新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

サンカの生活実態 吉良上野介の妻上杉家の三姫

2021-06-07 11:33:05 | 新日本意外史 古代から現代まで

サンカの生活実態


吉良上野介の妻上杉家の三姫
夫馬小太郎
三角寛



本ブログではサンカの考証をしている。彼らについての良質な史料的書物は少なく、有名なのは三角寛の物がある。
東京朝日新聞記者だった彼は、警察、即ち体制側からの視点でサンカを「反体制部族」として断定し、さらに海洋渡来系(赤サンカ)と騎馬民族系(白サンカ)をごっちゃにしている。
以下は、三角寛著作の「サンカの社会性」の書物を引用して、その間違いの部分の考察をしてみた。




先ず「ヰツキ」の意味である。
 
ヰツキは、半永住の「ササメイホリ」のことである。これは篠笹を厚く立てて、三方を囲んで、その先を丸屋根にして、中にコモを張る。これを「タチゴモ」という。
これは神代から、天の火明命の一族が、蝮や「赤士刺(ツチカミ)」とよぶサソリを防ぐために考案して作ったものであると伝承されている。
 天幕と同じ方位に向かって入口をつけ、中は土間と床張に別れ、床は土間より五寸ほど上げて、大地から湧き上る地気から離してある。炉は入口の土間に切って自在鉤(テンジン)を立て、煮炊きできるように作る。
広さは人数によって大きさはどうともなるから自由である。この「タチゴモ」の入口にも、「鳴竹」を立て、「チギナリ」を鳴らして、神の加護を祈ったのである。


竹の代用に木を立て、その先に「ナリヒサゴ」を取りつけて、「カムナリ」を仰いだ。その事は江戸時代で、今ではすっかり行われていない。
 というのは、アメリカ製の軍需用のビニールシートカバーや、レザー偽革の反物を配給する時に、これまでのように天を仰ぎ地に伏し火や水を尊ぶといった形式は、
拝火宗とよばれるアラブの回教以前の宗教に似通っていて紛らわしいからという理由で、日系三世や四世の兵隊が、支給の交換条件みたいに厳しく言い渡されたからであるとも云われているが、いかがだろう。
 完全な自然食をしているサンカゆえ、GIが医療斑を伴って廻ったが、トラホームの子供が数名いたきりだったといわれる。


なにしろGHQが昭和二十五年12月に平均年齢を調査したところ、平均87歳を越すという有様で、カロリーとかビタミンとは全く無関係な食生活でも、自然なものを食べていれば無病息災で、医者のいないサンカ社会では長生きできる。


 六十年安保で挫折した学生が、たとえば加藤登紀子女史の旦那様みたいな、かつての闘士が、みな自然食運動をやり、アイヌモシリの事を書く太田竜や野上ふさ子が、やはりそうであるのも、別に長生きしたいとか、
医者の薬代を倹約したいというのでは決してないらしい。GHQの力で昭和25年から表向きのトケコミというか解放運動が進められたというが、開戦する五年前から、反体制のサンカの連中は、
これで自分らを扱いにした京や東京の藤原勢力が追い払えると白バケをしたのは、アメリカへ棄民のごとくに移民されていたサンカがアメリカの諜報部隊となり、各戦線にアメリカ軍兵士として参戦していたゆえであった。


だから進駐と共に彼らシノガラサンカも米軍兵として日本へ来て、各国ハジメの許へ行き、どう話したかは伝わっていないが、民主主義をよく説き、各セブリを廻って歩いたのである。
それゆえアメリカ軍を民族解放のものとみて、山からセブリをたたんで戦火で焼野原になった都会へ出てきて住み着き居附となった者が多い。


