新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

徳川家康の素性 信長殺しの黒幕は家康 徳川家康その名は世良田次郎三郎という 徳川家康は二人だった

2019-05-14 19:04:42 | 古代から現代史まで

無宿人とは

徳川家康の素性
信長殺しの黒幕は家康
「徳川家康は二人だった」
「徳川家康その名は世良田次郎三郎という」
「無宿人は悪人ではない」
「江戸の庶民は奴隷だった」
 
 
 江戸時代の一般庶民の生計は、どうも映画やテレビでしか判らぬものだから、現代では本当の内情は全く霧の彼方である。 近頃は杉浦某女が、「江戸二百七十年は天下泰平の世」ときめこんで、熊さん八ッあんのホンワカムード劇画で少女雑誌に連載している。本当に江戸時代は、落語の世界みたいに、 もの知りの横町の隠居がいて、後はのんきの助で、宵越しの銭はもたぬと、江戸の町民は陽気だったのだろうか。 一方大坂はどうだったのだろうか。真相は徳川慶喜が徳川家の隠し金(埋蔵金を掘り起こして)で、金のなかった新政府に献納され、徳川時代の一切が隠されてしまい、焚書され、 大公儀の都合のいい文書のみが今となっては覆刻されて活字本で出版されている。
今の一般庶民が見られるのは、中期以降の江戸の切絵図か、或いは精々の処、武鑑ぐらいである。はたして、そんな綺麗事だったろうか。 例えば、消防の際に、窓や連尺囲いの手の届く処は短かい鳶口だが、破壊消防時に柱や屋根を突き崩しに使った木槍は、先端が燃えて焦げて次々に使えなくなるので、 その場に棄ててきてしまっている。徳川吉宗時代に考案された竜吐水といっても、ポリバケツ三杯ぐらいの容量の代物で、これは焼けている処へ放水するのではなく類焼の惧れのある、 公儀官舎の大名邸や旗本邸の貰い火除けに水をかけていただけの話。浅野内匠頭も本所材木座のお上御用の火の番詰めの時は、今の祭礼の時の大団扇で風の流れを煽って、 防火していたとの記録がある。
だから現在の御茶の間の時代劇では、てんで昔をどうも想像できないだろう。綱吉からの江戸と、吉宗からのとは、正真正銘の処どんな有様だったのだろうか。 また、無宿人というのが出てきて、彼らは全て悪人という設定になっているが、本当にそうだったのか。ここでは江戸の実相を考察してみたい。
           さて、以前、TBS日曜劇場の記念放映で、徳川家光の側室「おらんの方」では、彼女は哀れで貧しく、質素で優しい町娘という設定だったが、これは嘘っぱちである。 何故なら彼女は、当時の百済済州島の生まれで、れっきとしたクダラ人(朝鮮)の血脈なのである。日本原住民であった徳川家康の血脈は二代将軍秀忠で終り、 京、蜷川道斉の姪と美濃斉藤内蔵介との四女阿福の生んだ竹千代つまり家光(この事は、干代田城三の丸書物蔵の史料散逸を怖れ、明治四十四年国書刊行会非売品とし二百部限定刊 の第二巻447頁に明記されていて、古書相場では百万以上の高値がついている)の代になると、足利時代から蜷川家は親方明国の代理として、九州まで銀本位制にし、 東北や新潟の山金を京五山の監視のもとに長安の都へ、粗悪なビタ鉄銭とバーター制で同量同価で送りこんでいた事実がある。 だから彼女は仏教側なのは当然の事である。蜷川の姪の娘にあたる阿福が春日局になったのだから、これで春日局も生れつき仏教だったことも判りうる。
さて「斉藤内蔵介」の条にそれとなく書いておいたが、徳川家康が、三河の名門、松平元康の非業の死を利用し、その奥方瀬名姫(築山御前)に取り入り、 松平元康として、織田信長と清州城で三河と尾張の同盟の盟約をした。 これは戦国時代でも重いもので、一宮国府神社や津島明神の護符を三方に並べての厳かなものである。 もしこの誓紙に、一ヶ所の相違や違約があった場合は、信長は直ちに元康(家康)を神かけて殺掠するというものだった。 これは現在でも公文書偽造、身分詐欺に等しく、家康にしては大変な秘密であり、信長に対する負い目である。 だから、離合集散の激しい戦国の世には珍しく、この同盟は長続きしたのである。 しかし、本能寺の起きる頃には、元康、家康入れ替わりの実態が、信長にばれていた。これを知った家康は赦しを請う為、安土へ首代黄金三千枚を持参したが、信長は半分しか受け取らなかった。
九月二十一日には逆に目付として信長の小姓の長谷川竹をつけられ(当代記巻二の43頁)京見物の案内のごとく翌日は京へきていた。処が同二十九日に小姓三十騎のみを伴って信長が、 宿舎の本能寺入りすると、長谷川竹は直ちに家康に対して御気嫌伺いに行くようとすすめたが、
 「何をか申す、わが首をとりに来たのだぞ」と家康は、齊藤内蔵介の京屋敷へ行きて千両を渡し、  「もし徳川の代がことなければ、そこもとの血脈をもって徳川家を継がさん」と必死の約定をなした。 家康はこの時の男の約束を守って、成人して結婚していた、お福を探し出し、春日局とし、己の種を仕込んで産ませたのが、三代目将軍の家光なのである。 しかし、己の種と思い込んでいた家光の本当の父親は天海僧正で、この家光の時代から、神徒だった徳川家の血が、仏教徒の血に変ってしまい、 ここに混沌の徳川史が始まるのであるが、これは後の話し。詳細は拙の「史擬 徳川家康」を読んで頂きたい。 https://blogs.yahoo.co.jp/a23121222/35032972.html
(疑り深い信長を怖れた秀吉は、早くから用心の為、信長の近習を金と出世を餌に手なずけて居て、長谷川もその一人で、信長の情報は逐一秀吉の許へ届いていたから、 前もって毛利と和平交渉はしていて、本能寺の変後素早く戻って光秀を討つことができた)
この時まだ当年四鐡の幼女だった後の春日局は屋敷にいて、内蔵介の膝に抱れて瞑っていた。  この裏書きは本能寺の裏手の近くにあったイゼズス派のカリオン師父が、集まってきた丹波兵一万三千余の内で、教会へ呑み水を所望にきた武者共が、 「われらは三河の王イエヤスを討てと(丹波総目付サイトウさまの下知をうけて夜通し行軍してきて)信長さまのお目ざめを待っている処だ」と口々に話していたと本国ヘレポートしたのが、 松田毅一にょって邦訳されている。  家康は本能寺へ従来なら挨拶に参上する処だが、この時はそれどころか本国へ逃げ帰るため、船便を求め夜通しで泉州堺まで逃げのびた。 しかし堺の政所の松井友閖は別に信長よりの指示があったか、なかったか、そこは定かでないが、怪しんで船をみなとめていて家康一行の乗船をば拒んだ。
徳川資料の「当代記」では、「家康は堺より伊勢路」とあるが、やむなく服部半蔵の道案内で白子浦まで落ちのび三河の大浜に六月四日に戻り、 すぐさま東三河衆を集め己れは尾張嶋海まで斉藤内蔵介救援に布陣した。この時は、家康親衛隊ゆえ滅多に前線には出さずだった浜松出の酒井浄毀(当時は忠次)や、 駿河掛川の本多平八郎忠勝、遠江の井伊直政らに渥美半島七福神党の大久保一族の精鋭を動員し熱田源太夫の宮より桑名まで先駈させていた。
だが、肝心な斉藤内蔵介敗死をきくなり、信長の重臣河尻与之衛が守備していた甲州路へ、死なせても惜しくない三河人の東三河衆を進撃させ占領させた。  つまり「松平蔵人」になりすまして清洲城で信長と起請をとり換した旧悪が、その当時は「世良田の二郎三郎」だったことが、もはや発覚していたから家康は、 信長殺しに加担したのである。しかし、信長が上洛し本能寺に入ったのは、七年前より右大臣職を放棄し野人に戻っていた彼が御所の粛清を計ったのが、どうも真相たったようである。  
「石山本願寺のご本山を信長めが攻めた時、佐久間信盛父子を高野山へ追放したあと、愚かな明智光秀めが主命第一と攻めくさった。よって仏罰てきめん御仏の思召に本能寺で、 互いに悪鬼羅刹のごと戦いはてたぞ。囚果応報とはこの事で、有難やの有難や、さあお念仏を唱和せよ」  と一向宗の真宗本願寺派が、仏教に転向さすべく善男善女らへ、説教師らによって広められたのが今は定説化されたのは、実際の黒幕だった徳川体制には都合が良かったからにすぎない。 徳川時代270年間の総てが、再三の慶喜の埋蔵金献納によってて、明治新政府によって義理がけされて蓋をされっ放しであるからして現代でも歴史屋は誤るのである。
「明治は遠くなりにけり」と俗にはいうが、各神職の任命権を昭和の今も握り、国学院大学などを組織化している吉田神道も、堂々と五代将軍綱吉の江戸時代から、この信長殺し光秀説である。 もうチョンマゲでなくなった21世紀も二十年になろうとしている現代でさえも、まだ17世紀その儘なのである。  「西大后」とよぶ中国の国策映画が封切られ、何故に日本も明治までは箱根の山から九州の涯まで銀本位制だったかも、トウ(藤原)と呼ぶ公家は親方中国だから、 銀本位ゆえのせいと判ったし、学校歴史では、中国で硝石が採鉱され火薬は製造と教わっていたが、映画では、今なら重油やガソリンをぶっかけて英国からの阿片を処分すべきなのに、 なけなしの輸入火薬を林則除は使ってしまった。中国映画の画面によれば、このため火薬のない清国軍一万三千は、鬼畜英仏聯合軍の銃口に対し、弓矢と青竜刀と戟だけで突進、 生き残りは僅か十余名となっている。映画だがこれは嘘ではないらしい。
 無宿人はではない
 火薬なしで銃が使えず、中国は阿片戦争に敗れた。が当時の日本も、まだ、孝明帝まではトウゲン王朝だったのが実態。だから今も藤原勧学院派が書いた日本書紀や、 続日本紀らの「六国史」が、現今の歴史屋たちの、あくまでも、金科玉条なのだから困るのである。  それもだが、これも甚だしい聞違いは「無宿人」の言葉である。四つの弾左衛門家へは、仏教側の破戒僧とか、心中の片割れの生き残りが払下げにされ。 この者たちは、着たきり雀の儘で、残飯で生かされ、死ぬまで処刑人の市中引き廻しの札もちなどさせられている。これを「人」つまり「」だと思っている。  つまりテレビの時代劇や小説は、無宿人とは犯罪者、刺青を各地奉行所で施された悪者として、現代でも、徳川御政道の儘で扱っているが、これは誤りである。 本当の処は人別(現在の戸籍)の有無である。
 寺人別は、その寺へ寄進されていた奴隷百姓の子孫で寺の私有の資産だから各人に名をつけ、その子らが成人して人買いのくる春になると、騎馬民族系ゆえ、 「青」とか「しし」とよばれる彼らが馬と共に売られていって、競売されていた。これを「人馬の市」という。
そして「無宿人」とは「殺生禁断の地」と動物の皮剥ぎの生業を奪われ、やむなく寺の奴隷百姓にされて、管理されるのを拒んで山や海へ逃げた連中の事を云うのである。 長年強制されてきた怨念から、大陸からの進駐軍の押つけ輸入仏教を拒み通した。  この連中こそ江戸時代になっても、徳川御政道に従わぬ輩であると、棄民として捕まえてきて、先ず寄せ場へ収容をし、舶来職種の大工や指物師のような洗脳の賤教育を施し反抗すれば、 生きて戻れぬ佐渡金山の水換え人足にされた。つまり反仏教徒は、棄て殺しにしてもよしとする徳川ご政道によるものであった。 処が、テレビや大衆小説では、もの知りの故松本清張あたりでさえ、無宿入とはヤクザとか無頼漢だと誤るのである。 全く、とんでもない話である。
二代将軍秀忠以降にあってはすっかり世変りしてしまったのだ。京仏教体制の蜷川道斉の姪の娘の阿福の産んだ家光から政道変換したゆえ、仏教に転向せぬものは圧迫されたのである。 だが、これも、有りていに言えば徳川政権管理を拒み、奴隷となって各人別や町人別に名をかきこまれぬようにと「無宿者」とされていたのは、寝る所がない者たちではなく、 人別に書き込まれ、体制側に組み込まれることを嫌った「サンカ」族の事である。
もっとはっきり書けば、六世紀七世紀に渡来した進駐軍勢力の「貴種」と熊沢蕃山も、区別した彼らの子種を頂戴した、準舶来血液子孫の庶民に対し、 「飼戸女」(しこめ)とされカイト(開戸)と色んな当て字をされる九州や本土の、進駐軍御用達慰安所収容へ収容される前の女共を助け、山や海へと当てもない放浪に出だのがサンカ族の始まりで、 その純粋な日本人血液型が無宿人なのである。
 だからヤクザや放浪者をもって無宿者と蔑すむのなら、それは仏教徳川御政道的視野での見方である。江戸時代から150年もたつのに、まだ純血日本人を誤るような考え方はチョンマゲ思考でしかない。 平成の聖代も御在位30年を越している有難き御治世である。チョンマゲ的見解は、もう修正してもよいのではあるまいか。維新後、金欠の明治新政府へ徳川慶喜が埋蔵金を献納し、 それと引換えに、「徳川治世之儀いかなる事にてあれ一切これはなきことに願いたく存じ御願い申し候」との再三の密約によって取り決められていたから、 現在も徳川史観そのままなのだという事を理解しなければならない。
 
