「兼見卿記」と「多門院日記」から見える信長殺しの真相
嗚呼忠臣 明智光秀
嗚呼忠臣 明智光秀



吉田兼見といい、吉田神道で神祇大副の位を持つ。
信長が本能寺で爆殺された後、略奪や暴動が激しくなった京の治安を守り、御所の安寧に尽力が在った光秀を評価した御所が、
明智光秀へ征夷大将軍任命の詔を出した。兼見はその使として安土城へ行ったのが、秀吉に忌まれる処となった。
ということはつまり、征夷大将軍宣下書の配達人であり、現場当事者だったから、秀吉は「目撃者抹殺」を図ったのである。
(家康は江戸幕府を開き、武家の棟梁として「征夷大将軍」となったが、秀吉はライバルであった光秀の後塵を拝するのを嫌って、御所の官位の関白となった)
兼見は命が危なくなったので、その弁明にと十八巻の日誌を改めて書き直して残している。
ということは、取りも直さず現在残されている「兼見卿記」は信長殺しの真実が書かれていないという事になり、一級史料とは言えない。
そして兼見は、当時、京の財閥である蜷川家の一族に嫁に行っていた細川幽斎の娘が居て、離婚して京に居た。
この出戻り娘を倅の嫁に迎えている。さらに京の吉田山に幽斎の隠居所を建ててまでして秀吉の歓心を買っている。
これには訳が在って、細川は最初長岡を名乗っていて、本能寺事件の時は長岡番所として京の入り口を守っていた。
この番所を一万二千人からの、斎藤内蔵助率いる本能寺襲撃部隊をやすやすと通しているので、細川も秀吉も信長襲撃計画は知っていたことになる。
もっといえば一味という事になる。
さて、この信長殺しの当時の状況を詳細に考察してみたい。まず、
<多聞院日記>に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は、他見を憚りながら、「二十四日に、本能寺の変の時に二城御所に居られた誠仁親王様が崩御された。疱瘡とかハシカと公表されたが、
そんなものに罹る御齢ではない三十五歳である。腹を切らされて自殺だそうだ。もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決ったも同然ではないか」と書き、そして、遡った<七月七日の条>には、
「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪い。そんな面当てをなさいますなら、此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆もみんな並べ、張付けにかけて殺しまするぞ。
と秀吉に脅迫をされた。みかどは無念に思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に引用したが、<人物・日本の歴史・読売新聞版>は、この裏話を紹介してから、秀吉
への譲位の噂は、しきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵が焼け、天変地異が続いたので、さすがに秀吉も思いとどまり、十一月七日、誠仁親王の遺孤の和仁親王を、後陽成帝として御位につかせ給うた。とある。
だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準后」の高位は、その恩に報いたのである、という解釈も成り立ってくる。
だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買いかぶる事なく、たった捨て扶持の「一万石」しか、前将軍にはやらなかったというのである。
「信長殺しの真犯人は」
直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問いつめられるか、証拠をつきつけられて、万策尽きて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いが濃厚な容疑者になっておられる。
光秀と親王が睦まじくなられたのは、天正七年に、御所御料山国荘を回復した時かららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵(おくら)の立入(たちいり)宗継が、
畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴え出て、光秀が討伐し、内侍所から誠仁親王、下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させた事が、<お湯殿上日記>に詳しく出ている。
光秀は、足利義昭が出奔した後、空城になっている二条城を修理し、ここを二城御所つまり下の御所として誠仁親王に住まっていただいたぐらいで、この時代には、
「当世まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。だから優渥なる女房奉書の勅語も戴いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜っている。史上、こういう前例は他にはない。
後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遥かに篤かったようである。
だから六月二日上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐心していた時、てっきり昔の足利尊氏にもあたる信長を倒した者は、光秀であるだろ
うと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。そこで内示ではあろうが、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまいか。
この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にある。
