豊臣秀吉は猿ではない

「うん、うぬは猿そっくりじゃな。まこと珍妙なつらじゃ。よし、今日よりは、猿めとよんでつかわそうかい」
「はい、はい、召し使うてさえ頂けるものなら、てまえは猿でもなんでも、結構にござります」と信長に奉公の初めから、いと気軽に、
「さるめ、さるめ」といわれた事に、あらゆる書にも『太閤記』にもされている。しかし、
『両朝平壌録』という朝鮮の役のときに向こうから交渉にきた者の、帰国後の見聞録ともいうべき報告書には、
「つらつら関白秀吉を、間近かに観察するに、左頬に黒あざのごとき汚点(しみ)が数点浮きでており、口が尖っていて、その顔つきは一見、犬に相似していた」とでている。
日本の講談では、猿だとか猿面冠者とあるが、実際に面会した人間は、はっきりと秀吉を、「犬に似ている」といい切っているのである。
はたして、どちらが本当だろうか?
また秀吉を、土百姓の子とか、鉄砲足軽の子であったなどというが、その頃、日本へ宣教師としてきていたシュタインシェンの、『キリシタン大名』には「樵夫」とあるし、
『日本西教史』にも「秀吉は若年の頃は木こり、たきつけ火付け用に柴の束を担ぎて、売りひさぎ歩きし」とでている。また、
「講談」では「相当豪かった丹羽長秀や柴田勝家にあやかろうと、羽柴と姓をつけた」というが、『古語辞典』では、
「はしば=枯柴の尖端で点火用にした端柴のこと。形状より羽柴ともいう」とあるが、どちらが本当だろうか‥‥この方が論理的だと思われるが、
これまでそうした説は全然といってよい程とりあげられていない。まあ、講談とか、それに類する読物ではそこまでの詮索は、煩わしくなるだけで必要がないのかも知れない。
しかし徳川の世が終って明治になった途端に持てはやされ、西郷隆盛ら征韓論者らによって、「豊太閤に続け」と叫ばれて以来、やがて日清日露と続く大陸進出作戦に際しては、
かつての先覚者、国民的大英雄として、小学校読本や絵本の主人公にされてしまいには一大人気者にさえのし上がってしまった彼には、
「これ藤吉、いやさ猿め」といったようなそんないわれ方でないと、一般の親しみが得られなかったというのでもあろうか。
そうなると、秀吉という存在も、明治軍部が担ぎあげたジンギスカン義経と同じように、大陸開拓先進者という国民指導用の偶像だったにすぎない存在だったとも考えられるのである。
つまり明治以降、ある時代ごとに秀吉が、猿だ猿だと面白可笑しく脚光を浴びさせられるのは、なにも木下藤吉郎の出世功名譚が世人から求められ、
それで引張り出されるのではなく、朝鮮とか中国を国民に身近かに感じさせねばならぬような状態のときに、それはチンドンヤのごとく真先に、
引張り出される道化ではなかろうかと勘ぐりたくもなる。まったくそんな感じさえもするのである。
というのは徳川時代には秀吉の研究などされておらず幕末の、『真書太閤記』や『絵本太閤記』ぐらいの、いわば講談本のはしりしか出ていない。
だから乃木大将程の人でさえ、『真田十五代記』といった講談本の類しか読まなかったそうだから、それよりも年かさの明治の元勲などが読んでいた本は、それ以下のものとしか考えられぬ。
だから秀吉を大陸進攻のパイオニアとして、小学校教科書などでおおいに取り上げたはよいが、朝鮮史料や当時のイエズス派の書簡などはみていなかったろう。
だからして、その内に、秀吉が正親町帝を追って自分が帝位につかんとしたとか、それに反対した山科、四条卿らの大坂落ちといた新事態が明るみにでてくると、
「勤皇精神」を国民指導要領にしていた軍部も困ったのであろう。
そこで、秀吉の新事実は一切みな伏せてしまい江戸末期のままの秀吉像を凍結させたのである。