                                   世良田事件
この事件は、徳川幕府崩壊後、初めての反徳川騒動である。徳川家は、明治三十年になって、徳川の由緒正しさ、出自の正当をことさらうたった「松平記」を創作して配布した。 そして村岡素一郎の「史疑徳川家康」が出版されるや、徳川公爵家の権威で内務省警保局によって買い占めや発禁処分にし、この事件にも、ほおかむりの知らぬ顔を決め込んだ。 よって今では隠匿され忘却の彼方である。群馬県、上州新田庄世良田郷というのは、今も「徳川」の地名が残っている、昔は特殊村落である。 権現様(家康)は此処の出身だから前名は世良田二郎三郎を名乗り、代々新田の長史である岩佐家の系図を「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わり岩佐家には新田郷の人頭税を取ることを許可した。 (この新田家は幕末まで続き維新後は男爵となる)此の地の人間は絶対に農耕をしないので、富裕ではないが「恐れ多くも此の地は神君家康公の生誕の地である」と、家康の御威光によって、 近村から上納米を徴収して幕末まで徹底的に搾取してきた歴史がある。
 さて、現代でもこうした特殊村落出身の成功者ほど、その出身を隠したがると、いわれる元祖は徳川前公爵家かも知れぬ。勿論、家康の血統の尾張の継友を毒殺して、その弟の宗春の子供も一人残らず仕末し、 すっかり根絶やしにして、三代家光からは朝鮮の血を引く徳川に変貌したせいもあるが、臆面もなく堂々と、「徳川家康は松平蔵人元康の改姓名」とするような徳川神話を作った。 これは、皇室の藩塀たる華族会長の徳川の祖先が、特殊村落出身ではまずいということで、誤魔化しの発表である。故山岡荘八がその現代語訳の大河小説「徳川家康」をそっくりそのままで書いているので、 今では松平元康=徳川家康が通説となっている。
さて、明治時代まで近郊の者は世良田郷の人たちに遠慮し「世良田徳川は権現様の由緒ある地」と別扱いしていたのが、徳川公爵が「権現様は松平元康と同一人物で、三河の生まれ」と、 世良田生まれを否定したのが一般にも広まったから大変である。「よくもこれまで何百年も徒食していたな」と、積もりつもっていた積年の恨みが爆発して、 「二千の近在の者が、僅か二十四人しか住んでいない処へ乱暴して仕返しをした」のが、この世良田事件なのでである。
 此の事件で、徳川公爵家は見舞いどころか、全く我関せずと頬被りした儘なのが後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。 そこで世良田徳川の者は鬼石やその他近くのに応援を求めて竹槍隊を組織しこれが全国運動の始まりとなるのである。
 