十月七日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「なんの沙汰」があったのかは、当時の記録はみな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。だが、光秀にとって、
それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐお礼に禁中へ参内している。そして、銀五百枚を、すぐさまお礼にと献納している。
この事実から推していくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。
こうゆうことがあったからこそ、その兼見は、天正十年の日記を、六月下旬に、すっかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。
さて、光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その六日目に、あっけなく死んでしまったから、この宣下は出されなかった事になっているが、こういう例は前にもある。
木曽義仲が平家を破って上洛した時、後白河法皇によって、寿永三年正月、征夷大将軍の宣下はあったが、二十日に源の範頼、義経の軍勢が、勢多と宇治から突入してきて、義仲が粟津で敗死してしまったから、
その侭うやむやになってしまった前例である。
おそらく六月二日の午前九時過ぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、とりあえず天機奉伺に上の御所へと参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死は、はっきりしていなかったが、
官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換って、すぐ武門の棟梁たるべし」といった、お言葉を賜ってしまったのであろう。そうでなければ、高飛車に、信長の「一掃」に脅えていた御所から、
「信長を討ち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でもいただいてしまったのだろう。
これは六月二日か、さもなくば三日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入りしているし、もはや、
「綸言(りんげん)汗のごとし」である。 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったのであろう。
「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おおみことのりとして、甘受して受けてたつしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。
恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、これは受けて立たねばならなかったろう。私だって、その場になれば、ハアッと、おうけしてしまう筈である。
もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、余がつつがなく次の帝の位につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたであろう。
(おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、後で証拠として秀吉に握られてしまった事も想像がつく)だが、その時点においては、宮中の百官、女官こぞって、これからは米の心配もなくなろうと、
みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。
人間は五十になっても六十になっても、良い児になろう、賞められたいという願望はあるものである。光秀だって同じだったろう。
主上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望を担えば「信長殺し」の悪名もなんのその、この時点から、臣光秀は大義に殉じて、謀叛人になってしまったのであろう。つまり「信長殺し」に名前を貸し、
自分がその名義人になってしまったのである。
もちろん、宮中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をと、その時すぐにも話はあったろう。
だが、かつて光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、十五代将軍として現存しているから、それは望めない事と光秀は想っていた。
だから七日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、兼見にまで、銀五十枚を謝礼に贈っている史実がある。
もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か、又は事後に承諾はとったものであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛させ、弁口のたつ、
その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫するために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが、本当の真相なのであろう。
だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるものなら、せっかく宣下された征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかった事にされ、一謀叛人としてしか扱われていない光秀に、
