

日本茶にまつわる考証
茶博打の発祥 茶道、
茶の湯、茶博打、茶筅
裏千家の大恩人吉良上野介
現在、コーヒーや紅茶は言わないが、日本茶を出す時には「カラ茶ですけど・・・・」という事がある。 田舎では「お茶うけ」として漬物を出すところもあるが、今では、お茶菓なしの意味だが、本来は唐茶(からちゃ)のことで即ち唐から輸入の外来茶の意味。 最澄が唐より持参したお茶で昔は煎じて飲む薬だったのが、三百五十年後に栄西が日本でも栽培をなし奨励して般化した。
しかし飲用というより唐風の蓋付茶碗の中に、茶柱が有るか無いか、また立っているのかどうかと賭けるためのものだった。 〈看聞御記〉に記されているように、伏見宮が茶博打が開帳されている寺へ出かけて「いっちややるべえと」言ったという記載がある。 これを「書見台子の茶」というが、これを庶民が真似をして、門前の小僧習わぬ経を読むというが、寺の近くで小屋がけして見習ったのが、賭け茶屋なのである。 今は(腰をかけるから掛け茶屋)なのだと歴史書にも書かれているが間違いである。今も昔も庶民は、ギャンブル好きゆえ、寺門の近くに集まり、 これが後の門前町となったのである。今でいうゲームセンターであろう。 腰掛に赤毛氈を敷き、軒先には目立つように赤旗をはためかせたのは、中国茶は赤茶色だから、赤茶博打を開帳しているという目印の為で客寄せだったのである。
茶の湯
南北朝の頃は「林間茶湯」と呼ばれていた。 現代のサウナ風呂のような蒸し風呂で汗をかきつつ、木にぶらさげた賞品の奪い合いの茶博奕で、水で茶をいれる訳はないのに「湯」の字が付くのはそのためなのである。 足利期になると、日本原住民の者が体制側に勤めようとすれば、頭を丸めナムアミダと唱え阿弥とつけねば奉公できなかった。 己が民族へ食うためとは言え、これは裏切り行為でしかなかったのである。それゆえ、堺あたりで、口惜しさと悔いで集った連中が持ちだしてきた茶に、 緑青をまぜたのを廻し呑みしつ、「この中で誰かが死ぬかも知れへんが、それは皆に代ってのご先祖さまへの罪滅ぼしや」と急性胃炎で死ぬ者が出ても免罪符のごとく考え侘びの茶とした。 しかし革屋業の松屋あたりへ役人が見廻りにきて発見され、 「植物はつめば枯れて茶褐色になるものなのに、汝らが喫しているのは青黒色なのは何であるか」と、見つかって取調べを受けた時は、これは青葉のままで密封してます特殊な茶ですと誤魔化した。 だから戦国期に入ると、武州狭山とか駿府清水、宇治河原といった日本原住系の除地とよばれる特殊地にのみ茶は限定栽培されるようになり、江戸期に入っても抹茶は公家は喫しないのが実状だった。
茶道
織出信長が茶道を盛んにしたのは道楽ではない。戦国時代は、家臣や降参した武将が、いくら口先で忠誠を誓ったり、起請文を書いてもすぐ裏切り者がでる。 故に信長は青茶をリトマス試験紙にしたのである。 亭主と呼ばれる側は茶をたてるだけで一口も喫らず、呼ばれた者が神妙に畏まって呑むのは、生死を賭けての試験場だったからである。 つまり逃げ出せぬように入口も、にじり囗と極めて狭かった。この作法は現在でもそのまま継承されている。 元禄期に入って仏教を国教にするため転宗せぬ原住民系の者らへの大弾圧が始った時、京へきた吉良上野介は千宗易の血脈をひくと称する宗室をもってきて別個に体制側千家を新しくたてた。 だが吉良はこのとき、茶を喫する前と後に甘味を口中へ入れ、先に胃壁にアルカリ膜をはらせ、三口半にゆっくり刺激せぬように呑みこみ、 また甘味を入れて中和させ絶対に急性胃炎を起さぬ茶道を創始した。 このため新興の裏千家の茶は婦女にも安心して親しまれ隆盛の途をたどるようになったのである。
茶博奕
始めは、茶碗の蓋をとって茶柱の有無に賭けるだけの単純なものだったが、本非の沙汰を味で見分け、唐渡来の本場茶なのか、内地産の茶なのかを、 呑みわけの難しいものになってきたのである。 現在、コーヒーのモカ何%キリマンジャロ何%とミックスを呑み分けて当てるように、茶の割合を舌で当てるポンピ(日本の「ポン」、いいやそうじゃない「非」) の勝負は銭を賭けて鉄火場となり、京の鴨川ベリで客引きするのをポンピぴきといった。 現在鉄火場は法律違反だから、キャバクラやぼったくりバーの客引きが「ポンピキ」と呼ばれている。 赤い唐茶は公家のものゆえ緑青茶で泡だてが、巧くゆくかどうかの、庶民の間での賭け茶屋もできた。 江戸期に入っても、尾張や出雲では盛んで、街道絵で紺色の旗をひらめかしているのがその茶店で、江戸期の浮世絵ではよく見られる。
お詫びの茶が賭に変ったのである。だが勝っても街道の茶店では銭をくれない。だからよしずの蔭の天水桶の生温い陽なた水に、ざぶっと飛びこみ汗を流させて貰う行水をさせてもらった。 冬なら寒いので行水はできない代わりに、どぶろく一杯が相場だった。 が、幕末まで雲州松江では江戸屋敷でも女中や腰元が泡だて比べをし、信長の城跡の清洲では近くの七社祭礼で開催していた。 そして前記のように、甘味を服用前後に口中に入れだしてからは急性胃炎はなくなり女でも安心して飲めるようになった。