 【注】 この一事をもってしても、松平元康が徳川家康だとする説は嘘だと いうことが明白である。ここで留意したいことは、特殊から出て世間で立身した者はその前身を隠したがるのか、 同じ出身者を酷く嫌う。現代でも有名な某会社等も、新入社員は興信所で身元調査を徹底的にさせているし、他の同じ出身の社長の処も会社側が極度に嫌っている。 『此処で誤解のないよう断っておくが、差別を容認したり助長するのが目的でこの文を書いているのではない。むしろ全く正反対で、謂われ無き差別は、歴史を正しく理解すれば解消される、 という立場だという事を強調しておくものである』
 徳川家も家光以降は、此の傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえ有名な「三河風土記」は沢田源内の偽作であるし、大久保彦左衛門の「三河物語」は初めのものと大きく変わって、 これも家康神話に迎合して彦左衛門の子孫が加筆した偽作である。 何しろ「人間の一生は重荷を背負って・・・」の遺訓が、明治になって勝海舟らの旧幕臣らによって偽造された。が、これは「そんなことは嘘だ」と尾張徳川家ではバラしている。 海舟にすれば、幕臣なのに、自分はいち早く徳川を見限り、新政府に巧く取り入った罪滅ぼしか、徳川家のための最後のご奉公だったのだろう。 徳川家は小田原合戦後、それまでの三河遠江駿河を取り上げられ、関東に移ったが家康は世良田徳川の出身だから、同族である関東の地侍もみんな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。 尾張の三河は、一向宗一揆の名目にはなっているが、国中が家康を目の敵にしたから、家康は生涯で半月も岡崎城には居らず、いつも浜松城にいた。 だから、「三河譜代」と言うが、家康が召し抱えたのは関東の三河島衆のことで彼らを片っ端から旗本として召し抱えたのが本当のところである。 「野史辞典」に、尾張三河の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎とは全部が三河島の地侍である。だが現地採用の彼らに箔をつけるため尾張三河出身と変えたのか、 講談で誤られたか、広められて武鑑すらも間違えている。三河岡崎が家康の出身地なら、徳川家の直轄にする筈だし、家臣の水野五万石にするはずはない。
     運動
大正十二年の関東大震災前後から、日本全国の特殊の人々が、ただ恰好だけに過ぎない、明治四年に発令された「エタ非人称号廃止令」は返上し、 昔のように自分たちの限定職業を戻して欲しいと各地で集まったのが、この運動である。明治維新後、近代国家建設を目指した薩長政府は、国民に税金を課すことになり、 新しく戸籍を作ることになった。これを明治壬申戸籍という。 江戸時代までは百姓は寺人別帳、町人は町人別帳として、それぞれの人口把握はなされていた。しかし、これらの何れにも属さない限定地に住む日本原住民の数は把握されておらず、 この当時、お上は数十万人と軽視していた。所がそれは家長のみの数で、大正時代にはいると自らエタと誇らしげに叫ぶ原住民でさえ三百万。 まだ身元を隠して都会などに流入している潜在人口を推定すると二千万に近いことが判明した。そこで叛乱を恐れた政府は慌てて「大和同志会」なるものを官費で各地に作って懐柔策に出た。 この時出獄してきた松本治一郎がを作り、小学校での差別や各企業での故なき解雇に対して、むしろ旗をたてて、人間は平等なり、の戦いを開始した。 これが日本労働運動の嚆矢である。こうなると政府としては「大和民族は単一民族なり」とする看板に傷が付くのを怖れ、時の山本権兵衛内閣は己も同系の出身なのにも係わらず、 国家機密費をもって、金で動く右翼を作り、それによって退治を全国的に官憲の応援のもとでやらせた。 「運動史」の血生臭い各頁を見れば出ているが、縄文時代さながらに、竹槍で対抗するの闘志に対し、日本刀や散弾銃、時には軍隊払下げ銃の右翼各団体が、一つぶせば何百円の懸賞で襲撃した。 当時奈良から岡山にかけては、殺されるのを恐れて民が各地区から次々と逃亡が続出した。妙な話だが、博徒系の右翼団体は歴っきとした日本原住民なのである。 それが大正時代になってもまだ「夷をもって夷を制する」と藤原時代そのままで、金でつって戦わせたものらしいが、全く金が義理のこらえ性のない奴隷根性の民族性である。
勿論協力しなければ弾圧されるので泣く泣く右翼の連中は命令に従ったのだと「酒井栄蔵回顧録」には出ていて仕方がなかったらしい。 昭和56年3月。NHKで当時の生き残りのの人々の回顧放送があったが、苗字にみんな石とか井、飯、伊の字が付いていて、当人は知らずだろうが、 壬申戸籍で新しくの者にも苗字を付ける際、多くはその出身地名をつけたがその他は「夷」の当て字変えをしたからである。

新元号「令和」を新天皇陛下と歩む 万葉集の原点は 新羅郷歌

2019-05-14 14:18:47 | 古代から現代史まで
新元号「令和」を新天皇陛下と歩む
万葉集の原点は 新羅郷歌 
(注)郷歌(きょうか)とは、新羅時代の朝鮮語の歌謡の事。
 