普段ならサンカが異様な恰好でぞろぞろと姿を見せたら怪しまれるだろうが、時が時だけに罹災者なみに見られたのだろう。
下谷の万年町界隈は昔から居附サンカの屯地だったが、入谷の鬼子母神にかけて彼らは戦火を受けた土地を上野にかけて次々と新円切り替え時までに入手し、地盤をかためた。
今のアメ横で最初にPXの煙草やチョコレートや洋酒を売り出したのも、GIの中の日系シノガラキ部隊がMPの許可をうけてトラックで多量に持ち込んできていたからだともいわれる。
なにしろ、表向き作って売っていた芋飴というのは、サンカが子供のおやつに作っていたものゆえ、当時の事を知っている人々は、すぐ近くまで浅草から韓国人が団体を作ってアメ横を占領にきた時も、
MPを伴ってきた日系シノガラキ兵が銃を構えて己が同胞を守ったのである。


なにしろ山にいた頃というか昭和の初めまでは、彼らはセブリの狭い所で何でもしていた。セブリ生活者には電灯やガスの恩恵はなく、「テラシ」といって燃し火で明かりをとるだけである。
したがって燃料を必要とする灯火を節約する意味もあって、暗くなれば寝て夜が明ければ起きているといった早寝早起きである。


冬期の時間でさえも午後七時には就寝、そして午前四時には起床する。
箕作りという職業からいって、農家の耕人が家を出た後で出かけたのでは仕事にならない。農家の人達がまだ家にあるうちに出かけて、各戸を巡ってその日一日の修繕箕を集めて、それを鎮守の森や雑木林の中に運んで、
農家の人々が耕作を終わって家に戻って来るまでに仕事を上げて届けなければならないからである。
この早起きの事を「トリオキ」という。また「オヤドリ」ともいう。一般でいう「コケコッコー」と鳴く一番鶏に通ずる。


オヤドリに起き、テラシをテンジンの下に上げて、「朝食(アサイ)」を炊く。朝食は麦飯と味噌湯(ミソユ)である。ミソユは味噌を竹の椀に入れて湯を注いでミソ汁にして飲む。この麦飯の中には山菜野菜を切り込んである。
漬物は、農家から「償(ツグナヒ)」(修理代)に受け取ってきた沢庵やミソ漬などを食べる。また、この麦飯を弁当箱につめる。
この朝飯にはどんな子供も起こされる。学校へ行く子があると、その子供と母親は残るが、学校へ行く子のない家族は、弁当を持って一斉にセブリを出る。村を巡って、その日の仕事が終えてセブリに戻る時刻は「日落ち」前とされている。
それから夕食にかかるが、夜は腹に良い物をというので、主として雑炊かうどんである。夕食にかかる前に、セブリの者はみな、「ミソギ」を必ず実行する。寒中で、
磧(かわら)で手足を洗って、体を冷水で洗うのである。川にザブリと体をつけて、磧に上がって皮膚に痛みを感ずるほど摩擦すると、寒風の中でも体が温かくなる。


そして、セブリの中で焚火にあたると、汗をかく。これは出産の時、初水(うぶみ)を使った習性がそのまま実行されているのである。
睾丸を冷水に毎日冷やすと精が強くなるというのも、サンカのこの慣習の受け売りなのである。が、これは俗説となっているが事実でもあるらしい。


なにしろセブリの夫婦生活は女房が上に跨っての行為である。それに一夫一妻がハタムラになっているのである。並みの男なら新婚早々は溜まっているし珍しいから連日でもいたすが、
何年もたってくると倦きがきてしまい、つい不沙汰になりがちである。しかも下敷きでは駄目である。


ところが、セブリでは冷水で連日浸けるせいか、七十代になっても夫は妻を満足させられるという。
 なにしろ川のあるところなら水浴できるが、そうでない場所では風呂桶を持たないサンカは地面に穴を掘って、昔は桐油紙であったが、今はビニールの雨覆いを大穴型に敷き、
それに水を汲みこんで焼石を投げ込み、温めてヌルマ湯にしてから入浴する。
これを焼湯(ヤキユ)というのが三角寛先生の説である。が、太陽や地面を拝礼する彼らは、自分らは太陽によって大地に生れ、火と水によって暮しているのだと考え、


