新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

平賀源内と朝鮮人参  藪医者の語源

2019-06-08 17:12:19 | 新日本意外史 古代から現代まで
平賀源内と人蔘
藪医者の語源
 よくテレビや映画で、病人がでると町医が診察にきて、これは朝鮮人蔘を服用せねば助からぬといわれ、やむなく娘が身売りしたり、病人の夫の浪人者が殺し屋に傭われてゆく、いった設定が時々みうけられる。
しかし、あれは嘘である。幕末の御典医で、明治新政府の軍医総監となった松本良順の、『懐古録』の中にもはっきりと、「府内(江戸市中)にて町医とし門戸をはる者は富士三哲を初め五指にたらず」とある。
 つまり当時人口が百何十万もいた江戸でさえも、それ位のものだったから街道すじの宿場になど、めったに町医がいるわけはない。
 もしいるとすれば千葉周作の父のような馬医者が、博労の多い所に住みついていたくらいのものである。ではいつ頃から町医が増えたかといえば、御一新後のことである。
明治六年から七年にかけ扶禄公債を当てがわれ放り出された侍は、商売に転業し出して、士族の商法で失敗したのが多かったが、中には文字が読めて、『傷寒論』一冊ぐらいをテキストに開業した俄か医者もあった。
まあこれなら威張って頭を下げなくとも出来るというので真似する者が激増し、雨後の筍のごとく輩出した。
 それに武家屋敷は慎(たし)なみとして弓に用いる矢竹用の薮を必らずもっていたので、「筍医者」とか「薮医者」の呼称はそこから出たのだが、維新前は病気だといえば、
「拝み屋」なる者が御幣を担いで飛んできてお祓いをし、ご加持祈祷とよんでいた。
 現在の常識からすると、それくらいのことではたして間に合ったものか、と首を傾げたくなるが、そうした修験や行者は、野生の大麻草を乾燥させた粉末を常時携帯していた。
 そして病人の部屋を閉めきり、香炉で煙らせ嗅がせていたから、七転八倒して苦しがっているのでも、今でいうマリファナ幻覚作用でモルヒネを注射したような鎮痛効果が現れ、
すこし暴れてもすぐ落着いたものらしい。
 話は脱線するが、道中師とよばれた連中はその粉を煙草に混ぜて、金の有りそうなのに吸わせ、暴れだしたりすると、「狐つきだ」といって騒ぎたて、混乱にまぎれて胴巻きを掻払って逃げてしまうが、
後に残されるのは燃えかすの灰だけだから、「護摩の灰」とよぶのだと、二鐘亭半山の旅日記にもでている。
 さて、
 話は戻るが、江戸時代にあっては、高麗人蔘とよばれたそれは大変貴重なもので、江戸では吹上御苑内と小石川の御薬草園で栽培されていたが、町医の手に安易に入るような存在ではなかった。
なにしろ御三家の水戸でさえ、光圀が特に乞うて将軍家より苗木を分譲して貰ったが、それでも遠慮して、「お花畑」と栽培地を称していた程である。
ここは元治元年の戦で焼払われてしまったが、今でも町名としては残っている。
 さて水戸光圀は、その長男松平頼常が高松十二万石をつぐ時に、内密に朱色高麗人蔘の根株を分け与えて持たせてやった。
 もちろん水戸宗家でさえも将軍家へ気兼ねして、お花畑の名称で栽培しているくらいゆえ、「御林(おはやし)」の名目で高松では植え付けをした。これが今は栗林公園の名称で残っている。
 さて、水戸藩祖頼房の曾孫にあたる奥州守山二万石松平頼貞の三男頼恭(よりたか)が、元文四年九月に高松第五代の城主とし養子に入ってきた。
「光圀公の御計いで密(ひそか)に分苗して貰った紅人蔘なるものが、栽培されているやにきくが、百聞は一見にしかず是非みたいものである」
 二十九歳の頼恭は御林の中へ検分に行ったところ、水利の便がよくないのか気候の関係のせいか、あまり芳しくなかったらしい。
「紅人蔘というは高麗にても珍しい品種ものといわれ、本邦にては一般には御止め薬にて将軍家のみ用いられ、その効き目で男女合せて五十名余の子宝さえ、上さまは千代田城でもうけていなさる。
何もそれにあやかりたくて申すのではないが、枯死させるような事があっては大変であるぞよ‥‥」頼恭は厳しく家臣共にいいつけた。この結果、御典医池田玄丈が、
「御林掛り」を兼務するよう命じられた。玄丈は四国では本草学の大家とされていた男だが、将軍家しか口にできぬような高貴薬の栽培改良には手をやいてしまった。
 すると、去度浦の海防用の番船などを蔵っておく倉番の者で、きわめて有能な若者がいることを耳にした。そこで玄丈が引見すると、一人扶持つまり一日米三合だけの給与しかない小者にしては、学もあり弁もたつ。
 そこで玄丈は、殿に願い出て、「四人扶持、お薬坊主」と破格な四倍の立身をさせてから、己れの助手にして御林の高麗人蔘の栽培に当てさせた。これが、「非常の人」とよばれた平賀源内である。
 さて、これは天下の秘薬であって煎じて服用すれば、あの方も将軍さまのように強くなるが、頭の方もよくなると聞かされて、「そうか、馬鹿につける薬はない、とよくいうが、馬鹿でないのが呑めばもっと賢う
なるのかも知れん」と源内は、己れが服用したいばっかりに、御林の中の小屋へ詰めきって、一心不乱に丹精こめ栽育をした。
 テレビの「天下御免」ではザラメ砂糖を作りあげ、その褒美で長崎へゆくようになっているが、高松で精糖が成功するのはまだこれから一世紀も後の話で、ザラメのごときは明治の産物である。
 では、何故に長崎へやって貰えたかといえば、高麗人蔘栽培成功のせいである。しかし、藩主頼恭の思惑は長崎でより良質の人蔘をというのであったろうが、それは無駄だったようである。
その代り、源内は本草学の田村藍水の門に学ぶことができた。
 当時は、支那本草学より脱却して、日本独特の本草学を開拓しようと、小野蘭山が、『本草網目啓蒙』四十八巻及び『本草記聞』十五巻を刊行していた頃である。
 高麗人蔘を栽培中密かに自分も服用し、もって頭脳明晰になったと自認する源内は、「百嘗社」とよぶ山野の草木から鉱石まで研究する、尾張御典医水谷社中の荒井佐十郎の力をかり、
彼なりに高麗紅人蔘の分析や、その実験に出精をしたものらしい。
 が封建時代にあっては、将軍家だけのものとされ御三家の水戸や親藩十二万石の高松でさえ、内密にしていた紅人蔘を、源内ごとき民間人が研究するのは違法だったらしい。
「門弟の一人と殺傷沙汰を起こした」といわれるが、判然としない理由で投獄され、安永八年十二月十八日牢内で一服もられ殺されてしまった。杉田玄白はその死を、
「ああ非常の人非常の事を好む行いこれ非常なり、何ぞ非常に死せるや」と悲しみ、彼の友荒井佐十郎は「人蔘のため延命する者はあるが彼のごとくその為に死すは珍事」といっている。

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