 
 新元号「令和」の出典は、日本最古の歌集「万葉集」から採用された。元号は記録に残る限りすべて中国の古典(漢籍)から採っており、 日本の古典を典拠とした今回の元号選定について専門家は「思想的に大きな転換」と指摘する。一方、引用部分について有名な漢籍に似た表現もあり「出典が日本か中国かで分ける意味は小さい」と冷静な受け止めもある。 元号は中国の制度を取り入れたものだが、日本は中国とは別の独自の元号を使ってきた。 だから元号もやっと中国古典から脱却できたと、喜ぶ向きも多い。だが果たして本当だろうか? 以下に万葉集の考察をしてみたい。
結論から先に記す。
一、最初に新羅郷歌が在った。
二、唐国が新羅を占領し、新羅郷歌を奪う。
三、これを漢字に書き直し、日本の古典と誤魔化した。
「万葉集の歌は、古代新羅の郷歌そっくりで、驚くほど似ている。ともに漢字(則天文字)を当てはめられて同型である。違いは日本では、万葉仮名といったもので漢字から翻訳し直され、 (まるで日本古来からの独得の伝承のごとく、それぞれ読み人まで、)さももっともらしくつけている。 だが、本来は新羅の郷歌で、朝鮮半島が唐によって、百済がまっ先に占領され、ついで高句麗が、やがて新羅と次々と征服されたので、新羅文字でなくなってしまい唐字(則天文字)の儘で、 さながら唐のもののごとくに、されてしまっているだけの差異である」と、「韓訳万葉集」を、「新羅語の郷歌が唐文字化され、次に日本万葉文字化されたのを、現代の韓国のハングル大衆に還元作用した」 と第一巻を出し、間もなく第二巻、第三巻も出した。韓国人の金思燁が十余年かけて研究したものだという。
かつて彼が大坂外大で講師をしていた事もあるので、副題の恕句の通りに、そのままでとられ、「日本語を知らないハングル世代に、日本の優れた古典文学を知らせたい、といった謳い文句でつられたためか、 昭和60年の山片幡桃賞をうけた。四千五百首にのぼる万葉集のハングル訳が刊行されるとなると、従来のごとく日本人が作ったものの集大成とされている「万葉集」が、 実は新羅を攻略した唐によって戦利品として没取され、その唐訳万葉集が日本へくる占領派遣官吏によって持ちこまれ、万葉仮名と称する新羅文字で、江吏らによって作り換え作業をなさせ、 適当に日本書紀にでてくる名前をそれぞれつけたのが今の本だという真相は酷すぎるのではないか。
(注)「江史部集は太田単行本の写本」 「江吏部集は太田単本の写本」とし下級役人の愚痴話で、作者名のない個人の日記集である。一部紹介すると、
「去年の八月十五日の夜のこと。(下役人として)尾張へ出向し、今年は江州(近江のことで信長が安土城を築いた弁天涯が、額田大キミこと死後は祟りよけに、天照の大神さまとなされたもうた御方が、野(矢、八)瀬の大原の河原で最後まで、鉄剣部隊に抵抗なされたもうた古戦場近江野洲、エの州と呼ぶ) そこで漢宮(唐とは書けず、今も唐字とはせず漢宇とするにひとしい)藤原王朝の宮殿のある都の月見もできず、梁(西暦502~557までの中国大陸の国名で、日本列島へ宣撫のために仏教の伝来が、この梁国の承聖元帝の西暦552のことと日本歴史年表にはある)つまり旅から旅へ転勤させられて、梁園の月も次々の名令に追われて仰げなかったという下賤の身の辛さ。  「ショウやヒチリキの音声も聞かず」と続くのは、大陸の血を引かない原住民の素状ゆえ、同じ原住民、ハチ部族が多く住む地方へ出向ばかりさせられ、宮殿で雅楽も拝観できるどころか、近付いて洩れ聞くことも許されなかった、という不満を書き綴っている。
さて、六世紀の頃の馬韓、つまり後の百済より進攻なされた神功さまから、日本列島では今でも「クダラでないクダラヌ(否定語)ヤツ」といった言葉が残っているように、 吾々の御先祖は被征服民として扱われ、もし抵抗などしようものなら、今も東北に残る根蓋みたいに生きながら自分らの手で掘らされた大穴へ次々と突き落され、上から泥をかけられ、 (根は死ゆえ神話では死の世界を、根の国という)降参した者らが、根蓋した土の上を命令通り踏みつけかためさせられた。が、生き埋めにされているのは、親とか子とか夫であるからして、 どうしても力強くは踏みつけられないから、爪先で軽く跳るような恰好だけで奇妙にみえる。これを現在は「はねこ」と云っている。
 ゆえに「東北の三大奇祭」とよばれている地方では世変りした建国統一後は進駐トウ勢力に帰順帰化したクダラ人(今の光州人)の坂上当麻呂の子の田村麿が将軍となって、進攻してきて穴へ生き埋めしたのが、 今では土地の各企業が、自社のPRに坂上田村麿の似顔絵の山車を賑わしく並べて観光名物にして有名になっている。
韓国は、近視眼的な見地から、伊藤博文の日韓併合の植民時代から大東亜戦争終戦までの70年たらずの期間だけの双方に不幸だった具象だけをもって、日本人を加虐者の立場においてだけみる。  しかし五世紀六世紀の、まだ開発途上国だった昔の日本列島の原住民たちは、片っ端から虫けらのごとく虐殺されてきた歴史が真実であるらしい。 
 身近な最近の事より遡れば建国前から虐待してくれた朝鮮半島の人達の先祖のひどい圧政を何と見ればよいのか。  建国統一の七世紀以降は百済は、白村江敗戦で祖国喪失してしまった。助命され道案内して日本の御所へ戻ってからは、進駐軍にすべて明け渡して全員が唐に帰順帰化した。 今いう傭兵化された彼ら百済人は八世紀になっても、命令されて吾ら先祖や、在日新羅人や高麗人をも唐に対して彼らの本国がこの当時、まだ徹底抗戦してるゆえ 「蕃族」として討伐された。捕虜となったのは都へ連行され、途中で食を与えるのが惜しいゆえ高値で売れそうもないのは、親子や夫婦でも道の分れにくると情け容赦なく追いたてて棄て殺しに した時の名残りが、今でも「追分」の地名に残るのだが、その頃に唐は分捕品の新羅郷歌を、「万葉集」として日本列島へもちこみ、派遣進駐軍の後裔の公家によって弘めたものである。 現在、通説となっている、天武天皇、天智天皇兄弟説は嘘である。額田王が絶世の美女ゆえ奪い合ったというのも歴史をロマン化するためデッチあげにすぎない。
万葉集の原歌が、いわゆる万葉仮名とされる契丹文字ではなく、前文はそもそも則天文学の漢字の唐詩だった。  東京新聞の昭和60年12月4日の朝刊紙上で(万葉集の研究で山片膰桃賞を受けた金思燁73歳)と写真入りで、京城在住の彼の「韓訳万葉集」が日本の研究賞をうけたと報道された。 当人の堂々たるコメントが掲載され、「万葉の歌は古代新羅の郷歌に驚くほど酷似していて、まったく同一のものとしか考えられぬ。日本の万葉集も新羅の郷歌も共に、 漢字で当てはめられている、が、新羅古代文字の形象が日本の万葉仮名とまったく同じだったのです」とまでいう。  せっかく岩波書店あたりが本背に☆印をつけベストセラーになって、日本では誰もがみな、「吾国古来の文化的遺産」と信じこんでやまなかったものが、新羅の血をひく政権が認め奨励したかも知れないが、日本で授賞し認められたとなると、これでは明治軍部御用歴史屋らの、「日朝同祖論」が皮肉なことに裏書きにされてしまう。
韓国系出版社やKCIA御用作家は、それでもよいかも知れぬが、各地の万葉集勉強会に出席の御婦人連中はどうなってしまうか。
 漢文が日本における万葉集の原点だとは、足利期の手書本の漢詩集からきている、とは承知をしていた。がシラギの郷歌が、そのまた遡っての原点とまでは、とても考え及ばなかった不明をはじる想いだが真実とはいえ呆然とせざるをえない。
さて、唐に戦利品として没取され、唐詩化され、それがトゥ王朝にょって日本へ入り、(さも古来よりの、日本人らの歌集のごとき錯覚を与えられ)いまの21世紀の岩波文庫の和訳をよんで、 これを心の糧にしている日本人も、言っては気の毒だが成人した人口の九割はいよう。
「シコの民」の疑問
 「万葉集」の中の大伴家持の、「今日よりは顯えりみなくて大君の醜(シコ)の御楯と出で立つあれは」というのを、シコの民とは何かと引っ掛かった。 昭和の軍国主義の頃、天皇のために出征する軍人は「シコの御盾」として多くが死んでいった事実が在った。 「シコとは飼戸の文字が当てられて、日本海を沿海州や北満北鮮から能登半島や佐渡へ、寒流で流されてきて、突き当り左右に分かれ出雲方面に流された者、一方秋田方面へ入った、先住の遊牧民族の子孫で、六世紀のナラ時代には課役として牧夫をさせられ、馬飼いゆえ飼戸と侮称されていた」  と、どうにか解明できるまでには、どの本にも書いてないので独学で40年も解明にかかった。  飼戸の子らは飼子とよばれ、人買いに売り飛ばされて、シシ舞いと辻で乞食芸をしいられ、娘は山中温泉や片山津へやられたゆえ、白首女つまり飯盛女郎のことを「シシ」とよび、 遊興しすぎたことを「シシ食った報い」といい、頼山陽の伜三樹三郎が「志士」と当て字変えしたということも判ってきた。 そして幕末になると「人斬り」の田中新兵衛や岡田以蔵は、志士の美名に煽動され殺し屋として京へ送りこまれ、捕われると「賤」の者とし獄門首にさらされ維新の下敷に死なされていった。
 
