困ったものだね...かといって?これって試練?
ずれて立脚するエゴという性質は、よく理解している。だからこそ、自らの中の、埋没している無意識的観念(隠された思い込み)を見いだして、より透明かつ透徹さとして言語化され、それなりに構築されて来たのだが....なんだかこの世的な有り様を、あらためて学んでいるようではある。
一般的な関係性の中での愛を立脚点にしたとき.....それは見事なまでの図柄の違いになるのかもしれない。それはクリアな透明感とは全く違うものだね。
自己を前提としている、つまり自我以外に、自己イメージを知らない場合、それがまさしく疑いようもなく、世界を見ていると思い込んでいる場合、俯瞰の目をもって、眺めている存在は....果たして...その愛は、どういう作用をするのだろうか?
つまり、より良くなるようにという意思よりも、そのまま、ありのまま受け入れることか?
建設的ではないという方向は、はたして宇宙に適合するのか?
いや、建設的であろうと破壊的であろうと、それは変容の要素として宇宙的調和的であるとは言える。俯瞰的に見れば、建設も破壊も、調和のためにあるからだ。だが、とどまるということ、つまり、変容しない、変化しないということは、どうなのだろう?変えないという意思は不調和だろうと思われる。
思うに、自我を固持することを選択するという意思って、なんとも不思議だが、まさしく、それは自我という慣性の法則に捕らわれているわけで、自己の本質を見いだせないという...やはり、どうかな?とは思うが、果たしてまさに、選択は自由だ...と思い遣りやる。
そしてその魂の指向性、かつ嗜好性ってものによって、幸福感、充実感、安心感があったり..?ある意味では....それって?...よく分からないが、欲が少ないってことだろうか?つまり、学びによって、より精神的に自らを満たそうという野心が芽生えないんだから。けど、明らかに無明なんだろうとしか.....、やっぱりそうとしか結論はでないみたいだ。
なぜなら、自己はあきらかに自我より大きいからだ。
明らかに、自分と思っている自分より、本来の自己は偉大だからだ。
自我は偉大な自己の能力のひとつ創造性の賜物、思いの中で創られた、投影なのだから。
慈愛は、あまねくあるのだが、なぜなら、変容を許さないという、自我の反応は、体験知によって、よくよく理解出来るから...。
それにしても、なんとももどかしく、忍耐を強いられるものではある。
そこで思い出す。つまり仏性にのみフォーカスせよ
ひたすら、そのように....
そのように...
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ちなみに愛というのは....
自分の根っこの感情に正直であるってこと、
自分をいたわり、感じているように受け止めてあげることなんだよ。
そこを尊重してあげれば、人の思いも察知したり尊重できたりするだろう?
いずれにしても、自分の根底の密やかな感情を読み取り、それに素直で、かつ全体として、調和的であることへのそれぞれの学びってことなんだ。
自他の境界線を、融合して、調和的関係性の創造のためなんだね。
だってそれが目的じゃないのか?
それが自分を愛するってことにもなるんだ。
そんなことのために努力(プラクテス)があって.... そうだね..
ジレンマを超えて...
..
...
努力そのものが愛なんだね。
ramni わくわくワールド<本.アート.冒険者たち>
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