せめて位階でも贈られてもよいような気がする。しかし、考えてみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、喜んで死地につくのは当然の事であったから、
臣光秀にしろ、大君のおんために醜(しこ)の御楯(みたて)として散華したのであろう。
ただ、光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任していた事がわかっていないから、全ての解釈が食い違ってくる。たとえば秀吉と戦った山崎合戦で、
伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の主だった面々が、一人残らず敢闘し討死している事が<蓮成院記録><言経卿記><多聞院日記>に出ているが、
これとても、光秀が征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死を遂げたのである。
信長の一部将だったら、格上の将軍直属の武将である彼らが、命がけで戦うはずはない。
だから、この際、岸信介氏や東竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って戴きたいものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。
もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は、改めて認められるべきであろう。
さて、兼見の日記に戻るが、その日記には当時親交のあった千宗易のことを「理休」と何か所にもわたって書き込んでいて、利休なる名称は何処にも出てこない。
だからこれは後年の贋作で、茶道具で儲けようとした好事家の手作りであるとの証拠を明白に今に残しているのである。
信長が本能寺で爆殺された後、略奪や暴動が激しくなった京の治安を守り、御所の安寧に尽力が在った光秀を評価した御所が、
明智光秀へ征夷大将軍任命の詔を出した。兼見はその使として安土城へ行ったのが、秀吉に忌まれる処となった。
ということはつまり、征夷大将軍宣下書の配達人であり、現場当事者だったから、秀吉は「目撃者抹殺」を図ったのである。
(家康は江戸幕府を開き、武家の棟梁として「征夷大将軍」となったが、秀吉はライバルであった光秀の後塵を拝するのを嫌って、御所の官位の関白となった)
兼見は命が危なくなったので、その弁明にと十八巻の日誌を改めて書き直して残している。
ということは、取りも直さず現在残されている「兼見卿記」は信長殺しの真実が書かれていないという事になり、一級史料とは言えない。
そして兼見は、当時、京の財閥である蜷川家の一族に嫁に行っていた細川幽斎の娘が居て、離婚して京に居た。
この出戻り娘を倅の嫁に迎えている。さらに京の吉田山に幽斎の隠居所を建ててまでして秀吉の歓心を買っている。
これには訳が在って、細川は最初長岡を名乗っていて、本能寺事件の時は長岡番所として京の入り口を守っていた。
この番所を一万二千人からの、斎藤内蔵助率いる本能寺襲撃部隊をやすやすと通しているので、細川も秀吉も信長襲撃計画は知っていたことになる。
もっといえば一味という事になる。
さて、この信長殺しの当時の状況を詳細に考察してみたい。まず、
<多聞院日記>に、奈良興福寺の僧の多聞院英俊は、他見を憚りながら、「二十四日に、本能寺の変の時に二城御所に居られた誠仁親王様が崩御された。疱瘡とかハシカと公表されたが、
そんなものに罹る御齢ではない三十五歳である。腹を切らされて自殺だそうだ。もし自害がはっきりしてくれば、これは秀吉が次の天皇と決ったも同然ではないか」と書き、そして、遡った<七月七日の条>には、
「みかど(正親町帝)も切腹されようとなさった。すると今(死なれて)は都合が悪い。そんな面当てをなさいますなら、此方にも覚悟があります。お前さまの女房衆もみんな並べ、張付けにかけて殺しまするぞ。
と秀吉に脅迫をされた。みかどは無念に思召され、食をとらず餓死までなさろうと遊ばされ」とも書いてあるのは前に簡単に引用したが、<人物・日本の歴史・読売新聞版>は、この裏話を紹介してから、秀吉
への譲位の噂は、しきりと取り沙汰されたが、吉野山や川上地蔵が焼け、天変地異が続いたので、さすがに秀吉も思いとどまり、十一月七日、誠仁親王の遺孤の和仁親王を、後陽成帝として御位につかせ給うた。とある。
だから宮中では、明智光秀を使嗾したのは足利義昭とばかり思っていたから、「準后」の高位は、その恩に報いたのである、という解釈も成り立ってくる。
だが、この間の真相を知っている秀吉は、義昭を買いかぶる事なく、たった捨て扶持の「一万石」しか、前将軍にはやらなかったというのである。
「信長殺しの真犯人は」
直接に手を下した殺し屋は別とすれば、秀吉に問いつめられるか、証拠をつきつけられて、万策尽きて自害された誠仁親王が、まこと恐れ多いが濃厚な容疑者になっておられる。
光秀と親王が睦まじくなられたのは、天正七年に、御所御料山国荘を回復した時かららしい。ここの料米を宇都左近太夫に押領され、禁裏御蔵(おくら)の立入(たちいり)宗継が、
畏れ多いが至上の飯米にもことかくと訴え出て、光秀が討伐し、内侍所から誠仁親王、下は女中にまで、その占領米を配分し、狂喜させた事が、<お湯殿上日記>に詳しく出ている。
光秀は、足利義昭が出奔した後、空城になっている二条城を修理し、ここを二城御所つまり下の御所として誠仁親王に住まっていただいたぐらいで、この時代には、
「当世まれにみる勤王の士」として光秀はかわれていた。だから優渥なる女房奉書の勅語も戴いていたし、正親町帝より、馬、鎧、香袋まで賜っている。史上、こういう前例は他にはない。
後醍醐帝の楠木正成に対するより、正親町帝の光秀への信任のほうが遥かに篤かったようである。
