACIMに限らず スピリチュアル・精神世界 カイワイには 実に多い。
楽して 手に入る ひとの 生きチよ。 実に こたえられない「贄」だろう?
クニタチのミロク、日月 SHOW 売の ゼッタイ 神人サマよ。
右を左に 変えたとて 同じ土俵の 同じイイナリ 大淫婦バビロン退治? 御前 ナニ様だ?
AyaSato Presents -好色-
「まこと」 を かたる 全きセンセイ、セイトよ
その「自分 」 大本ジタイが ズレ、腐っているが故に
「マ・コト」に 憑かれ スピリチュアル・精神世界に ヨク執着してしまう。
イイ逃れんが為 大本系英傑ら の言動を タテに取り
アイも 変わらぬ 中国ロシアのせいに よく責任転嫁する
日本國万歳! オオモト狂信家は 中国ロシアと同じ 共産主義的 メイソウ国粋主義者 だ。
「 神を自分の主義や信仰、修行などで取り込んだことはありません! 」
自分 教 の 教祖様は 信者のミナ皆様に いつも「ワタシ」が 言っているように
神に「~させられた」よき受動態 を 振りかざし 下々を「!!!」で シタがえる よき 反知性主義者 よ。
我々は みな 同じ穴の ムジ・ナ である。
謙遜を 逆手にとる 印象操作も 甚だしい
夢想、空想と イイ続ける 白きヤマみちの 代 償、 貴方は「ヨク 」分かってイよう
言葉は 魔法 であり 呪術 の 一様式形態で あるコトを。
その「
「マ・コト」に 憑かれ スピリチュアル・精神世界に ヨク執着してしまう。
イイ逃れんが為 大本系英傑ら の言動を タテに取り
アイも 変わらぬ 中国ロシアのせいに よく責任転嫁する
日本國万歳! オオモト狂信家は 中国ロシアと同じ 共産主義的 メイソウ
「 神を自分の主義や信仰、修行などで取り込んだことはありません! 」
神に「~させられた」よき
我々は みな 同じ穴の ムジ・ナ である。
謙遜を 逆手にとる 印象操作も 甚だしい
夢想、空想と イイ続ける 白きヤマみちの 代 償、 貴方は「ヨク 」分かってイよう
言葉は 魔法 であり 呪術 の 一様式形態で あるコトを。
一
旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考えへよ人生の旅人
汝もまた岩間から染み出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃
西脇順三郎「旅人かへらず」
先生の マネ事をすると どうもイけない。
かつて 音声学の教授が
「 むつかしいことを むつかしく教え伝えるのは 誰にでもできる。簡単だ。
だが、むつかしいことを やさしく簡単に 教え伝えるのは 非常にむつかしい 」と 仰った。
私は 哲学や 法律、心理学 など
人文科学の 基礎概論を 一通り修めた Bachelor of Arts の 「士」
専門は「文学」
それ故に 古今東西の 詩歌や文学に 学び
書物の 解釈や解読、批評研究 その他諸々、学術の基礎 及び 手法テクニックは 習得済みである。
「文学」は 英語で「literature」という。
語源は「文字で書かれたもの」という意味だ。
ウィキペデアを 見ると「文学」とは 言語によって 表現された 芸術 とあった。
かつて 音声学の教授が
「 むつかしいことを むつかしく教え伝えるのは 誰にでもできる。簡単だ。
だが、むつかしいことを やさしく簡単に 教え伝えるのは 非常にむつかしい 」と 仰った。
私は 哲学や 法律、心理学 など
人文科学の 基礎概論を 一通り修めた Bachelor of Arts の 「士」
専門は「文学」
それ故に 古今東西の 詩歌や文学に 学び
書物の 解釈や解読、批評研究 その他諸々、学術の基礎 及び 手法テクニックは 習得済みである。
「文学」は 英語で「literature」という。
語源は「文字で書かれたもの」という意味だ。
ウィキペデアを 見ると「文学」とは 言語によって 表現された 芸術 とあった。
文学は 科学のように
白黒はっきりした「答え」を 説く学問ではない。
正答のない
答えのないなかで
ひとは、自分は 「いかに生きるか」を 探求する
「人間学」 と いう 学道だ。
私は スピリチュアル・精神世界の要らない
いまをいきる そんな ただの自分 で ありたかった。
わたしは 私の道を いきる。いきていく。
白黒はっきりした「答え」を 説く学問ではない。
正答のない
答えのないなかで
ひとは、自分は 「いかに生きるか」を 探求する
「人間学」 と いう 学道だ。
私は スピリチュアル・精神世界の要らない
いまをいきる そんな ただの
わたしは 私の道を いきる。いきていく。
ここにいる 人間でないものよ、ココで 君とは 「さようなら」だ。