無宿人とは
徳川家康の素性
信長殺しの黒幕は家康
「徳川家康は二人だった」
「徳川家康その名は世良田次郎三郎という」
「無宿人は悪人ではない」
「江戸の庶民は奴隷だった」



江戸時代の一般庶民の生計は、どうも映画やテレビでしか判らぬものだから、現代では本当の内情は全く霧の彼方である。 近頃は杉浦某女が、「江戸二百七十年は天下泰平の世」ときめこんで、熊さん八ッあんのホンワカムード劇画で少女雑誌に連載している。本当に江戸時代は、落語の世界みたいに、 もの知りの横町の隠居がいて、後はのんきの助で、宵越しの銭はもたぬと、江戸の町民は陽気だったのだろうか。 一方大坂はどうだったのだろうか。真相は徳川慶喜が徳川家の隠し金(埋蔵金を掘り起こして)で、金のなかった新政府に献納され、徳川時代の一切が隠されてしまい、焚書され、 大公儀の都合のいい文書のみが今となっては覆刻されて活字本で出版されている。
今の一般庶民が見られるのは、中期以降の江戸の切絵図か、或いは精々の処、武鑑ぐらいである。はたして、そんな綺麗事だったろうか。 例えば、消防の際に、窓や連尺囲いの手の届く処は短かい鳶口だが、破壊消防時に柱や屋根を突き崩しに使った木槍は、先端が燃えて焦げて次々に使えなくなるので、 その場に棄ててきてしまっている。徳川吉宗時代に考案された竜吐水といっても、ポリバケツ三杯ぐらいの容量の代物で、これは焼けている処へ放水するのではなく類焼の惧れのある、 公儀官舎の大名邸や旗本邸の貰い火除けに水をかけていただけの話。浅野内匠頭も本所材木座のお上御用の火の番詰めの時は、今の祭礼の時の大団扇で風の流れを煽って、 防火していたとの記録がある。
だから現在の御茶の間の時代劇では、てんで昔をどうも想像できないだろう。綱吉からの江戸と、吉宗からのとは、正真正銘の処どんな有様だったのだろうか。 また、無宿人というのが出てきて、彼らは全て悪人という設定になっているが、本当にそうだったのか。ここでは江戸の実相を考察してみたい。
さて、以前、TBS日曜劇場の記念放映で、徳川家光の側室「おらんの方」では、彼女は哀れで貧しく、質素で優しい町娘という設定だったが、これは嘘っぱちである。 何故なら彼女は、当時の百済済州島の生まれで、れっきとしたクダラ人(朝鮮)の血脈なのである。日本原住民であった徳川家康の血脈は二代将軍秀忠で終り、 京、蜷川道斉の姪と美濃斉藤内蔵介との四女阿福の生んだ竹千代つまり家光(この事は、干代田城三の丸書物蔵の史料散逸を怖れ、明治四十四年国書刊行会非売品とし二百部限定刊 の第二巻447頁に明記されていて、古書相場では百万以上の高値がついている)の代になると、足利時代から蜷川家は親方明国の代理として、九州まで銀本位制にし、 東北や新潟の山金を京五山の監視のもとに長安の都へ、粗悪なビタ鉄銭とバーター制で同量同価で送りこんでいた事実がある。 だから彼女は仏教側なのは当然の事である。蜷川の姪の娘にあたる阿福が春日局になったのだから、これで春日局も生れつき仏教だったことも判りうる。
さて「斉藤内蔵介」の条にそれとなく書いておいたが、徳川家康が、三河の名門、松平元康の非業の死を利用し、その奥方瀬名姫(築山御前)に取り入り、 松平元康として、織田信長と清州城で三河と尾張の同盟の盟約をした。 これは戦国時代でも重いもので、一宮国府神社や津島明神の護符を三方に並べての厳かなものである。 もしこの誓紙に、一ヶ所の相違や違約があった場合は、信長は直ちに元康(家康)を神かけて殺掠するというものだった。 これは現在でも公文書偽造、身分詐欺に等しく、家康にしては大変な秘密であり、信長に対する負い目である。 だから、離合集散の激しい戦国の世には珍しく、この同盟は長続きしたのである。 しかし、本能寺の起きる頃には、元康、家康入れ替わりの実態が、信長にばれていた。これを知った家康は赦しを請う為、安土へ首代黄金三千枚を持参したが、信長は半分しか受け取らなかった。