太陽の運行や流れ星を気にして占いをなす者も、セブリには居るに居る。
「高くなり広くなるみの うみのはら ひ(陽)つき(月)のちから でしほ ひきしほ」というのはサンカ社会に今も残るミチ、つまり塩の事を讃えた歌である。


なにしろ何を食するにも塩がなくてはならぬ。もともと製塩は塩尻とか天尻とよばれ、西南より渡来の古代海人族の限定職で、他の者は今も専売品になっているように、誰もが自由には作れぬものなのである。

 吉良上野介の妻「三姫」もサンカの血を引いていた

赤穂事件の原因が、吉良が赤穂の塩作りの秘伝を奪おうとしたとするようなのは、現代の産業スパイ小説ものであって、あり得ない話で間違っている。
三州吉良では忠臣蔵の芝居を興行させぬのは「抹消」の抹をつけた「抹茶」、つまり摘めば黒くなってしまう植物の茶を緑色にして保たせるのは、銅鍋にわく緑青を混ぜるからで、
これを考案したのが吉良上野介の一歳年上の妻であった上杉の三姫なのである。


よって添加物の事を昔は「転茶」とよび、今は「天茶」といい、茶業者は西尾町となっている吉良から仕入れて混入させねばならぬ義務がある。
つまり吉良上野介のおかげで今も町の産業が成り立っているからである。呉服橋に上杉家より出させた一万両で建てた吉良邸が豪壮厳重で、討入りなどできるような建物ではないから、


柳沢吉保大老は、私邸なのにお召し上げとし、代りに本所の旧近藤登之助の古屋敷を与えた。
官舎だから絵図面は今でも残っているが、いくら修理をしても辺鄙な場所で不便ゆえ、三姫は狸穴の上杉中屋敷に上野介を住まわせていたが、米沢へ戻るのに上杉邸では出来ぬからと別れの会に本所へ行った。


それを大高源吾に知らせた四片庵山田宗偏は、柳沢が元禄前の古い小判大判の流通禁止をし、カネとして通用せぬ京で堺の中村内蔵介に銅を半分も混入の、今いう贋金作りした際の京所司代。その功で加増されて、
当時は老中職の代々の臣だった。
 京の真似をして町木戸を、加賀爪甚十郎が町奉行の時に設けたが、本所から品川の泉岳寺までは四十三ヵ所あると元禄江戸切絵図にもある。


春闘とかゼネストのなかった時代に、当夜に限って番太郎がみな錠をかけ忘れて、彼らを堂々と通した事は当時としても考えられなかった。
そこで、同時代の安藤広重の討入りの続きもの絵では、往復ともに小舟に分乗している。
が、実際は町木戸を監督する大番屋は十二月は南町奉行松前伊豆守の指揮下。松前は牧野備後守が京所司代だった時の京町奉行から、勘定吟味役から勘定奉行に栄転した萩原重秀と共に江戸の奉行に昇進していた男。


元禄版日本マフィアといってもよい仕組みで、討入りの晩に本所二ツ目の紀伊国屋の小屋へ出かけてゆき、「殿よりの賜物」と生卵を配ったのは、柳沢の三百石の家来の細野広沢であるし、


また松前伊豆守抱えの棒術指南の堀内源太左エ門も助太刀に赴いている。そのくせ討入りしたのは武林唯七みたいな軽輩三名が五組ずつで、七十八歳の堀部弥兵衛や、
その他は吉良上野介が炭焼き小屋より邸前に曳き出され斬首される迄は、外にいて、「寒うござる。火に温まらして下され」とか、
「白湯を一杯所望」と、近くの旗本邸の番人にねだって邸外にいたにすぎないから、見張りをしていただけの話。


 そこで、処分問題ではもめたが、萩生徂来として今も知られている儒臣が、柳沢の命令どおりに公儀に対して進言している。
「みな賜死にすべきである」と主張した彼は、細野広沢より上の五百石どりの柳沢吉安の臣。
 この時、女鎧を着て夫の仇討だと討って出ようとしたのが上杉の三姫。