このため秀吉伝説は、文化文政の頃の版本から、すこしも解明されぬままに大手をふって今も、まかり通っているのだろう。
後述する大和興福寺多聞院英俊の当時の日記から、史家の中には、秀吉というのは歴史知らずの明治政府が、正一位を贈りあがめ奉ってしまったが、
実際は日本人にもあるまじき思い上りの不届き者だった‥‥位は知っていた者もいたであろう。
だが、明治大正昭和の間ですっかり金字塔のように出来上がってしまった秀吉の虚像に、正面から突き掛かるような勇気は誰も持ち合せていなかったのか、それとも、
もはや定説となってしまった伝説をぶち破っても、誰からも賞められはしなかろうと、そんなばかげた徒労をあえて、強引にするような愚かしさはしないのであろう。
だが敢えてそれを改めて推理し直してみるとこうなるのである。
また、加藤清正を有名にしたのは、なんといっても日蓮宗である。
それと同様に、塚原卜伝を世にひろめたのも、常陸鹿島神社が幕末の剣術流行時代に、当社こそ武の神と宣伝し、
「参篭した卜伝は、神のご庇護で剣の名人となった。剣を志す者は当社へ参詣すれば、ご利益できっと上達すること間違いなし」
と弘めさせたせいだというが、秀吉もまた、「山王権現さま」とよばれる日吉神社の信者獲得用にPRされていたものらしい。つまり日吉さまに願って生まれた子だか
ら、「日吉丸」であって、お稲荷さんの使いが狐なのに対し、「日吉さまのつかわしめは、猿だったから日吉丸は猿とよばれた」
という論法なのである。もともと猿というのは、「馬屋神」といわれ、信長や秀吉の頃は、馬が病気した時には、
厩へ猿にきて貰って小さな御幣を振らせれば直るとされていた。
つまり獣医というより、神聖な神の使いとみられ、猿飼部族は、「神人」の扱いをされていた。という事は、今のようにモンキーセンターや、動物園、それに家畜商もなかった時代では、
「猿は深山にすむ霊長類の動物」として、猟師でもなければ、実物は滅多に見られるわけのものでもなく、一般の人間は薄気味悪がって、拝まんばかりにしていたのだろう。
処が天保の飢饉からの米価の値上がりで、非農耕の猿飼部族は食してゆけなくなり、猿を伴って門付けして歩くようになったので、かつては恐れ敬われていた神人が、
今度はあべこべに、「猿廻し」と軽蔑され、猿の方も、昔は、馬屋の神であったのが、多くの人目にさらされた結果が、価値を安っぽくさせ、
「テレツクテンのエテ公」となってしまったのである。
だからこそ『真書太閤記』や『絵本太閤記」の類も、初めは発禁版本没収の憂目を秀吉ものを、そうした、「サルメ」「サル」の扱いにしたため、
後には大目にみられて、どんどん売りまくられたのではなかろうか。
しかし異説もある。その頃、将軍家茂に、恐れ多くも京から和宮が御降嫁になっていた。そこで一般庶民は蔭へ廻って、「将軍さまも天朝さまから嫁とりされては、頭が上がるまい」
下世話にいうカカア天下を想像し愉しんでいた気味があるので、この「サルメ」というのは広まったのだとする説である。これは、
『続日本紀』にある古い昔話だが、小野の姓を名のる一族の長(おさ)が、「わが部族の男共が、前から住んでおりまする女尊系の部族の女に引っかけられ、
次々と連れ去られてしまい、今や小野族は滅びかけようとしています。どうか異種の民でありまする猿女族を、この際討伐して下さって、わが氏族をお守り下さい」と願いでたゆえ、
「よし、女ごに引っかけられ、しぼられ苛められておるとは不憫である」と、時の帝は憐れみたまい、すぐ猿女を急襲させた。
処が猿女たちは「小野」の姓を自らにつけ、関所の眼をくらまし、もはや早いとこ散らばって逃げてしまった。
