古代から淀川の氾濫原であった淀川流域のくらしを今に伝える
水郷の里があると聞いて見に行ってきました。
最寄り駅のJR住道駅前は、寝屋川と恩智川の合流点。
北から下ってきた寝屋川がほぼ90度の角度で東から来た恩智川に合流しており、
変わった地形になっています。
写真は駅前の陸橋から2本の川の間へ降りるスロープ。
寝屋川沿いの道と平行して西へ蛇行する細い道を行く。
寝屋川の堤防は垂直護岸で非常に高く、親水性はゼロ。
橋の上から見ると、落ちたら最後、絶対這い上がれそうにない。。。(怖)
しかし水防上は非常に重要な役割を果たしているのです。
さて、この道の緩やかな曲がり具合や、脇の土地との2m近い高低差からして、
寝屋川の垂直護岸ができる以前の旧土手道にほぼ間違いないでしょう。
大東市御領地区までの道のりは結構遠い。2kmほどあるかな。
住宅と工場や倉庫が混在する間に細い水路がいくつもみられ、低湿地帯で
あった昔をしのばせます。・・・ドブ川も歴史を背負っているのですね(笑)
さて、いきなり現れた古い集落。ここが目的の御領地区。
ほほう、いきなり水路です。こういう人工水路は「井路」と呼ばれます。
一見環濠集落のように見えます。
井路に面する家々には、水際へ降りる階段が今もよく残っています。
この井路はこの先で行き止まりになっており、実際はもう使われていません。
階段は室外機置き場になってしまっています。
船がありますね、「三枚板」と呼ばれた田舟だそうです。
実際はすでに浸水していて使えませんが、こういう田舟に農作物を積み
井路を行き交っていた昔の風景を想像させるには十分です。
「御領」の文字と屋号が見えますね。
地区の中央にある菅原神社。なんだか鳥居が低いですね。
おそらく境内の土地を嵩上げしたのでしょう。
先ほどの井路の続きが菅原神社の周りをめぐっています。
こちらもここから少し行ったところで行き止まりで、その先は埋められています。
もう一つ特徴的なものとして、段蔵造りと呼ばれる建物があります。
この写真にも見られるように、石垣を組んでその上に建物を建てているのです。
これは常に洪水の危険にさらされていた地域の知恵。
石垣が段々になっているでしょう。これが段倉と呼ばれる所以で、
一番高いところに蔵を置き、その下に母屋を建てています。
これはかなり高いですね。
しかし面白いのは、水路に面しているところを一番高くするのではなく、
敷地の北西角を一番高くし、東と南に向かってだんだん低くするそうです。
地形に関わらず敷地の北西を高くするというのは、何か風水的なものでしょうか。
まさに機能美です。
そこだけ周りの空間から切り離されたかのように、淀川流域の原風景を残す水郷の里でした。
水郷の里があると聞いて見に行ってきました。
最寄り駅のJR住道駅前は、寝屋川と恩智川の合流点。
北から下ってきた寝屋川がほぼ90度の角度で東から来た恩智川に合流しており、
変わった地形になっています。
写真は駅前の陸橋から2本の川の間へ降りるスロープ。
寝屋川沿いの道と平行して西へ蛇行する細い道を行く。
寝屋川の堤防は垂直護岸で非常に高く、親水性はゼロ。
橋の上から見ると、落ちたら最後、絶対這い上がれそうにない。。。(怖)
しかし水防上は非常に重要な役割を果たしているのです。
さて、この道の緩やかな曲がり具合や、脇の土地との2m近い高低差からして、
寝屋川の垂直護岸ができる以前の旧土手道にほぼ間違いないでしょう。
大東市御領地区までの道のりは結構遠い。2kmほどあるかな。
住宅と工場や倉庫が混在する間に細い水路がいくつもみられ、低湿地帯で
あった昔をしのばせます。・・・ドブ川も歴史を背負っているのですね(笑)
さて、いきなり現れた古い集落。ここが目的の御領地区。
ほほう、いきなり水路です。こういう人工水路は「井路」と呼ばれます。
一見環濠集落のように見えます。
井路に面する家々には、水際へ降りる階段が今もよく残っています。
この井路はこの先で行き止まりになっており、実際はもう使われていません。
階段は室外機置き場になってしまっています。
船がありますね、「三枚板」と呼ばれた田舟だそうです。
実際はすでに浸水していて使えませんが、こういう田舟に農作物を積み
井路を行き交っていた昔の風景を想像させるには十分です。
「御領」の文字と屋号が見えますね。
地区の中央にある菅原神社。なんだか鳥居が低いですね。
おそらく境内の土地を嵩上げしたのでしょう。
先ほどの井路の続きが菅原神社の周りをめぐっています。
こちらもここから少し行ったところで行き止まりで、その先は埋められています。
もう一つ特徴的なものとして、段蔵造りと呼ばれる建物があります。
この写真にも見られるように、石垣を組んでその上に建物を建てているのです。
これは常に洪水の危険にさらされていた地域の知恵。
石垣が段々になっているでしょう。これが段倉と呼ばれる所以で、
一番高いところに蔵を置き、その下に母屋を建てています。
これはかなり高いですね。
しかし面白いのは、水路に面しているところを一番高くするのではなく、
敷地の北西角を一番高くし、東と南に向かってだんだん低くするそうです。
地形に関わらず敷地の北西を高くするというのは、何か風水的なものでしょうか。
まさに機能美です。
そこだけ周りの空間から切り離されたかのように、淀川流域の原風景を残す水郷の里でした。
田舟は意図的に残してあるのでしょうね。
やはり水路も周囲の建物もセットで残ってないとと思います。
段倉も色と形の変化の付け方が面白い!
でも確実に消えつつあるのでしょうね。
この御領地区でも、段倉造りの基礎だけ残った空き地や
石垣の上に建てられた新しい家も見られたので、
徐々に建て替わっていってるのでしょう。
驚きました。
場所を確定させるため情報収集していたらここにたどり着きました。
歩いて駅から行くのは大変だったでしょう。
整備される前の方が風情があって良いですね。
最近整備されたのですか。写真を拝見すると、道路際に縁石が設置されたようですが。
沈みかけた船も撤去されたのでしょうか。
駅から遠かったです。。。
帰りはバスに乗って京阪の大和田あたりへ出たような記憶が。。。