これから、「一つ年上の女房は金の草鞋を履いても探せ」と云われたが、芝居から「(塩谷)判官びいき」となって、三姫の名は消えてしまったという。
 この上杉家はもともと長尾家で、長女は阿亀、次女は阿虎と名が決まっているのに、三番目にできた故に、この三姫の名があるのである。


焼石を厚手の布袋に入れ、「温石(おんじゃく)」とよんで吉良に持たせた記録もあるが、小林計一郎著には、上杉阿虎の姉阿亀が長尾政景との婚礼の絵馬が新人物往来社から出ているが、
夫は正座し阿亀は立て膝姿である。これは明らかにサンカの女房風俗である。
となると、その間に生れた喜平次が後の上杉景勝となり、その曾孫が三姫ゆえ、吉良上野介は連夜下敷きになって夫婦和合を強いられていた事になる。


関ケ原合戦では、赤系の平氏の豊臣方と、白系の源氏系徳川の関ヶ原合戦に上杉が中立だったのはサンケ系のためなのである。
 播州赤穂森城主が、今いう体育に木刀稽古の相手を召し抱えたのが治安維持法に引っ掛って、妻の里方に閉門になった後へ、浅野内匠頭の祖父が関東から転封になった。


 この際に伴してきた播磨多次郎とは呼ばれる者が、海水を塩田にまかず何百本もの竹筒に汲みこみ、真夏に底に塩の凝り固まりを拵えて水晶みたいな氷砂糖のようなものを赤穂の木津屋を通して各地の国一の許へ油桐紙包みにして送っていた。
「ミチノカミ」というのが、実はこの精製塩なのである。
 当時、上杉家は景勝の百万石が関ヶ原戦後三十万石、次いで二十五万石、三姫の産んだ三之助が養子に入って十五万石にはなっていたが、良塩が欲しいのなら米沢の国一に命ずればそれでよいのである。


多次郎塩つまり最高のサンカの「ミチノカミ」が、いくらでも上杉から吉良は入手でき得たのである。
 だから吉良が赤穂より製塩技術を盗もうなどという大河ドラマのごときは、吉良上野介の一歳年上の妻である上杉三姫がサンカの出であると判れば噴飯ものである。


 サンカはフナ(風那)かフマ(風摩)


 サンカ夫婦亀蔵とお花の物語



 反権力反体制で何事に対しても反抗的で、国家権力をもってしても何も言わぬ彼らをどうして調べてよいか判らず、朝日新聞のサツ廻りの記者だった当時の三角寛先生は、追憶として、
「警視庁の石島丑松刑事の資料により、相模、溝ノ口のセブリで、池亀こと池岸亀蔵と妻お花に会見してサンカの生態資料を得たのが最初である」と書いている。


それは昭和七年七月二十四日の事であった。先生は溝ノ口の池岸のセブリの程近くまで行ったが、最初のことでセブリの呼吸がのみこめず、二時間ほど木立の中で様子をうかがっていた。
セブリの前には居附の野天風呂を構えて、土管の煙突から煙が出ていた。そこには赤ネルの腰巻をした白肌の裸女が薪をくべていた。これが、石島刑事から得た資料の主たるお花であることが、先生にも判った。
このお花は両親不明の山童女だったのである。お花は丹澤山で育ったらしいが、五、六歳の頃、村里に現れ、サンカの遊芸(エラギ)相模阿国に救われ、阿国から三味線や唄の遊芸を仕込まれ、
生来の音感と、恵まれた雪肌を売物にして阿国の相棒となって二人で門付けをしていた。