茶せん
正徳三年五月二十九日〈長州家代官覚書〉の第一条に「茶セン、桓之内、道の者、遊君、川田の取締のこと」とある。 菅茶山の〈福山志料〉にも「茶センは下り者にて夜番」とある。
「このたび私共の国にて、川田の者と茶センが争うておりますが、私共の縄張りを彼らが荒さぬようにお差図下さい。 正徳二年辰七月備後国福山多田三吉村三八 九郎助同関助 京都川田頭中様」原文は候文で書かれた歎願書が残っている。 三八とは福山城主となった水野勝成が三河より伴ってきた八の部族の事で、 つまり一般には、はちとか八部衆とよばれている処の、その筋の者とされていた拝火宗徒である。召捕入牢裁判断罪の一切をなした出雲地方の鉢屋と同じで、
茶せんより儲かるからと製革業に手を出してきたゆえ、御用っ御用と召捕りに向かったが恐れ入らず、自分らにも権利があると逆襲され、 困って牢へも入れられず京の大親方へ伺いをだしたのである。 岡山の吉備地方では、中元や年末年始に茶せんを作って配り、彼岸にはシキミを持って米麦や銭を集めた風習が在った。 関西だけに何故にかたまっていたかといえば、この起こりは堺である。革屋の松屋らが始めた侘びの荼が、従来の唐渡りの金属性の物でなく竹の茶せんに代えた。 織田信長はササラの連中が竹細工の荼せんを高価に売って利を得ているのに目をつけ、髷をたてて茶せん髷として流行させた。 次男の後の信雄に「茶せん丸」の名もつけて己れが味方にした。しかし秀吉の代になると情勢が一変した。 秀吉は大明国に討ち入って、北京周辺を占領し、中国系の血を引く天皇や公家に与えるため「チャンコロは国へ帰れ」とばかり遠征を企てた。 (己が日本原住民として初代天皇になろうとして、京に新御所として豪壮な聚楽第も建てた。しかし秀吉の急死のためこの壮大な計画は頓挫した) そこで遠征用の大量の火薬原料の硝石を人手するため、刀狩りをし、原住民を大掛かりに捕えて、堺や九州から見返りに船債みして奴隷輸出をした。 これに堪りかねたササラ者たちは千宗易や妻の宗恩に頼って一揆を起こそうとした。しかしこの情報をいち早く察知した秀吉は、ササラ者を一網打尽に捕らえて 大坂以西の別所囲地へ放りこんでしまった。それが茶せんと呼ばれだしたのである。 茶湯をたしなまれる方には悪いが、くり返すが日本人は8割か9割まで庶民でつまり原住系なのである。
裏千家の大恩人吉良上野介
吉良上野介といえば芝居の仇役だが、今日の茶湯を考えたのは彼である。千宗恩の連れ子の少庵が跡目をつぎ、その子の宗旦、宗佐と続いたが、 仏教を国教にと神仏混合令をだして徳川綱吉の代になると、反仏派の千家では困る。そこで後西帝を退位させ幽閉した時に京の公家達へ、妻三姫の実家上杉家の金をまいて人気のある彼へ、 柳沢吉保が体制側の茶道を作らせた。
それまでは青茶だけを服用するのだったのを、甘味を初めに口中へ入れて胃壁に防幕を作り、ゆっくり三口半に啜って、残りの甘味を胃へ送りこんで中和させるという、 絶対安全な喫し方を考案したのも吉良だし、千宗易の血統という千宗室を探してきて、今日の裏千家を創立させたのも上野介である。 つまり、このために、まだ知らぬ人も多いが、煎茶ではなく抹消の「抹」をつける抹茶に関しては今でも厳然として吉良に権利があって、「転茶」とか「天茶」と称する混合する為の製品は、 現代でも三州の愛知県西尾町吉良が出荷権を握っていて、各地の茶問屋は吉良から仕入れねばならぬ不文律が業界では定まっている。 なにも吉良上野介が生前に善政をしいたから三河では「忠臣蔵」の芝居を上演させないのではなく、現代でも抹茶の利益で儲かっているから吉良さまさまなのである。 コーヒーや紅茶と違って、泡消化器や粉石鹸に入れる泡の原料のポエムや硫酸ナトリウムの加工物を入れる抹茶は、非衛生的であると外人には嫌われる。日本に来て活花を習うのはいても、 抹茶をやるのは絶無である。 以前、英国王エリザベス女王が国賓として来日したが、接待で野点の茶を演出した際、飲むふりをしただけで、茶は飲まなかったという。 三船敏郎が海外向きに製作した映画で失敗したのも、野立ての会で抹茶を喫する場面が愛想をつかされ、向こうの配給会社にそっぽをむかれたゆえと伝わるのも、むべなるかな、そのせいである。 いわゆる利休が茶道の祖なら表千家が栄えるべきなのに、今も裏千家が取って換っている。 幕末まで唐茶でない青茶は限定地栽培で、狭山事件で有名な狭山とか久能別所の清水と定まっていた。 また、堺を自由都市と歴史家は説くが、今の香港とは違う。えびす地はどこでもそうだったが、堺も除地として幕末まではずっと領主や代官から干渉されず年貢をかけられずにすんだのである。