新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

韓国様、大中国様、日本人を虐めたのはどなたですか? 中国は尖閣に上陸する

2019-05-16 12:14:41 | 古代から現代史まで

韓国様、大中国様、日本人を虐めたのはどなたですか?

 今度こそ中国の侵略を許してはならない

中国は尖閣に上陸する
日本に歴史学博士の居ない訳
 
自虐史観からの脱却
 
武士道とは
 
武士はプロ。殺し合いはめったにしなかった
 
武士道の起源は新選組
 
武士道の考察

 

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 歌舞伎から来て、映画やテレビの「忠臣蔵」が、討入りの時に揃いの名入り羽織を舞台で着せるのは、覬客たちへ各自の名前が一目で判るようにと気くばりの設定だけの話で、 実際の浪士たちは揃いの着物などは着ていなかったのが実態。 日本で最初のユニホーム集団といえば、京都中の仏壇屋や坊主の衣を売る仏衣屋を脅かしていた新選組なのである。 これは隊員全部の打かけ羽織を大丸呉服屋で作らせていた。だが新選組はもっと大事なこともした。
今日いう処の「日本の武士道」なるものは、上方歳三と近藤勇の創作なのである。  「局中法度」として彼ら二人が考案して掲出したのは、隊員になると、士分の恰好ができると、やくざの祐天仙之助一家や、百姓や町人の入隊者ばかりが増えて武士の教育するために、 松坂屋の丁稚上りで薬行商だった土方と、多摩の野荒し除けの棒ふりを教えて銭をとっていた近藤家の養子の近藤勇が、苦労して合作したものである。
 
 
 それが、いつの問にか歴史の本に、武士道として堂々と盗作されてしままうのは全く困ったものである。  戦国時代の有名な武者、可児才蔵などは、敵味方に一目で判別できるように、大きな紙旗を背中に立て、売名をして戦場を駆け回っていた。 携帯マイクのない時代ゆえ、あらん限りの大声で己が名を喚きあげて、己が宣伝に懸命になり、武士は犬死せぬものと、プロレスみたいに見かけだけは勇ましく戦うように見せかけあって、 ひとつしかない命は大切にしていたのが実相なのである。
今も女子プロレスが乱闘騒ぎが終ると化粧を落し、ダンプ松本も他の娘と同様に、バスで巡業に出かけるみたいに、戦国武者は鉄砲の実用化までは、流れ玉に当って死ぬということもなかった。 だから敵が弱いと、命は助けて欲しい「頼まれてくれ」が短縮されて「たのまあ」となって、掌に墨を塗って借用証に捺させたのが、後の約束手形の始まりなのである。 この「タンマ」が訛って、昭和の時代まで子供たちの遊びでは「タイム、タイム」と使われていたほどである。 だが誰でも矢立や紙などは持っていない。そこで双方は口約束をしたのである。
 
「武士の一言に聞違いはない」「武士の一言は金鉄の重味がある」といった基本的な日本の武士道は、戦場で首の落し前に話をつける大切な口約束ゆえ、 「武士の言葉に二言はない」となったので、相互の人命を保証し金で話をつけるのが本当の武士道だったのである。後に小笠原流と変る水島流礼法指南の当主が、 大坂夏の陣で捕えられて銀子二十貫の引換えで、池田家陣所を始めぐるぐる繩つきで連行された事が〈水島家伝書〉には残されている。 アマと違ってプロは収入が第一で、やたらに殺しあったりはしないもので「毛利吉田城籠城日記」にもあるごとく、みな端隠れか葉隠れに身をかくして進まず、 投石で二三人が傷でもうければ、人命に係ると総引揚げしたという記載が何個所もある。人口の少ないあの時代である。 講談や映画や小説の様に、バッタバッタと殺しあってたら、あっという間に人がいなくなってしまうだろう。
   歴史学博士の考察
さて、ドイツより招聘した教師、アドルフリースが長州おかかえの教師から、伊藤博文に重用され、開明学校いまの東京帝大まで作った際、「博士号設定」に際しては、ヨーロッパでは国境が接しあっているので愛国心というか郷土愛を徼底的にうえつけるために、 何処の国でも歴史学博士がトップで、各大学の総長も殆どが歴史学博士が就任している。
 処がリースは、「日本には歴史なし、彼らは文字を解する程度ゆえ、文学博士で良い」とした。 何しろ江戸時代には、日本全体の「日本人民の歴史」なるものはなかった。あったのは各藩の「藩史」で「お国の歴史」とは、薩摩は薩摩、長州は長州のことを云い、 いわば地方の歴史しかなかった。  調べてみれば判るが、日本には膨大な数の大学は在り歴史学を教えている所もこれまた多いが、歴史学博士は皆無なのはリースのせいなのである。 発展途上国などは、愛国心を植え付けるため、自国の歴史はいの一番に教えているが、日本の現状は途上国以下といえる。
 