これに眼をつけたのが、当時三十七歳で独身のアバタ男の池岸亀蔵という箕作りサンカだった。一目惚れした彼は、相模国知(クニシリ)に、お花を妻に迎えたいと強硬に申し入れた。
というのは亀蔵が十二歳の時、天然痘にかかり、セブリの中で死にかけたのが、九死に一生を得た。その時、セブリ焼きという病菌掃いに立ち会った相模一が、亀蔵の面相のひどいのに驚いて、
サンカの慣習になっている男はニキビができる頃、女は女(アハズ)の処女(ツル)といって、恥毛のないうちでも初潮のきた女は結婚させる‥‥という習慣だが、これでは女を迎える事はできないから自分で女を探せ、
女捜しを許すとなった。
それ以来、亀蔵は独身を通してきたのだから、今度という今度は、どうしてもあのお花を妻にさせてくれと許しを乞いに出たのである。
そこで相模一はその下のクズコ、ムレコと相談して、養育料(一年十二円、満八ヶ年分として)九十六円と手切れ金も同額の九十六円として、
当時としては大枚の百九十二円(現在なら二千万円近い)を養母(そだておや)の於国に支払う事をその条件とした。


ところが亀は、できないと思われていたその大金をどうにか工面して作ってきてから、それを於国に支払って於国の許から、お花を妻にするといってムレコの立会いで引取ったのである。
こういうと、いかにも於国はソロバン強い女のように誤解されるが、この母は野良犬みたいな人間らしきものを拾ってきて、並々ならぬ努力で人間に育て上げたので、その愛情は唯事でなく、
「女房が欲しいのなら自分達母子がお前さんの女房になって、わしはお前様を大切にするから、わしの手からお花をとらないでおくれ、お花とお前が私の側で何をしようと、
決して二人のマグイ(情交)の邪魔も、見て見ぬふりをして、声も出さねば何もしないから、どうか私のそばにおいてくれ」と、ワイワイ泣いて連れて行こうとするのを断った。
 それでも亀は、「俺はそんな事は一つのセブリの中ではできない」という。


「それでは白化けて普通人と同じ生活をたて、母子女房でもよいではないか。母子といっても、血の繋がりはないのだから‥‥」と、於国は亀に頼み込んだ。
 そこで亀は、相模の総大将(クズシリ)相模一のセブリに駆け込んで、これでは話が違うと、詳しくこれまでの事の次第を訴えた。
泣きつかれた相模一は、於国を呼んで、「養育料(そだてもどし)と手切金(ちぎり)は、クズコムレコと相談した決定判決(オチ)であるから、もはやどうあっても変更はできない。金を全部ちゃんと渡したのだから、
お花は亀に引き渡せ」と、よく言ってきかせてから、やむなく終には頭ごなしに宣告したのである。

この時の於国の泣き崩れ方はただ事ではなかったが、それからは多摩川べりの宇奈根河原の後家(カタミ)の瀬降から一歩も外に出なくなった。
秋風の吹き出した九月の末頃になって、お花がそろそろ分娩近くなるという事を知ると、亀の瀬降の下の多摩河原で、毎日ウメガイを研ぐようになった。
そしてピカピカに光る双刃を逆手にもって、亀のセブリに怒鳴り込むようになった。そして、死んでやるとか、一緒に娘と死ぬとかいって騒ぎ喚くのである。
 中に挟まれたお花は、切羽つまってしまってどうしようもなく、ウメガイで両眼を切って失明した。夫と育ての母との板挟みに苦しんで、義母と夫の双方に、自分を思い切らせる目的で盲者になったのである。
全く浅はかな考え方で、これが逆になって不幸の原因となった。失明したお花に、亀と於国の双方共が更に深い愛情がぐっと湧いてきたからである。
於国は、セブリの紛争は全てクズシリの判決を待つ事に掟(ヤヘガキ)されているのに、クズシリを恨んでいたので、この結果を品川警察世田谷分署に訴えたのである。
十日の事である。

