93歳で大往生を遂げた父方の伯父の葬儀に参列するために数十年ぶりに信州上田を訪れた。両親とも上田出身であったため、小学校を卒業するまで夏休みは毎年必ず遊びに行っていた思い出深い場所だ。特に母方の実家には毎年最低でも2週間、長い時では1か月近く滞在し、大集合した同年代のいとこたちと田んぼでカエル捕りをしたり、花火をしたりと本当に良く遊んだ。
この上田、幼い頃には上野から鈍行列車で6~7時間近くかけてたどり着いた記憶もあるが、今は新幹線で東京から1時間半もかからない。ただし、新幹線に乗ったのでは、「峠の釜飯」(横川駅の駅弁)を買うために急いで横川駅に降り立つことも、浅間山の雄姿を十分拝むこともできない。日帰りが全く苦にならないほど、時間はあっという間になったものの、駅弁は車内でも販売しているもののいささか味気ないとの感もある。
さて、前日の通夜に参加するため先に来ていた母から言われていた集合時間は午後1時。10時頃上田に到着し、時間的にちょっと余裕があったため、喪服にコートを羽織った状態で、駅から徒歩で懐かしの上田城に行ってみた。上田城はちょうど位置的にも上田駅と葬儀場(上田法事センター)の中間に位置する。しかし、前日降った雪が凍っていて足元はすべるし、寒さも身に応える。
上田城は母の実家のあった場所から徒歩10分もかからない場所にあったため、子供時代、本当に良く駆けずり回った場所である。ただし、観光地として見ると、天守閣がない上に規模も小さく、堀と石垣を除けば江戸時代からの本物の建築物は櫓ぐらいしか残っていないため、世間的には真にパッとしない城との印象がある。上田合戦と呼ばれた二度の戦いで多勢に無勢のなか、徳川の大軍を二度とも退けた城として名を馳せたが、そんな勇ましい城にはとても見えない(真田が2度の合戦で上田城を守れた背景には、今風にいうと城というハードに頼れない真田が、ソフト(作戦)で徳川で打ち負かすことに心血を注いだ点があろう)。もっとも、当時の上田城はというと、真田昌幸、幸村が石田三成方に組みしたため、関ヶ原の合戦後、堀も含めて徹底的に破壊され(ただし、関ヶ原の合戦後しばらくの間は徳川側についた昌幸嫡男の真田信之の領地だった)、その後に入城した仙石氏の再建したものが今の上田城の元になっている。
その他上田というと、思い出すのは千曲川とみすゞ飴。千曲川は五木ひろしの歌を思い浮かべる方が多いかもしれないが、日本最長の川、信濃川の長野県における呼称である。千曲川は秩父の甲武信ヶ岳近辺が源流で、上田盆地を経由して川中島付近で西から流れてきた犀川と合流、新潟県に入って信濃川となる。千曲川は上田の辺りでは鮎釣りで有名だが、私にとっては子供時代には真っ裸になって泳いだ記憶のある場所である。今思えば、相当危ないことをしたが、当時はそんな子供もいた。
みすゞ飴は、母方の実家が小さいながらも菓子屋をしていたことから、毎年の夏、上田に行くと店先の売り物をもらい口にしていた懐かしの味だ。あんず、うめ、もも、ぶどう、りんごなどの完熟果実を寒天、砂糖、水飴を混ぜ合わせたあと固めた乾燥ゼリーである。明治の昔から存在し、無着色、無香料のため、その辺で売っている添加物だらけのゼリー、グミと比べると、とてもヘルシーである。今も上田駅前にはみすゞ飴の考案者である飯島新三郎の飯島商店(飯島商店自体は江戸時代から続く商家で油屋や米屋を営んでいたが、新三郎のみすゞ飴開発により業態転換)が重厚な建物(みすゞ飴本舗)として残っている。
いずれにしても、これまで地味で不器用、世間的には今一つパットしない上田であったが、来年のNHKの大河ドラマ「真田丸」(脚本:三谷幸喜、主演:堺雅人)の舞台に決まったことで、その上田がにわかに熱くなりだしたようである。来年は「真田丸」放映に合わせて上田城と合わせて、別所温泉、周辺の歴史ある寺などが観光ガイド本で紹介され、観光客の数も大きく増えていくことであろう。
高齢化と人口減少で耕作放棄などが続き、父の実家のある村(昨年は小学校への入学者がゼロだったとか)などは大変な状況のようだが、信州の自然環境はまことにすばらしく、人も純朴で真面目な努力家が多い。さりとて、若者がそもそもいなくなっている場所での地方創生、再生は不可能であろうと思う。ただ、高齢者だけになっても、せめて昔ながらの農村風景を荒地にだけはしないでほしいと願うのは単なる都会者のわがままだろうか?
伯父さんに別れを告げ、老母と共に新幹線で東京へ。このブログの大半はその新幹線の中で書き綴った。