九月二十一日には逆に目付として信長の小姓の長谷川竹をつけられ(当代記巻二の43頁)京見物の案内のごとく翌日は京へきていた。処が同二十九日に小姓三十騎のみを伴って信長が、 宿舎の本能寺入りすると、長谷川竹は直ちに家康に対して御気嫌伺いに行くようとすすめたが、
「何をか申す、わが首をとりに来たのだぞ」と家康は、齊藤内蔵介の京屋敷へ行きて千両を渡し、 「もし徳川の代がことなければ、そこもとの血脈をもって徳川家を継がさん」と必死の約定をなした。 家康はこの時の男の約束を守って、成人して結婚していた、お福を探し出し、春日局とし、己の種を仕込んで産ませたのが、三代目将軍の家光なのである。 しかし、己の種と思い込んでいた家光の本当の父親は天海僧正で、この家光の時代から、神徒だった徳川家の血が、仏教徒の血に変ってしまい、 ここに混沌の徳川史が始まるのであるが、これは後の話し。詳細は拙の「史擬 徳川家康」を読んで頂きたい。 https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35032972.html
(疑り深い信長を怖れた秀吉は、早くから用心の為、信長の近習を金と出世を餌に手なずけて居て、長谷川もその一人で、信長の情報は逐一秀吉の許へ届いていたから、 前もって毛利と和平交渉はしていて、本能寺の変後素早く戻って光秀を討つことができた)
この時まだ当年四鐡の幼女だった後の春日局は屋敷にいて、内蔵介の膝に抱れて瞑っていた。 この裏書きは本能寺の裏手の近くにあったイゼズス派のカリオン師父が、集まってきた丹波兵一万三千余の内で、教会へ呑み水を所望にきた武者共が、 「われらは三河の王イエヤスを討てと(丹波総目付サイトウさまの下知をうけて夜通し行軍してきて)信長さまのお目ざめを待っている処だ」と口々に話していたと本国ヘレポートしたのが、 松田毅一にょって邦訳されている。 家康は本能寺へ従来なら挨拶に参上する処だが、この時はそれどころか本国へ逃げ帰るため、船便を求め夜通しで泉州堺まで逃げのびた。 しかし堺の政所の松井友閖は別に信長よりの指示があったか、なかったか、そこは定かでないが、怪しんで船をみなとめていて家康一行の乗船をば拒んだ。
徳川資料の「当代記」では、「家康は堺より伊勢路」とあるが、やむなく服部半蔵の道案内で白子浦まで落ちのび三河の大浜に六月四日に戻り、 すぐさま東三河衆を集め己れは尾張嶋海まで斉藤内蔵介救援に布陣した。この時は、家康親衛隊ゆえ滅多に前線には出さずだった浜松出の酒井浄毀(当時は忠次)や、 駿河掛川の本多平八郎忠勝、遠江の井伊直政らに渥美半島七福神党の大久保一族の精鋭を動員し熱田源太夫の宮より桑名まで先駈させていた。
だが、肝心な斉藤内蔵介敗死をきくなり、信長の重臣河尻与之衛が守備していた甲州路へ、死なせても惜しくない三河人の東三河衆を進撃させ占領させた。 つまり「松平蔵人」になりすまして清洲城で信長と起請をとり換した旧悪が、その当時は「世良田の二郎三郎」だったことが、もはや発覚していたから家康は、 信長殺しに加担したのである。しかし、信長が上洛し本能寺に入ったのは、七年前より右大臣職を放棄し野人に戻っていた彼が御所の粛清を計ったのが、どうも真相たったようである。
「石山本願寺のご本山を信長めが攻めた時、佐久間信盛父子を高野山へ追放したあと、愚かな明智光秀めが主命第一と攻めくさった。よって仏罰てきめん御仏の思召に本能寺で、 互いに悪鬼羅刹のごと戦いはてたぞ。囚果応報とはこの事で、有難やの有難や、さあお念仏を唱和せよ」 と一向宗の真宗本願寺派が、仏教に転向さすべく善男善女らへ、説教師らによって広められたのが今は定説化されたのは、実際の黒幕だった徳川体制には都合が良かったからにすぎない。 徳川時代270年間の総てが、再三の慶喜の埋蔵金献納によってて、明治新政府によって義理がけされて蓋をされっ放しであるからして現代でも歴史屋は誤るのである。