「梨泥棒の亀は、私の娘を奪って戻すまいとして、盲目にしてしまった」
「このままにしておくと、あんな恐ろしい奴だから、お花を殺すに決まっている。殺されぬうちに捕えて、娘を取り返してくれ」と警察へ願い出た。大正二年九月三日の事と三角寛先生は発表する。
 応対に出たのが石島丑松という、当時まだ二十五歳の刑事で、於国に案内させてから、溝ノ口の亀の瀬降に出かけた。セブリに行ってみると、なるほど出産の迫っているお花が蓬(よもぎ)の葉でたてた湯で眼を温めていた。
もう切った両眼は閉塞していたが、傷の方は九分方治っていた。石島刑事が何をきいても、当人であるところのお花は一言も返答をしなかった。
亀の方も、さも面倒くさそうに、聞かれる事の十分の一ぐらいしか話さず要領を得させなかった。石島刑事は、これを事件として取り立てるのは、あまりにも社会性に乏しく、
一般犯罪の中に組み入れて一つの事件を作るには起訴不能と考えた。なにしろ誰もが戸籍もない連中である。


人事相談でも扱いにくい事実だから、亀を説得するだけにとどめた。ところが、亀にしても、立派な筋を通して貰い受けた女房であるから、警察などからとやかく叱られる筋はないから、帰してくれという。
そこで石島刑事は、泣き喚く於国をなだめて、その気持ちを慰める事を目的に、一応亀を警察に連れていった。
そして於国の密告した梨泥棒の点を調べてみたが、梨畑の見張り番を頼まれた時、依頼者の承諾の上で、時々梨を喰った程度の事で被害届も出されてなく、窃盗の証拠も立てられないので、釈放して不問にした。
と、この有名な事件は三角寛先生著「サンカの社会性」の本に出ている。


 ところが、亀が一晩留置場にいるうちに、亀が警察に連れてゆかれたという早駆(シナド)が、秦野の国知(クズシリ)相模一(サガミハジメ)のセブリに飛んだので、クズシリは直ちに伝令を各セブリに飛ばせ、
一夜のうちに相模のサンカは箱根の裏道を抜け、蘆ノ湖の湖尻峠を越し、川伝いに駿州駿東郡富岡村に黄瀬に終結。


 ここで、溝ノ口の伝令(シナド)秦野今助(箕作り)の説明で、於国の狂気(くるひ)でセブリに警察の手が入ったが、この分では相模のセブリ全部に対して、警察が手を伸ばすかもしれない。
だからして、亀は当分まさかセブリには戻らないだろう、ということになったとされた。それとは知らない亀がセブリに戻ってみると、サンカのシンボルである天神と称する自在鉤が抜かれているので、
抜かれたあとの穴を掘ってみると、竹の筒が埋っている。掘り出して栓を抜いてみると、黄瀬川べりの富岡に来いという暗号のあぶり出しが入っていたという。
 そこで盲目のお花を背負って駆けつけると、事の始終を詳しく聞き出され、その挙句が、「十年間、ヤライする」といった追放命令を出された。


サンカと同じ生活は許すが、サンカの自在鉤は許さないという事である。このヤライ者が、もしもそれを恨んで密告などした時は、裁判(カンバカリ)にかけられ、殺害(カイタチ)になる。それがヤエガキとして重大な心痛事である。
 ところが、この亀追放に続いて、於国吟味(バカリ)があって、於国は裁判にかけられ、殺害(カイタチ)と決定した。クズシリやクズコや、ムレコが相談して、本人も納得して解決したお花について思い切り悪く、さんざん暴れ廻っただけでなく、最後にクズシリにも、クズコやムレコにも相談なしで、亀の事を警察に密告したとは、掟(ヤヘガキ)破りだということになったのであると三角は書く。


 黄瀬川を離れた亀は、急いでセブリに戻ってきた。戻る途中、お花は産気づいて、相州足柄上郡足柄村の河内川べりで男の子を産んだ。サンカは道端でも簡単にお産をし処理す。お花も、持っていた竹刃で臍の緒を切って河内川で嬰児を洗い、休息もしないで溝ノ口へ戻った。於国は亀のセブリの自在鉤がなくなっているので、亀はセブリを捨てて、どこかへ逃げたのだと思い、その後に滑り込んでいたのである。そこへ亀が戻ってきて、於国を見ると、
「オイラは、そなさんのおかげで、ヤラれるンだぞ」と言った。於国は一瞬さっと表情を改め、
「それじゃア、おいらは、カンヤリだな」と言った。カンヤリはカンヤライで、神去りの他動詞である。すなわち、命である神を肉体から追放する事であで、死罪に問われる事である。
「そうけ、それじゃあ、おっつけ伝令(シナド)が早めに来るだろう。来たら、於国はもうとっくに何処かでカンサった(死んだ)と言ってくれ。お花、もう会わねえよ。
おや、分娩け。あれ、男(アマリ)だな」というところまで警察日記には書いてあったという。