 
だから、にべもなく拒まれた明治史学のオッチャン達が、必死猛死に「史学雑誌」を刊行して実績をあげようとしたが、あまり日本歴史は調べてほしくない薩長新政府は、その儘で握りつぶしにした。 何故かといえば、薩摩は高麗の南朝系だし、長州は中国系の北朝である。 薩長は岩倉具視らの下級公家と共謀して、北朝の孝明天皇親子を暗殺し、南朝の大室天皇を立てて開国を断行したという経緯があり、なんとしてもこれを隠したかったのである。
(この詳細は鹿島史学の「裏切られた三人の天皇」に、「孝明天皇が公武合体による攘夷を主張したため、大室天皇をたてて開国を断行した。このことは世界史的に見れば、 開国を迫る諸外国にいったんは降服したといえるであろう。
 
しかし、欽定の伊藤憲法を公布して天皇が「万世一系」であることに批判を禁止した元老たちの隠された目的は、自分たちが孝明天皇父子を殺して、 新帝を取り換えた事実を歴史的に抹殺することにあった。彼らは「神聖不可侵、万世一系」という美名のもとに、歴史的真実の追究を妨害し、後世の告発を逃れんとしたのであって、 決して明治天皇もしくは天皇家の利益を考えたわけではなかった。このことは結果として南朝革命に成功した明治天皇の功績を隠すものであり、また天皇の意思にも反することであったが、 ことに天皇殺しの実行行為に当った岩倉、桂、伊藤たちは天皇のためでなく、自分たちのために真実の抹殺を計った」と書かれている)
  韓国様、大中国様、日本人を虐めたのはどなたですか?         その明治史学のオッチャン達を、今だに大親方と崇める今の歴史屋は、その曽孫弟子に当っている。  大工や左官の世界でも、親方に対し弟子は決して注文や文句はつけられぬ不文律がある。大親方ともなれば今の歴史屋のプロたちにとっては、神さま扱いである。 まったく絶対的な存在なのである。  伊藤博文が日韓合併した時に、正当づける為に明治史学の星野恒や渡辺世祐らに対して、  「日朝同祖論」をそれぞれ書かせて公表をさせた。それが今となると裏目になってしまい、  「祖先が同種なら、此方が日本を合併しても差支えない話ではないか」といった趣旨の雑誌も出されているが、現在の歴史屋の大親方である明治史学のお歴々の論説が、それに援用されていては、 韓国に、なんの反論とてもできぬ。情けない話だが、御説ごもっともというのか、だれ一人として、「あれは明治軍部山県有朋の直接命令で、御用歴史家が集められて、ただ書いたにすぎない」  と勇気あるというか正論を述べたのは誰一人もいない。今の歴史屋は情けない極みである。                                                 
 
 
だから今や堂々と「在日韓国人在郷軍人会東京本部」の看板まで出す処の出版物がKCIAの圧力なのか、一流書店の目だつ個所には並んでいる。 泣く子と地頭には勝てぬのがこの国の現実なのである。  なのに日本の新聞や雑誌は、植民地時代の朝鮮総督府の施政方針の弾圧や迫害だけを大きく報導する。  中国についても、南京大虐殺とか、満州第七三一部隊のマルタ殺害だけを書き、余りに自虐的である。しかし、紺屋の白袴というが、アドルフリースでさえ認めようとしなかった歴史知らずの、 吾国の歴史屋さんは誰も書かぬが、馬韓つまり後のクダラ国から、日本は攻め込んでこられたのに、日本史では逆に、日本から向こうに攻めていったと歪曲されている。 その日本名は神功皇后。この方に率いられた銅剣部族が支配者になると、西暦663年までは、
「クダラぬことを云うな」「クダラない奴だ」と現代でも使っているように、百済人以外の征服された日本原住民は、扱いだった。
 