さてである。「万葉集が日本のものでなく、新羅の郷歌だった」と明白に京城在住の新羅系の人に暴露されてしまい、あわてて韓国大使館内の芸術院の方に教示を願った処、 「『反歌』とされている(答歌)の形式は、日本建国前からの新羅独得のものであって間違いない」との返事で、改めて岩波版の万葉集四千五百十六首を全部チエックしてみた。 すると驚いた事に、大伴家持の作が、長歌46、短歌432それに旋頭歌や漢詩まで入れると、計480首もある。
 それに大伴家持へと限られたものとみられる贈詩だけでも、他に123首ある。合計すれば六百余。全体の14%をしめている。なおどの別の歌も「大伴家持集」としても別に可笑しくない。
この「大伴氏」というのは、七世紀までは、佐伯、来目、靱部らの中央豪族と戦っていた物部氏と同じ騎馬民族系で、大ムラジとし天智クダラ王朝まで仕えたものの、勢力は天皇家に匹敵する程だった。 だが、天智が父で額田王が実母の大友皇子が弘文帝として即位なされた時、もはや不用なりと進駐勢力が天武さまに換わる壬申の乱のときには、大伴氏は物部氏と共に出兵し奮戦した。  家持の父の大伴旅人が九州の大宰帥で死んだ後だが、家持は大伴眸子の子の望多や弟の吹負と共に、大和を確保し難波まで進攻、天武さまの御為に一族の多くを討死させ忠義を尽した。  よって天武即位後は軍事大臣として世変りしても仕えられるようになった。が新体制が、騎馬系を蕃族とみて弾圧の時代になると、「続日本記」にもあるように、 応天門の変のでっちあげで大伴家持の曾孫の伴善男が罰せられ配流処分となって、これで大伴嫡流は廃絶し消えてしまう。 ……と「日本書紀」ではなっているが、真実は家持は弘文帝派らしい。九世紀の西暦876年に歿した大友ノ黒主が、六歌仙の一人として「古今集」にも集録されているゆえに、 さも彼の祖先が大伴家持でもあったかのように、その妻坂上大嬢の母となす大伴坂上郎女の84首までも加えている。これは大友ノ黒主が生きていた貞観元年の西暦859年より、38年前に、藤原冬嗣が、  「勧学院」とよぶ文書所というか内閣修史局みたいな建物を作っている。しかし、建物が建っても教授連が、年一回の夏に吹く季節風に乗らなければ日本には来れない。 それまでは仕事にならないのでまっ先に作成したのは日本書紀の編纂だったから、「新羅万葉集」も、まさか新羅郷歌の内容の儘では漢詩集としても恰好がつかぬから、壬申の乱で滅ぼした者らが祟らぬようにとの挽歌とし、壬申の乱後に岡山の奴可へ移し、阿波の岩窟へ逃げたもうたのを、書紀では「天の岩戸」となしてしまった額田のおおきみを、 神話では天照さまにした埋め合せに、歌人にしてしまい、しかも意味深重に、その112番には「いにしへに恋ふらむ鳥は、ほととぎす、けだしや鳴きし吾が思へるごと」、 つまり「鳥」とか「雲」というのは額田系の太平洋沿岸に漂着した民族をさす枕言葉みたいなものゆえ、その歌の意味は、 「その昔の八の民族だけが押さえていた頃のことを懐しく忍べば……鳴いて血をはくホトトギスが、さえずるごとく、私としては想いもする」と皮肉ったり、 さらには「天離る夷の荒野」とまで、ずばり天の王朝を、夷として歌っている。
唐が持ち去った証拠
 岩波文庫版万葉集は、北条時代の文永十年八月八日に書写終了したものだ、と、初めに書いておきながら、権律師仙覚が、その七年前の「文永三年八月十八日」と明記の奥付を堂々とつけて、 余白にその矛盾についての説明もされていない。そして南北朝和議の西暦一二五二年の文和二年に、また権ノ僧都成俊の記入名を入れ、編者は、江戸時代の徳川家光の寛永20年に京三条寺町の安田十兵衛新刊と、下巻の終りには、続けて附記して、さも代々にわたって伝承のごとくする。
 しかし江戸時代の版木本でも、それ以前の筆写本にしても、まったく正確を期さない御国柄ゆえ「将門記」の例をみても、奥付は承徳三年つまり酉暦千九九となっている。 だが、この将門記実は17世紀末の徳川綱吉が、自分が新皇だと自称のため著述だと、荻生徂徠門下の子孫が、大給に同書の下書き原稿を保存しているのが判って、七世紀のゴマ化しが歴然とした。
都の呼称「京帥」の間違い
 埋蔵品が日本で発掘されるとみな日本製とし、日本に在住すれば、王貞二のように、日本国民栄誉賞の第一回授与も、申国籍でも日本にいる者は該当だとしてしまい、 世界は一つ人類はみな兄弟の素晴しい国が日本である。  新羅の郷歌でも、唐の勢力が勝利品とし奪えば「唐葉集」にされてしまい、倭国へ持ちこめば、古来より天孫民族支配の日本書紀に内容を合わせるため建国時に処分した、 海洋渡来民族や、騎馬民族の鎮魂歇集にしてしまう。
 「頭隠してシリカクサズ」というが、当初の倭文章化に唐詩にしたのを訳する際に、夏の潮流で渡ってきたばかりで、唐本国では出世の見込みが望めぬ連中ゆえ、色々と判らぬのも当然だが、 もっと不可解な誤りを処々している。ミスツているのである。例えば第167句目の長歌に、
 「天の河原に八百万、千万神」と始めにでてくるのを、ヤオヨロズ、チヨロズとしてしまうが、ヤは額田王ら太平洋岸海洋民族で発声が八母音ゆえ可だが、 千はチヨではなく干昌夫のSenなのを間違っている。 このSenでなくては、のち四つ足の獣を扱うからと、「四ツ」とされる白山や住吉系ゆえ可笑しい。神亀五年戊辰(西暦七二八年)大伴家持の父の旅人が作ったという「京師なる荒れたる家に」の、 第四百四十句のごときは、平安京の名前が、京師となったのは万葉集編纂の六十八年後の西暦七百九十四年の話である。  それを「平城」つまり奈良が、大和朝廷の首都だった時代にするのゆえ飛んだ間違いである。
勧学院の建物ができ、筆生が仕事をしていた頃の都は「京師」であったことに違いはない。 が第四二六十句の「大君は神にしませば、赤駒の腹ばう田居を京師となしつつ」も、これまた事実相違である。
壬申の乱によって、クダラ系天智さまの歿後に第一皇継者の大友皇子が即位されるや追い落し、換った天武さまの御所の時は、まだ京師でなく奈良が首都だったのである。  四十六の防門で囲れた新京が山城に設営されたのは、天武即位より一世紀余、つまり百二十一年後のことなのである。
さらに、その俄作りのための誤りより気になるのは上の歌の「赤駒」の二文字である。 この意味は赤とは後の平氏になる海洋渡来民族。駒は馬を伴って日本海より入ってきたの遊牧民(騎馬民族)の事。つまり被征服民共が潜伏していたという事を指す。 だからこの歌の意味は、唐系の天皇を、神のごとき慈悲深いと宣伝して、海洋渡来系、騎馬民族系の原住民共が抵抗していたが許して、ここを都となしたのである、 という唐系政権の正統性を歌ったものである。
こうした、唐から流れてきた、下っ端役人の筆生は、至る所で間違いを犯している。大体、当時は未開発地域だった日本列島へ、向こうで一流の人間など来る筈がない。 食いつめ者か一旗組と決まっている。世界文化史的に見ても、高い文化の国に影響を受けるのは当然で、その下風に立って卑下することなどなく、恥ずべきことではない。 受け入れた文化は、風土寒暖や民度によって咀嚼され、その国独自の文化を開花させるのである。 それが複合民族である、日本民族の優秀さの所以なのであり、誇るべき特質でもある。 だから、異論はあっても新元号令和を素直に受け入れ、日本民族は一致団結して新しい天皇陛下と共に、新しい時代に進まなければならないのである。
後記
例えば大伴家持作とされる第四七八の、  「かけまくも、あやにかしこし、わがおおきみ、みこのみこと。もののふの八十(やそ)伴の男を召し集へ」の他にも「八十」を「やそ」と読ませる歌は他にもあり、  第四千百の大伴家持作も、「もののふの八十氏人も、吉野川絶ゆることなく仕えつつ見む」同じく第四一四三にもある。  「もののふの八十を、とめちがくみ、まがう寺井の上の、かたかごの花」とも間違えられている。
 つまり、こうした誤りでも今の万葉集が適当に読みびと当てはめている、偽物とは裏付けられる。
つまり飛鳥時代か神話時代か判然とはしないが、アナヒーターの水の女神を奉じたり、アルファダの火神を奉じた民が、海流に乗って渡ってきて権力を持った時。 それより古くから既住していたエの民は統合され支配下に入っただろうし、騎馬系が裏日本から入ってきた時もそのまま弾圧はされなかった。
しかし、奈良王朝に続き藤原王朝になると、彼ら「ヤ」のつく海洋渡来民族も一緒くたにされ蛮族とされ、反体制の民とされてしまい、エビス、エベツ、エゾと総称されてしまった。 とはいえ、日本列島に進駐してきた藤原氏を一とすれば、このエゾは数万倍の割合で先住していた同じような黄色人種なのです。  「初春の、はつねの今日の玉ぼうき」と<万葉集>に大伴家持の歌があります。「初音」と当て字をしますが、【子(ね)日宴・ねの日遊び】と呼んで、 野辺で小松の根を引き抜く酒宴が御所には在りました。これは大国主命が根の国へ追われたという神話からで、反抗してまつろわぬ根の者を、根本より根絶やしにすべし、という挽歌です。  
また、万葉集にも遊女は出ていて、「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖乎忍而有香聞」   オホナラバ カモカモ センヲ カシコミテ フリタキソデヲ シノビテアルカモと天平二年(730)に太宰帥大伴卿が九州へ戻って行くのを遊女が名残を惜しんだ歌がある。 これを俗っぽく判りやすく訳すと、 「 私は左の毛右の毛をこすりあわせてカモカモしたいのを、おおみことのりを恐れかしこみ、私は袖を振るのさえ忍んで見送る。アモーレアモーレ、アモーレミヨと(おお、私の可愛い人よ)」 という、そのものずばり遊女の相聞歌になり、これが後年の「チンチンカモカモ」の語源であるとされている。