 この石島刑事は大正三年三月に本庁創作課に栄転。同七年に日本橋久松署、続いて板橋巣鴨分署と廻されたのに厭気がさしたのか、翌年退職して東京新聞の前身都新聞へ入社をした、と三角先生は書いておられる。
 まぁ、大正初期にサンカのセブリ調査をした最初のデカであろう。しかし、当時は大河内伝次郎の「忠治旅日記」や、阪妻の「雄呂血」といった活動写真が、まだ地区のウズマサで、
「おのれ不浄役人め」とか、「不浄な縄目にかかるものか」と、バッタバッタと寺人別の戸籍に入っていない五ケと呼ばれた捕方を、いくら斬っても殺人罪にはならぬから斬りまくっていた。


さて、蜂は刺したら己れも死ぬというが、反権力体制集団のサンカなのに、アバタガメとはいえ亀を入婿にして同じセブリで同居させれば、たまには上へ跨って用が足せると、
金より色気になった上に、お花が目をつついて盲目になると、見えぬから何度も亀に馬乗りになれるようと欲を出し、いわば敵にあたるオカミの警察へ密告した於国は、通報叛逆罪の掟ですぐハタムラにかけられ殺害され、
面を見られたお花やその子、巻き添えでブタ箱に入れられた亀も顔写真を撮られているので、いつ拘引されるかもしれぬというので、不憫だが五セブリのテンジン仲間によって処分された。


だが、死体を巧く埋めてしまったのか、戸籍のない人間は殺されても殺人罪には起訴できぬから、石島刑事もその侭放っておいたらしい。
サンカは絶対に秘密厳守で、他人とは口もきかぬから、警察の調べも終戦までは放っておかれたので、彼らの行方や生死も想像するしかないのである。
なにしろ大宝律令が発布され、律令国家となってからというもの、「良」と「賎」に二分され、日本列島の原住民は悉く賎にされ、後には契丹より渡来の大陸人さえも、唐を滅ぼした敵性人として賎に落された。
 比例は全人口の九割から九割五分が奴隷か、それになるのを拒んだサンカのような反体制集団。そして、討伐され捕虜となって奴隷とされたのは庭子制をとられ、男女別にされて、男は酷使され女は色んな当て字を使われるが、カイトといって、良の男に対しては否応なく女の扉を開いて迎えねばならぬようになっていた。


しかし、サンカだけは男女つれだってゲットーへ収容されるのを拒んで逃走して生活しているから、セン(先住民のセン)ズリすることもなく通常な営みができた。
だから純粋な日本人の血脈は混血しない彼らだけに終戦までは続いてきたのである。
が、そのかわりツレミとよぶ一夫一婦制が厳守されていて、いくら夫に稼ぎがあっても、他の女に浮気などしようものならハタムラという掟でセブリから追放されてしまうのである。
 木曽街道に「妻篭」とよぶ宿場が残っているが、これはサンカの娘や女が拐されてきて収容された土地の名残りで、男はウメガイをもって夜襲し連れ戻さねばならぬのが掟だった。
 どんな事があっても妻をいたわって、危険があれば己れが身命を賭しても助け守るのが掟。
こういう男を夫にもてば浮気もせず、女性にとっては最高だろうが、今のサンカは白バケ居附して都会の中に溶け込んで生活しているから、まこと残念ながら見分けがつかなくなっている。
しかし令和の時代になっても、サンカ人口は多く、全人口の三割は居ると思われる。


