遣唐使は当時、東アジア一の大国だった中国、唐に送った使節団です。
光明皇后の時代、日本は朝鮮半島の新羅(しらぎ)と緊張関係にありました。
唐から進んだ文化をいち早く取り入れ、唐に次ぐ国としての存在感を強める必要があったのです。
しかし、多くの船が沈没しました。
その旅路は命がけでした。
光明皇后が遣唐使のことを歌ったもの
「大船に ま梶しじ貫き この我子を 唐国へ遣る 斎へ神たち」
おおぶねに まかじしじぬき このあごを からくにへやる いわへかみたち
大きな船に ま梶と呼ばれる海をかく櫂(かい)をたくさん付けて
この我が子を唐へ遣わします どうか祈ってくれ神々よ
これは遣唐使たちへの応援歌ではないか?
神々に命令するような表現に、光明皇后の強さが表れていると言います。
阿修羅像を作った光明皇后は、優しく、そして誰よりも人々を思う強い女性だったのです。
阿修羅像が完成した後も、飢饉や大地震、疫病が日本を襲いました。
光明皇后は仏教で国を護ろうとします。
阿修羅像を作って7年後、国分寺と国分尼寺建立が命ぜられます。
国分尼寺の中心が法華寺、国分寺の中心が東大寺。
全国の国分寺には、光明皇后が大切にした「金光明最勝王経」が納められました。
阿修羅のその後も平坦ではありませんでした。
祭られたお堂は、火事で何度も焼け落ちました。
しかし、その度に人々の手によって奇跡的に守られてきたのです。
1300年、人々が切なる思いを託し守り続けてきた阿修羅。
未来へと受け継いでいくのは私たちです。