そして旅にでた彼女らは、自分という一人称を、やがて、「おの」といったいい廻しをなし、「おのが姿を影とみて‥‥」といったようなのを唄って、旅芸人の元祖となり、
「語り部」になったというが、追捕に後から行った男たちも、ウスクダラではないが、逆に捕虜(とりこ)となって、「夫」という名の奴隷にされた。
もちろん一部の女は捕らえられてきて、御所の中で、力仕事をする賎業につかされ、これは「猿女」の名を伝え幕末まで続いているが、
「さるめ」というのは江戸時代にあっては、「強い女」「かかあ天下」の意味だった。
そこで藤吉郎も、おねねに頭の上がらぬサルメだったろうという受け取り方で、将軍家への当てこすりみたいに、「サルメ、サルメ」といったのが当たったものらしい。
処が明治になって、もう猿女の本当の意味が判らなくなり、「小男であった」といわれる秀吉に、その猿自体を押しつけ、
「猿面冠者」にしてしまったものと思われる。そして、なにしろ明治新政府というのは、有能な士は幕末のテロで大かた倒され、
生き残れたのは、たいした事もない連中ばかりだったので、「王政復古」が成ると、直ちに、
「豊国神社復興」の命令をだして勅使を派遣して正一位を贈った。
これは、織豊両氏の統一事業が、近代国家前期工作であったことが認められた結果だと、故白柳秀湖はとくが、真相は、
(豊臣は徳川に滅ぼされているから、諸政一新のため)といった早とちりだったのだろう。処が歴史家はそれを裏づけなければならぬから、
故黒板勝美のごときは、その『国史概観』『国史研究』といった旧制高校、専門学校の教科書用にかいたものでも、
「秀吉は京都内野の地を相して邸宅を造営。聚楽第と名づけ宏大壮麗目もさめるばかりで、翌年四月に後陽成帝の行幸を仰ぎ、盛儀古今に比なしといわれる位に、
勤王のまことを示したものである」と、なっているが、彼は歴史屋のくせしてその当時の、『奈良興福寺多聞院英俊の日記』をみた事がなかったのだろうか。
その日記によると秀吉は、自分は先帝と持萩中納言の娘との間にできた子種であるからと、時の正親町帝を脅かし奉り、女御をみな裸にむいて磔にかけるとまで、
紫宸殿で喚きたて、あげくのはては皇太子誠仁(ことひと)親王のお命を縮めまいらせている。
御所に向かいあった下立売通りから十町四方の民家を取払い、そこへ万博なみの規模で造営したという聚楽第は、これは取りも直さず秀吉が自分が帝位につくための新御所に他ならない。
そして、誠仁親王の亡霊にとり殺されると脅かされた結果が、親王の遺児をもって帝となし、その御方を招いて聚楽第を自慢して見せたことが、
「秀吉の勤皇」とは、なんたる無智であろうか。その帝の謚号(おくりな)が、かつて廃帝の陽成さまの御名に「後」がつけてあるのをみても、
歴史家なら判りそうなものを、教科書にまでするとは情けない。
さて、秀吉の幼児には、まだ鉄砲は尾張まで入っておらず、「鉄砲足軽木下弥右衛門の子」となすのも間違いだが、
「太閤検地」によって、二公一民つまり六割六分まで年貢にとるという重税をかけ、百姓に同情も理解もなく、ただ憎悪しか示さなかった秀吉は農耕階級出身者ではなく、
木こり、つまり山がつの子という素性の者だった方が正しかろう。
が、だからといって、それが秀吉の価値を損なう程のことでもない。
食うやくわずの木こりの伜が関白になれたという男のシンデレラ物語は、彼が野卑であり傲慢であればある程、それは魅力的であり男性的でもあるのである。
つまり責められるのは、秀吉その人ではなく、彼を勝手に自分らに都合よくでっちあげ、歴史というものをまったく歪めてしまう、利用者の側の方であるだろう。