鎌倉時代の刀鍛冶 注連縄の意味 シメシメシメコノ〆うさぎの意味

2019-05-14 10:10:52 | 古代から現代史まで
鎌倉時代の刀鍛冶
注連縄の意味
シメシメシメコノ〆うさぎの意味
 
 
 
 「あかねさす紫野ゆきシメ野ゆき、野守は見ずや君が袖ふる」は万葉集の一句だが、 文中の、シメ野という意味は、一般人立ち入り禁止の禁野の意味なのである。シメは現代で言う、被区別用語で、 シメシメも日本原住民を差別して完全包囲したという意味である。
現在も使われている「しめこの兎」とか、「しめたッ、やっと罠にかかったぞッ」などと使われている。 「しめしめ」も巧くいったという意味で、我ら日本原住民の末裔にとっては、誠にしめツポイ話である。 昔、作物の刈り入れをして収穫するのを「収実」と当て字しますが、「三省堂明解古語辞典」でも、  「しめ=助動特活命令=助動詞しもの命令形か。敬意を含んだ命令の意味。勧誘、催促、督促」とでています。
 
しめはシメルとなると縛られることです。 稲束をくくる事のようにとられていますが、元来は違って、ヒエやアワなら育って食料になる東北地区へも、藤原王朝は種モミを渡して原住民を強制農耕の奴隷使役でした。 つまり東北が大凶作によく見舞われるのも、ヒエやアワなら冷害にも強いのに、自分たちの食料増産のため、水稲を、強制的におかみから植えさせられている為からの寒冷の悲惨さなのであります。  つまり原住民が、降参して編戸の民となって農耕奴隷とされた縄文日本原住民の事なのである。彼らが、支給された種もみを何十倍の稲にして上納せねば、 お上からのお答めがひどく、罰として田畑へ吊したり刺殺されるゆえ、泣く泣く己が食い扶持はなくても、すっかりはたいて年貢に出していたのが真実です。 つまり「締め」と当て字をしますのも、年貢が少ないと締めあげられたせいでしょう。
 
 
なんせ「しめ縄」というのも今では神棚に張るから神聖な物と間違っているが、かつてはそうではなく「締めつける為の繩」と、お咎めをうけることをさして言ったのです。 北条時代には、元より来寇が繰り返され、日本防衛の武器製造のため、各地に軍需工場とも云うべき鍛冶屋が増設され、技術者である鍛工が原住民から強制徴用された。 そして鎌倉へ連行されて、一大軍需工場のタウンが作られた。現代鎌倉時代が刀の黄金時代と謂われるのもこのためなのである。 その際の刀工達の仕事場に「注連縄(しめなわ)」が張られたのも「標縄」で、原住民が集団居住させられていた、徐地として、他からの出入りを禁止し、刀工たちの逃亡を防ぐ意味だった。 現在火事場で野次馬防止に張られている縄(現在は黄色いテープだが)と同じことである。
 