 だから、明治になって、日本が半島を植民地にして過酷に扱った事は、民族的にお詫びしよう。(実態は併合して膨大な金をつぎ込んで、教育、社会インフラ、鉄道などを整備し、韓国民を豊かにして現在の繁栄の道筋をつけているのだが) だがそれは四十年足らずの期間に過ぎない。しかし、さかのぼれば、古代百済語で「ナラ」とは国を意味すると金達寿も述べているように、つまり日本史の奈良時代というのは、 神功皇后の百済体制だったことになる。 巨大な奈良の大仏建立など建造物を造るため、どれぐらい吾々のご先祖様は過酷な労働を強いられ、苛められ奴隷とされたのか。 少しでも意に逆らえば、鞭打たれ殺されたかは、筆舌に尽くしがたい。この状態が八十年以上も続いたのである。この事は怨念をもって訴えたい。
次の、中国にしろ西暦六六三年に白村江で勝って日本に進駐してきて以来、天智天皇の時代までは、施政上の都合で百済王朝を前面に立て黒子に徹してはいたが、
壬申の乱から表面に出てきて、藤原(トウゲン)王朝となる。この時代は三百年以上も続くのである。 「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、 吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか?
「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」
というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。 ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、 曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。  この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、 「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。 (注)修羅とは、現代の起重機の事
 平和の毒に侵された日本人民よ

 

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さて、こうした史実を踏まえて、平和ボケした日本人のために、現在の中国の戦略について記しておかなければならない。 中国の覇権主義は凄まじい勢いで世界を席巻しているのが現状である。過去十年で軍事費は四倍にも膨張させている国である。 中国共産党は過去五十年でどれだけ力ずくで領土を拡大してきたか。 南ベトナムから西沙諸島を奪った。次に南沙諸島も占領。 フィリピンからは米軍が撤退するとすぐにミスチーフ礁を占領し、スカボロー礁を埋め立て軍事施設を建設している。 一方の日本近海では、 一帯一路政策は、現代版大東亜共栄圏の世界版だと前項で指摘したが、尖閣には中国海軍の軍艦が領海侵犯している。同じく空軍も頻繁に領空侵犯を繰り返している。 こうした現実を日本のマスコミや評論家たちは「日本の中国敵視政策が原因」と、まるで中国共産党の手先のような論評をする。 彼らは尖閣を奪取すると宣言し、日本政府の抗議を一切無視して無法のやりたい放題で、まさにこれは侵略と恫喝に他ならない。 こうした危機的状況なのに、左翼マスコミや評論家たちは中国擁護の論調が強い。
 
特に酷い朝日新聞は「中国との信頼醸成の努力を」という社説で、全く逆立ちした論調である。 さらに琉球新報、沖縄タイムス等は中国の言い分其の儘を書いている。中国は本気である。尖閣を盗り、次は沖縄諸島を占領する。 米軍が沖縄から撤退したとたんに、中国は上陸してくるだろう。 その最終目的は日本本土占領なのである。日本人よ惰眠を貪っている時代ではない、目を覚ませ!! 日本は今すぐにでも、日本海の隠岐島、対馬、沖縄の西表島、宮古島、尖閣の魚釣島に強力な防衛部隊を設置しなければならない。 安倍首相には閣議決定で是非実行してもらいたい。 奈良や平安時代と違い、これからの中国の侵略は、占領後大量の移民を送り込んでくるだろう。 そして勤勉で人の好い日本人は、奴隷化された労働力として過酷で惨めな生活を強いられるだろう。 敬天愛国布衣草莽の臣としてのこれは遺言でもある。