「明治は遠くなりにけり」と俗にはいうが、各神職の任命権を昭和の今も握り、国学院大学などを組織化している吉田神道も、堂々と五代将軍綱吉の江戸時代から、この信長殺し光秀説である。 もうチョンマゲでなくなった21世紀も二十年になろうとしている現代でさえも、まだ17世紀その儘なのである。 「西大后」とよぶ中国の国策映画が封切られ、何故に日本も明治までは箱根の山から九州の涯まで銀本位制だったかも、トウ(藤原)と呼ぶ公家は親方中国だから、 銀本位ゆえのせいと判ったし、学校歴史では、中国で硝石が採鉱され火薬は製造と教わっていたが、映画では、今なら重油やガソリンをぶっかけて英国からの阿片を処分すべきなのに、 なけなしの輸入火薬を林則除は使ってしまった。中国映画の画面によれば、このため火薬のない清国軍一万三千は、鬼畜英仏聯合軍の銃口に対し、弓矢と青竜刀と戟だけで突進、 生き残りは僅か十余名となっている。映画だがこれは嘘ではないらしい。
無宿人はではない
火薬なしで銃が使えず、中国は阿片戦争に敗れた。が当時の日本も、まだ、孝明帝まではトウゲン王朝だったのが実態。だから今も藤原勧学院派が書いた日本書紀や、 続日本紀らの「六国史」が、現今の歴史屋たちの、あくまでも、金科玉条なのだから困るのである。 それもだが、これも甚だしい聞違いは「無宿人」の言葉である。四つの弾左衛門家へは、仏教側の破戒僧とか、心中の片割れの生き残りが払下げにされ。 この者たちは、着たきり雀の儘で、残飯で生かされ、死ぬまで処刑人の市中引き廻しの札もちなどさせられている。これを「人」つまり「」だと思っている。 つまりテレビの時代劇や小説は、無宿人とは犯罪者、刺青を各地奉行所で施された悪者として、現代でも、徳川御政道の儘で扱っているが、これは誤りである。 本当の処は人別(現在の戸籍)の有無である。
寺人別は、その寺へ寄進されていた奴隷百姓の子孫で寺の私有の資産だから各人に名をつけ、その子らが成人して人買いのくる春になると、騎馬民族系ゆえ、 「青」とか「しし」とよばれる彼らが馬と共に売られていって、競売されていた。これを「人馬の市」という。
そして「無宿人」とは「殺生禁断の地」と動物の皮剥ぎの生業を奪われ、やむなく寺の奴隷百姓にされて、管理されるのを拒んで山や海へ逃げた連中の事を云うのである。 長年強制されてきた怨念から、大陸からの進駐軍の押つけ輸入仏教を拒み通した。 この連中こそ江戸時代になっても、徳川御政道に従わぬ輩であると、棄民として捕まえてきて、先ず寄せ場へ収容をし、舶来職種の大工や指物師のような洗脳の賤教育を施し反抗すれば、 生きて戻れぬ佐渡金山の水換え人足にされた。つまり反仏教徒は、棄て殺しにしてもよしとする徳川ご政道によるものであった。 処が、テレビや大衆小説では、もの知りの故松本清張あたりでさえ、無宿入とはヤクザとか無頼漢だと誤るのである。 全く、とんでもない話である。
二代将軍秀忠以降にあってはすっかり世変りしてしまったのだ。京仏教体制の蜷川道斉の姪の娘の阿福の産んだ家光から政道変換したゆえ、仏教に転向せぬものは圧迫されたのである。 だが、これも、有りていに言えば徳川政権管理を拒み、奴隷となって各人別や町人別に名をかきこまれぬようにと「無宿者」とされていたのは、寝る所がない者たちではなく、 人別に書き込まれ、体制側に組み込まれることを嫌った「サンカ」族の事である。
もっとはっきり書けば、六世紀七世紀に渡来した進駐軍勢力の「貴種」と熊沢蕃山も、区別した彼らの子種を頂戴した、準舶来血液子孫の庶民に対し、 「飼戸女」(しこめ)とされカイト(開戸)と色んな当て字をされる九州や本土の、進駐軍御用達慰安所収容へ収容される前の女共を助け、山や海へと当てもない放浪に出だのがサンカ族の始まりで、 その純粋な日本人血液型が無宿人なのである。