 日本各地の刀鍛冶の工房で、正月になると「初打ち」として新刀制作がされていて、その際「神聖な行事」として注連縄が張られているが、 あれは権威づけるためのコケ脅しに過ぎない。日本刀なんか砂鉄と鋼を焼き入れして、叩いた刃物に過ぎないし、戦国期は、雑兵が飛び来る矢を打ち払ったり(打ち刀ともいう)、 首切り包丁として使われた道具に過ぎない。「武士の魂」だとか「世界に誇る美術品」と持ち上げる風潮はおへそで茶を沸かしたいようなものである。
ちなみに、虎徹、関の孫六や政宗など、多くの刀鍛冶が居たが、彼らは全て「アカサタナとオコソトノ横列」の名がつく原住民系で、ただ一つウクスツヌ横列の「村正」だけが、 大陸系の鍛冶で、この為これを嫌った原住系の武士たちは「妖刀」だとか「御止め刀」として人気がなかったのである。

 


日本刀の考察 武士の表道具は槍が正しい チャンバラ映画の嘘

2019-05-14 09:43:06 | 古代から現代史まで

日本刀の考察 武士の表道具は槍が正しい チャンバラ映画の嘘

 

今日では誤られていて、戦国時代にも剣客や剣豪がいたというように伝わっている。
そして映画、テレビ、小説に剣豪が出てきて大活躍の物語が氾濫している。
だが、幕末天保時代から始まったヤクザ者のでいり(縄張り抗争)の時でさえ、「槍一刀十」という言葉があったぐらいで、槍は刀の十人前の働きをすると見られていたのである。つまり「清水次郎長一家」が強かったのも、槍が使える大政や関東綱五郎といった連中が揃っていたからなのである。
 
だから一般の者も、(刀では斬りつけたらば、自分も斬られる惧れがある)と、本物の槍を使いこなせない連中は、青竹を切り出して斜めに削ぎ、それを油焼きにして丈夫にし、やくざたちは喧嘩の時には竹槍にしてくりだしたものである。
 幕末京で恐れられた新撰組にしても、偶数日は槍の稽古、奇数日は刀の稽古と決まっていたが、実際には槍の稽古ばかりしていたとの記録も残っている。
 勿論、刀で戦った者もいたが、曲がって鞘に収まらず、肩に担いで屯所に戻ったと謂われている。実戦的効果としては槍の方が大きかったというこれは証拠になる。つまり戦国時代から幕末まで、槍は武士の、「表道具」とよばれ攻撃用具とされていたのが本当のところ。
 「刀は武士の魂」などという言葉は、戦国時代は勿論、江戸時代にもなかった。これは現代、嘘八百の武士道が流行った頃の造語で、与太話にすぎない。
 江戸時代になると、刀は殿様からの預かり物となり、「武家諸法度」により、勝手に抜けない決まりになっていた。
だから「鯉口三寸抜いたら身は切腹、御家は断絶」という言葉も残っている。テレビや映画で武士が斬りあいをしているのは、全て嘘である。

小説では「武士の刀は、わが命より大切な人を守るもの」とばかり、主人公が、妻や恋人、家族のため、万止む無く刀を抜いてきりあうという設定が多いが、あれも全てはあり得ない事で、喰わせて貰っている殿様のためにのみ、その命令で抜くのが正しい。

 

 赤穂浪士が吉良上野介を殺した事件でも、殺人罪で裁かれたのではなく、抜刀罪で、実際は抜刀して吉良屋敷に入ったのは数名だったが、全員がこの法律で斬首されているのでも判ろうものである。
 
しからば、槍が攻撃用具なら刀は何なのかという事になる。
これは当時の言葉では「打ち刀」とよばれ、突いて来る槍や、払ってくる長柄、薙刀の類を防ぐため斥け打ち据えるために用いた防御用具であった。
だから槍のことを「道具」 弓のことは「調度」と、呼ばれていた戦国時代にあっては、刀のことだけは別になんとも呼んでいないのもこの為である。
しかし、室町御所の足利将軍とか豪い人は身分柄、自分から槍をふるって戦闘をするということはなかったが、万が一、敵に襲われて槍を突きつけられるという危険性はあった。そこで、今で言う護身術として「刀術」を習ったのである。
つまり、その抜刀や打ち払いの型を作って、彼方此方の豪い様たちに指南して廻ったのが、当時の塚原卜伝などである。
だが、後世になると、室町御所へ三好や松永弾正らの徒が乱入してきた時、刀をふるって勇戦奮闘をした足利将軍義輝や、伊勢国司の北畠具教といった貴人大名でさえ、塚原卜伝に教えを受けていたというから、戦国時代というのは刀道が盛んであったと思われる。
 
今日では、あらゆる武者は刀法を学んでいたのであろうなどと勘違いされて、信長の前で「御前試合」をさせたり、「寛永御前試合」が徳川将軍の御前で行われたとする歴史書もある。だから刀豪だとか剣豪を作ったりしてしまう。
しかし、防御専門の刀法、つまり剣術というのは、大名道具の護身用にすぎないのだから、こんなのを一般の武者が習ってみんな受身に廻って、突きかかって来る槍を打ち払うことだけに専念していたら、とても攻撃用にはならないから、これでは戦にならない。
 「槍一筋の家柄」というのはあるが「刀一本とか二本の家柄」などといわないのは、この訳なのである。
 
ではどうして、これが今日間違えられてしまったのかというと、これは江戸期の芝居からである。
なにしろ、江戸時代から明治までの芝居小屋というのは舞台の間口が三間しかなかった。
つまり五メートルあまりしかなかったのである。そこへ三間もある槍を持ち出していったら、槍を持って出てくる役者はいいが、相手は皆はみ出してしまう。
これでは舞台の袖へ入ってしまうか、客席に転げ落ちてしまう。
そこで六尺槍の短槍にしてみても、これでも二人で絡み合いをさせると四メートルで、とても捌きがつけられない。
しかし、刀なら、鍔元から二尺七八寸、つまり八十センチぐらいの長さだから、「山型」だとか「雪、月、花」といったように、斬り合いの振り付けも出来るし、
 槍と違って天井へつかえることもなく、楽に刀を肩に当てて役者は舞台の中央で見得も切れる。
 
次に、剣豪などといった具合に誤られてしまったもとは、これは講談である。
 「太閤記」などでやる「長短槍試合」の一席で、足軽に槍を持たせ、叩きあいをさせるところを面白おかしくやったから、
 「槍は足軽。刀は士分」といったあべこべの判断をされてしまったものらしい。それに明治維新というのが、
 「槍一筋の家柄」を誇る士分よりも、槍などもてなかった、刀だけの軽輩共が天下を取ってしまったから「刀こそ武士の魂」であるなどと言い出した。
そこで端唄などで、「槍は錆びても名は錆びぬ」というが、今では槍も刀も錆びてしまって「剣豪」「剣客」のいい加減な作り物の名は出てくるが、「槍豪」とか「槍客」の名は出てこない。
 
 
 
余談になるが、私も日本刀は六振り程持っている。無名の大刀だが、おそらく江戸中期のものと思われる。
そして、刀剣愛好家ではないので、鞘に収めて自慢げに、床の間や居間に飾って置くような無粋な事はしていない。
 何故なら、湿気の多い日本のような国では、全てが鋼で出来ている外国の剣とは違い、手入れを怠ればよく錆びるからである。
だから、桐箱の中に油紙を敷き、米糠に菜種油を混ぜて、抜き身だけを差し込んで仕舞ってある。この手法は我が家が代々行ってきたと聞く。
そして、捕物などで刀が必要になると、「寝た刃を起こす」といって、切先三寸だけでなく全体を砥いで鞘に収めたと聞いている。
 