だから六月二日上洛してきた光秀が惨事に愕いて、善後策をいかに立てようかと腐心していた時、てっきり昔の足利尊氏にもあたる信長を倒した者は、光秀であるだろ
うと、宮中では取り沙汰されたのではなかろうか。そこで内示ではあろうが、当時空位であった征夷大将軍の話が出たのではあるまいか。
この餌に誘惑されてしまって、信長殺しを光秀がかぶってしまった形跡は充分にある。
十月七日に安土城で、光秀は勅使の吉田兼見を迎えている。「なんの沙汰」があったのかは、当時の記録はみな廃棄されたり破かれて何も伝わってはいない。だが、光秀にとって、
それが望外な喜ばしいものだった証拠には、翌日、すぐお礼に禁中へ参内している。そして、銀五百枚を、すぐさまお礼にと献納している。
この事実から推していくと、勅使吉田兼見によって伝達されたものは、「征夷大将軍の宣下」に他ならなくなる。
こうゆうことがあったからこそ、その兼見は、天正十年の日記を、六月下旬に、すっかり書き改めて、二重帳簿にしなければならなかったのである。
さて、光秀に正式に「征夷大将軍」の命が下って、その六日目に、あっけなく死んでしまったから、この宣下は出されなかった事になっているが、こういう例は前にもある。
木曽義仲が平家を破って上洛した時、後白河法皇によって、寿永三年正月、征夷大将軍の宣下はあったが、二十日に源の範頼、義経の軍勢が、勢多と宇治から突入してきて、義仲が粟津で敗死してしまったから、
その侭うやむやになってしまった前例である。
おそらく六月二日の午前九時過ぎに上洛してきた光秀は、事の重大さに仰天し、とりあえず天機奉伺に上の御所へと参内したと思われる。すると、そこで、信長の生死は、はっきりしていなかったが、
官位につけ御所の味方にしようと思召され、「換って、すぐ武門の棟梁たるべし」といった、お言葉を賜ってしまったのであろう。そうでなければ、高飛車に、信長の「一掃」に脅えていた御所から、
「信長を討ち宸襟を休め奉りたるは奇特の事なり」といった女房奉書でもいただいてしまったのだろう。
これは六月二日か、さもなくば三日に上洛した日あたりに、仰せを蒙ったものと推定される。こうなると明智光秀は当惑したであろうが、御所には長年にわたって出入りしているし、もはや、
「綸言(りんげん)汗のごとし」である。 一日本人として光秀は、「おおみことのり」を畏み承るしかなかったのであろう。
「嗚呼忠臣明智光秀」は、身に覚えのない信長殺しを、おおみことのりとして、甘受して受けてたつしか、この場合、「臣光秀」としての立場はなかったと推察される。
恐れ多くも一天万乗の君からの至上命令とあれば、それが何であったとしても、これは受けて立たねばならなかったろう。私だって、その場になれば、ハアッと、おうけしてしまう筈である。
もちろん当時は、上御所へ移っていられた誠仁親王も、余がつつがなく次の帝の位につけるのも、これからの光秀の働きによる。よしなに励むがよいと仰せ出されたであろう。
(おそらく親王が激励にかかれた書簡の二、三が、後で証拠として秀吉に握られてしまった事も想像がつく)だが、その時点においては、宮中の百官、女官こぞって、これからは米の心配もなくなろうと、
みな光秀に期待と信頼の瞳をむけたことであろう。
人間は五十になっても六十になっても、良い児になろう、賞められたいという願望はあるものである。光秀だって同じだったろう。
主上より優渥なお言葉を賜り、宮中の衆望を担えば「信長殺し」の悪名もなんのその、この時点から、臣光秀は大義に殉じて、謀叛人になってしまったのであろう。つまり「信長殺し」に名前を貸し、
自分がその名義人になってしまったのである。
もちろん、宮中に於ても、光秀に対し、「征夷大将軍」の宣下をと、その時すぐにも話はあったろう。
だが、かつて光秀の仕えた足利義昭が、備後の鞆に、十五代将軍として現存しているから、それは望めない事と光秀は想っていた。
だから七日に、吉田兼見が勅使として下向し、その伝達式があると、光秀は喜んで、兼見にまで、銀五十枚を謝礼に贈っている史実がある。
もちろん禁中としては、備後の義昭に対して、事前か、又は事後に承諾はとったものであろう。それだからこそ、義昭はむくれて、一年有余たって、その愛妾を上洛させ、弁口のたつ、
その春日局に色々と当時の事を批難させたのだろう。それを慰撫するために、義昭に「準后」の位を破格にも贈ったのが、本当の真相なのであろう。
だが、何もせずに備後にいた足利義昭が、準后になれるものなら、せっかく宣下された征夷大将軍さえも、今となっては貰わなかった事にされ、一謀叛人としてしか扱われていない光秀に、
せめて位階でも贈られてもよいような気がする。しかし、考えてみれば、戦前までの日本人は、至上の御為とあれば、身を鴻毛の軽きに比し、喜んで死地につくのは当然の事であったから、
臣光秀にしろ、大君のおんために醜(しこ)の御楯(みたて)として散華したのであろう。
ただ、光秀が大忠臣であったこと。並びに征夷大将軍に、たとえ一週間でも就任していた事がわかっていないから、全ての解釈が食い違ってくる。たとえば秀吉と戦った山崎合戦で、
伊勢貞興、諏訪飛騨守、御牧三左衛門といった旧室町御所奉公衆の主だった面々が、一人残らず敢闘し討死している事が<蓮成院記録><言経卿記><多聞院日記>に出ているが、
これとても、光秀が征夷大将軍になっていたからこそ、その馬前において勇戦奮闘し、ついに戦死を遂げたのである。
信長の一部将だったら、格上の将軍直属の武将である彼らが、命がけで戦うはずはない。
だから、この際、岸信介氏や東竜太郎氏なみに、明智光秀氏にも正一位を贈って戴きたいものである。彼は、なにしろ勤皇家として史上最高の価値のある男である。
もう、好ましからぬ誤解がとけて、その尽忠精神は、改めて認められるべきであろう。
さて、兼見の日記に戻るが、その日記には当時親交のあった千宗易のことを「理休」と何か所にもわたって書き込んでいて、利休なる名称は何処にも出てこない。
だからこれは後年の贋作で、茶道具で儲けようとした好事家の手作りであるとの証拠を明白に今に残しているのである。