だからヤクザや放浪者をもって無宿者と蔑すむのなら、それは仏教徳川御政道的視野での見方である。江戸時代から150年もたつのに、まだ純血日本人を誤るような考え方はチョンマゲ思考でしかない。 平成の聖代も御在位30年を越している有難き御治世である。チョンマゲ的見解は、もう修正してもよいのではあるまいか。維新後、金欠の明治新政府へ徳川慶喜が埋蔵金を献納し、 それと引換えに、「徳川治世之儀いかなる事にてあれ一切これはなきことに願いたく存じ御願い申し候」との再三の密約によって取り決められていたから、 現在も徳川史観そのままなのだという事を理解しなければならない。
世良田事件
この事件は、徳川幕府崩壊後、初めての反徳川騒動である。徳川家は、明治三十年になって、徳川の由緒正しさ、出自の正当をことさらうたった「松平記」を創作して配布した。 そして村岡素一郎の「史疑徳川家康」が出版されるや、徳川公爵家の権威で内務省警保局によって買い占めや発禁処分にし、この事件にも、ほおかむりの知らぬ顔を決め込んだ。 よって今では隠匿され忘却の彼方である。群馬県、上州新田庄世良田郷というのは、今も「徳川」の地名が残っている、昔は特殊村落である。 権現様(家康)は此処の出身だから前名は世良田二郎三郎を名乗り、代々新田の長史である岩佐家の系図を「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わり岩佐家には新田郷の人頭税を取ることを許可した。 (この新田家は幕末まで続き維新後は男爵となる)此の地の人間は絶対に農耕をしないので、富裕ではないが「恐れ多くも此の地は神君家康公の生誕の地である」と、家康の御威光によって、 近村から上納米を徴収して幕末まで徹底的に搾取してきた歴史がある。
さて、現代でもこうした特殊村落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると、いわれる元祖は徳川前公爵家かも知れぬ。勿論、家康の血統の尾張の継友を毒殺して、その弟の宗春の子供も一人残らず仕末し、 すっかり根絶やしにして、三代家光からは朝鮮の血を引く徳川に変貌したせいもあるが、臆面もなく堂々と、「徳川家康は松平蔵人元康の改姓名」とするような徳川神話を作った。 これは、皇室の藩塀たる華族会長の徳川の祖先が、特殊村落出身ではまずいということで、誤魔化しの発表である。故山岡荘八がその現代語訳の大河小説「徳川家康」をそっくりそのままで書いているので、 今では松平元康=徳川家康が通説となっている。
さて、明治時代まで近郊の者は世良田郷の人たちに遠慮し「世良田徳川は権現様の由緒ある地」と別扱いしていたのが、徳川公爵が「権現様は松平元康と同一人物で、三河の生まれ」と、 世良田生まれを否定したのが一般にも広まったから大変である。「よくもこれまで何百年も徒食していたな」と、積もりつもっていた積年の恨みが爆発して、 「二千の近在の者が、僅か二十四人しか住んでいない処へ乱暴して仕返しをした」のが、この世良田事件なのでである。
此の事件で、徳川公爵家は見舞いどころか、全く我関せずと頬被りした儘なのが後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。 そこで世良田徳川の者は鬼石やその他近くのに応援を求めて竹槍隊を組織しこれが全国運動の始まりとなるのである。
【注】 この一事をもってしても、松平元康が徳川家康だとする説は嘘だと いうことが明白である。ここで留意したいことは、特殊から出て世間で立身した者はその前身を隠したがるのか、 同じ出身者を酷く嫌う。現代でも有名な某会社等も、新入社員は興信所で身元調査を徹底的にさせているし、他の同じ出身の社長の処も会社側が極度に嫌っている。 『此処で誤解のないよう断っておくが、差別を容認したり助長するのが目的でこの文を書いているのではない。むしろ全く正反対で、謂われ無き差別は、歴史を正しく理解すれば解消される、 という立場だという事を強調しておくものである』