こんなに沢山持っているには訳がある。
これらは私の曾祖父から受け継いだものだが、江戸時代までの我が家は、武士ではないが「案内」と呼ばれた代官の手先をしていた村役人だったため、
 苗字帯刀を許されていた。だから当時は手下のものも含めると十数本在ったと聞いている。
いまや、ブログやホームページでは、刀剣愛好家のサイトは多いが、日本刀は戦の道具としては脆弱なシロモノである。
 刀身は良く曲がるし、刃こぼれはする、硬いものを斬れば折れてしまう全く厄介な武器である。
だから今や「匂いがいい」とか「波紋が見事」といった美術品としての価値しかないのである。
ちなみに刀の一般的な研磨代だが、錆が全くなく整形の必要もないものは、地方によって若干の差はあるものの、寸五千円程である。
 鞘擦れや手入れヒケが目立つ古研ぎ刀となると、高額になる。
             「身から出た錆」という言葉の意味
 
                   日本刀は観賞用
 
   人間はともすると誰しも災難や過ちを他人のせいにしたがるものであり、そして「仕方が無かったんだ」と気休めをしたがる。
 
 しかしそれでは行く末又間違いもおこしやすい。
 だから自分の身の不注意で間違いを出来させたのだと、よく反省をしなければ何時までたっても又同じことの繰返しになるだけである。
 
 といった内容だが、よく考えれば至極当たり前のことではある。
 これは江戸時代柴田鳩翁の「道話」とよばれた自己修養書に書かれているものである。
 
  この「鳩翁道話」は明治大正時代には活字本としてかなり普及していた。昭和に入ってからも修身道徳の副読本として旧文部省の指導教科書並みのものだったらしい。
 
 だが一般には「身」を「刀身」としてしまい、侍の身分なのに、「武士の魂」である帯刀の手入れを怠ってが為に、いざ抜刀したときに肝心な刀身に錆が出ていて斬りあった途端に、その箇所から折れ飛んでしまい、思わぬ不覚をとって斬られてしまう。と解釈される。
 
  これはどうも高座での講釈師が見台に向かって、張り扇をポンポン叩き公演した際の明治以降の見解らしい。
 
 という訳は、江戸時代のように武士が皆帯刀していた時代ならば、こんな不条理なことは辻講釈師がしゃべれる訳が無い。
 
 「寝た刃を起こす」という言葉がある。
 これも今では「寝た子を起こすような真似をするな」と間違えて伝承されている。
 だが江戸時代には「御砥ぎ師」の看板を出して、町や村に溶け込んで暮らしていた居付きサンカの者、スルドとよばれた刃物の砥ぎ屋が何処にも居て、武士の必要上サンカだと判っていても、大目に見られて、表通りに看板を出して店構えするのさえ黙認されていた。
 昭和になってさえ、包丁や裁ち鋏は何処の家庭にもあったからこの砥ぎ屋は各町内を回って重宝したものである。
また鋳掛屋という鍋釜の修理業者も地方都市では、昭和35年頃まで見られた。というのは刀そのものが問題なのである。
 
  日本は昔から鉄鉱石の産出されない国であるが、このことに大きな関係がある。
 
  教科書の歴史では「刀伊の乱」とされる時に、九州に侵攻してきた南蛮賊を追討するため、時の大陸系の政権が、日本原住民を強制的に駆り集め、彼らに持たせるために急遽作った武器が、日本刀の始まりなのである。
 
 そして彼らが生きて帰ってきて、時の体制に刃向かいクーデターでも 起こされたら大変だから、細くて、切れ味の悪い片刃だけの打ち刀で 叛乱予防に製作されたものだから、本身は鋳物で、それに玉鋼という、
 
 日本では何処でも採集される砂鉄を溶かして焼き付けて作る鍛造の技術で鍛冶屋に作らせたのである。
 
   ということは、普段から何時でも抜いて斬れる様にしていては、刀の肝心な付け焼刃が「刃こぼれ」ということになってしまう。
 
 だから抜刀して斬りあいをしなければならないときに限って、前もって砥ぎ師に出して切れるようにするのである。これを「寝た刃を起こす」というのは前記した。
  日本刀はテレビのチャンバラのようにジュラルミン製と違い、直ぐ折れたり曲がったりして決して丈夫な武器ではない。
 だから武家諸法度で抜刀は禁止されていた事もあり、抜刀せずに鞘の儘で渡り合う方が安全で確実だから、鞘にはコジリや脇巻が何箇所も鉄枠が嵌められてあって、相手にダメージを与えられるよう頑丈に作られていたのである。
 
 つまり刀身は鋳物で砂鉄や粗鉄で作られているため、砥ぎ師に出して錆が出ぬようによく砥いでもらい油塗りもしてもらわなければ、鞘の中で赤錆になってしまう。
 私の母方の曽祖父が明治期不動銀行頭取をしていて、甲府の道案内(代官の手先で江戸時代は大層羽振りが良かった)だったので、御一新になると土地の者たちに積年の恨みだとばかり、 包囲されて襲われた。
  しかし日頃から帯刀を許されていたので何とか斬り抜けて脱出することが出来たと、曽祖父は自慢げに幼い私に話していた。
 曽祖父は己の寝間には柿渋塗りの刀箪笥を当時の恐怖からか、何時も置いていた。
 
  三段重ねの引き出しには、米糠に油を吸わせたべたべたした中に六振りずつの抜き身の日本刀が並べられ、柄に嵌める目釘止め中子まで、剥き出しの儘並べられて入れてあった。
 「一振りや二振りでは直ぐに折れ飛んで、使い物にならんでな」と言っていた。
 
こうした日本刀の脆弱性を著したものに、大道寺友山の「武道初心集」があり、それによれば「日本刀を戦場に持って出かける時には、直ぐに折れ曲がったりして役に立たなくなるので、どうしても持っていきたいならば、馬の口取りや小者、若党らの従者に、差し替えを出来るだけ数多く差させて予備として臨まなければ、不覚を取ること必定なり」とまで、江戸時代の兵学者は書き残している。
 日本刀は美術品としては美麗だが、実用には全く適していない。
 何百万と謂う高価な物が売られているが、こんなものは刀剣商を儲けさせる為で、夢々手を出してはいけない。
幕末、新選組でさえ、刀での浪士たちの惨殺だと思って、映画やテレビで放映している。しかしこれも間違いで、隊士の武術稽古は、偶数日は刀、奇数日は槍となっていたが、
実際は槍の稽古ばかりしていたという記録も残っている。土方歳三や近藤勇が大刀を持っている写真が残っているが、官軍が鉄砲や大砲で攻めてくるのに日本刀で戦うなど
荒唐無稽な話で、五稜郭では土方も鉄砲を撃っていたし、白兵戦では槍を使っていたのである。
大東亜戦争の際、南京大虐殺で中国兵を「百人斬り」したという与太話が残っているが、日本刀で人間を切った場合一人切れば、脂肪が巻いて切れなくなるし、すぐ曲がる。
一本の刀で斬れるのはせいぜい三人が限度で、百人などおへそで茶を沸かすような話である。だからチャンバラ映画は全て嘘。