彼らの特徴として、家族を大切にし、動物好きである。何といってもこの少子化社会での中で「子沢山」なのである。
現在三人も子供が居れば多いほうになるが、彼らは平気で七人八人と産み育てている。
テレビで有名な評論家もサンカの子孫で、彼は七人の子沢山で、浮気の噂など全くなく、家庭ではよきパパらしい。

 三角寛先生説では、明治四十三年二月一日に、
摂津1246
山城 463
河内 564
和泉 469
合計3236
とセブリ数を、近畿五カ所国の国知が署名していると書き残している。
のち大正三年四月六日に保津川の支流のクオクセのセブリで死んだ記録もあるから、一応はこの数字は信頼できる。一セブリ、子供や老人を入れて五人単位とすれば一万六千名になる。
近江579
美濃486
飛騨449
信濃38
上野138
下野467
合計2567
という数字も五倍すれば、一万三千人になる。
 北陸道の、
若狭 56
越前 74
加賀146
能登  9
越中 49
越後 65
佐渡  4
で、合計403セブリならば、2015人の計算になる。
東海道は、
武蔵津別(わけ)の統轄で、
伊賀  34
伊勢 169
志摩   2
尾張 568
三河 496
遠江 566
駿河 397
甲斐(ウナシカイ)
   269
伊豆 239
相模 467
武蔵1694
安房  32
上総 367
下総 296
常陸 246
合計6103と、富士王朝のあった土地ゆえ多かった。
 武蔵は今の埼玉で、東京は胸蔵だが、江戸時代には下谷万年町に下谷田地火目黒行人坂には目黒田地火大森一帯には池上田地火田無には石神井地火荒川には山谷田地火と屯りがあったが、
三河島の中州に武蔵七党の子孫として残っていた三千から八千は、家康入部の時に召し抱えられ旗本御家人となり、島をとって三河譜代と自称していたから、ここへは飯米が何百俵もそれぞれ寄せられ裕福だったという。
巣鴨印火(インベ)(部)は、三重や近江からの白バケが居附になっていて、伊賀屋敷、甲賀屋敷へ出入りしたり小者になっていた。
そもそも「白バケ」という言葉にしても、三河島から旗本になった連中が、刀の柄に白革をまき、「旗本白柄組」などと自称していたから、新しく召し抱えられるのは無理となっても、
江戸へ入ってしまって居附になれば町人別にもすぐ加えてくれるし、何かにつけて便利だったせいで、荒川筋から江戸府内の各地に散らばって住み着いたサンカ者が極めて多かった。
しかし、「箱根以東のサンカの本陣」というか本拠は桶川であって、年に一回は各国の一(ハジメ)と呼ばれる代表が集って、箱根以西の本拠であるササヤマとの連絡事項を定めあって連絡は、


「夫馬(フマ)」つまり馬なみに速い男か、三河の「風那」つまり風みたいに速足の者を使っていた。
 忠臣蔵の芝居で高の師直が、「フナじゃ、フナじゃ。フナ侍め」といった台詞もこれからきているので、魚の鮒ならば当時は雀焼とよばれ、五匹ずつ竹串にさしたのが将軍家の膳にものぼる高級魚であったから、
蔑称と解釈してしまっては困る。もしそうなら、「ダボじゃダボハゼじゃ、ダボ侍め」と蔑まなくてはならぬ。が、あの忠臣蔵ができた時代は一般庶民が、(サンカのくせに旗本だとか御家人といって威張っていやがる)
と、自称三河譜代の旗本に反感を抱いていたから「フナ」で意味は判ったのである。
「大菩薩峠」で中里介山の書いた早脚の七兵衛とか、早乙女あたりが昔よくクラブ雑誌に風魔小太郎といったスーパーマンを書いたが、これも箱根以西のフナ、東のフマの事である。
新幹線ができたり、ドライブウェイが全国的な現代では、脚が速いくらいは何の価値もなく、オリンピックのマラソンに出場して賞賛されるくらい。