徳川家も家光以降は、此の傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえ有名な「三河風土記」は沢田源内の偽作であるし、大久保彦左衛門の「三河物語」は初めのものと大きく変わって、 これも家康神話に迎合して彦左衛門の子孫が加筆した偽作である。 何しろ「人間の一生は重荷を背負って・・・」の遺訓が、明治になって勝海舟らの旧幕臣らによって偽造された。が、これは「そんなことは嘘だ」と尾張徳川家ではバラしている。 海舟にすれば、幕臣なのに、自分はいち早く徳川を見限り、新政府に巧く取り入った罪滅ぼしか、徳川家のための最後のご奉公だったのだろう。 徳川家は小田原合戦後、それまでの三河遠江駿河を取り上げられ、関東に移ったが家康は世良田徳川の出身だから、同族である関東の地侍もみんな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。 尾張の三河は、一向宗一揆の名目にはなっているが、国中が家康を目の敵にしたから、家康は生涯で半月も岡崎城には居らず、いつも浜松城にいた。 だから、「三河譜代」と言うが、家康が召し抱えたのは関東の三河島衆のことで彼らを片っ端から旗本として召し抱えたのが本当のところである。 「野史辞典」に、尾張三河の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎とは全部が三河島の地侍である。だが現地採用の彼らに箔をつけるため尾張三河出身と変えたのか、 講談で誤られたか、広められて武鑑すらも間違えている。三河岡崎が家康の出身地なら、徳川家の直轄にする筈だし、家臣の水野五万石にするはずはない。
運動
大正十二年の関東大震災前後から、日本全国の特殊の人々が、ただ恰好だけに過ぎない、明治四年に発令された「エタ非人称号廃止令」は返上し、 昔のように自分たちの限定職業を戻して欲しいと各地で集まったのが、この運動である。明治維新後、近代国家建設を目指した薩長政府は、国民に税金を課すことになり、 新しく戸籍を作ることになった。これを明治壬申戸籍という。 江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、 この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。 まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。 この時出獄してきた松本治一郎がを作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。 これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、 国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。 「運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗するの闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一つぶせば何百円の懸賞で襲撃した。 当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて民が各地区から次々と逃亡が続出した。妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。 それが大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。
勿論協力しなければ弾圧されるので泣く泣く右翼の連中は命令に従ったのだと「酒井栄蔵回顧録」には出ていて仕方がなかったらしい。 昭和56年3月。NHKで当時の生き残りのの人々の回顧放送があったが、苗字にみんな石とか井、飯、伊の字が付いていて、当人は知らずだろうが、 壬申戸籍で新しくの者にも苗字を付ける際、多くはその出身地名をつけたがその他は「夷」の当て字変えをしたからである。