⇒前回の記事はこちら
楯築墳丘墓では少しテンションが下がってしまいましたが、すでに破壊されてしまったのはどうすることもできません。
気分を切り替えて、本日の史跡めぐりで一番楽しみにしている造山古墳を目指します。
造山古墳は、「つくりやま」と呼ばれるのですが、すぐ近くにある作山古墳も「つくりやま」なので、造山古墳は「ぞうさん」、作山古墳は「さくざん」と発音する習わしになっています。
造山古墳に向かう途中、遠景を撮影したいのでスポットを探していると、前の方に警察車両が何台か止まっており、警察官が交通誘導をしています。
ここでいいや。
おー、でかいねえ。
国内で4番目にでかい350mの超巨大古墳の雄姿!
ちょうど真横から見え、左側が前方部で右側が後円部です。
それではもっと近接してみましょう。
おや、道路にパトカーが停まっていますよ。
あー、なるほど事故か。
軽自動車が側溝に落ちて大破しています。
ただ単に落ちただけにしては壊れ方が異常です。
気の毒ですが、事故現場の横をすり抜けて古墳へ向かいます。
駐車場に到着。
さすが人気古墳だけあって駐車場も広いです。
お、資料も置いてある!
ジオラマもある!
図化するとこんな感じ。
前方部の周囲には陪塚のような古墳がいくつかありますね。
あれがその一基かな。
位置的には5号墳の千足古墳だな。
石碑とオブジェのようなものもあります。
この像、カッコいいなあ。
吉備の大王ですぞ!
地元の方々の「古墳愛」というか、かつての吉備王国への想いをとても感じることができます。
ここに来る前に、造山古墳の一部は土砂崩れの影響で登れなくなっていると聞いていましたが、その通りでした。
後円部には行けないのか・・・
残念だけど仕方がない。
ところで、さきほどの吉備の大王の説明に「いつでもだれでもただで登れる日本最大の巨大古墳」と書かれていましたが、実際にその通りで、それがこの古墳の魅力の一つにもなっています。
ちなみに、前方後円墳の場合は墳丘長が100mを越えると「大型古墳」と呼ばれ、200mを越えると「超大型古墳」と呼ばれます。
日本で一番大きい古墳は堺市の大山陵(いわゆる仁徳天皇陵)で、最近の調査で500m以上の大きさが確認されており、その次は羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)で425m、そして3番目は堺市の上石津ミサンザイ古墳で365mとなっています。
それらはすべて大阪府内にあり、4番目がこの造山古墳なわけで、畿内以外では最も大きな古墳です。
これくらいの規模になると「超々巨大古墳」というか、「意味が分からないほどでかい古墳」という位置づけになると思います。
そして、上記のコピーの通り、大山陵、誉田御廟山、上石津ミサンザイはすべて立ち入りができませんので、造山古墳が「登れる古墳」としては最大のものとなるのです。
それでは、その「国内最大の登れる古墳」に登ってみますよ。
墳丘裾の自動車の走行が困難な細い路地を歩き、前方部の登り口にやってきました。
造山古墳という名前の通り、昔の人は人間の力で山を造ったと考えたわけですが、造山古墳はもともとあった丘陵を加工して造られています。
地形図で確認すると南にある標高227mの江田山から北へ丘が伸びており、その先端部分を加工したことが分かります。
しかし、元々の地形を利用したとはいえ、よくもまあこんな巨大な古墳を造ったものです。
お、いい景色だ。
赤い鳥居が見えますね。
足守川を渡った向こうの北東約2.7㎞の地点に備中高松城があり、赤い鳥居はさらにその先、約2㎞にある最上稲荷の鳥居です。
高校生の頃、吉川英治の太閤記を読んでいて、高松城主の清水宗治の最期に感動したのを覚えています。
ですので、今日はできることなら宗治関係の史跡(城以外にも切腹した場所や首塚・胴塚などがある)をめぐってみたかったのですが、まったく時間が確保できませんでした。
仕方がない、今度来た時に行きます。
そして、ここ造山古墳は、その時高松城を囲んでいた秀吉勢に対して出張ってきた毛利勢4万が陣した場所なんですよね。
後円部には城郭遺構が残っているようです。
前方部の神社へ詣でます。
社殿。
こちらにも説明板がありました。
いやー、後円部の直径だけでも200mで、太田天神山古墳の全長と一緒ですね。
でか過ぎる・・・
後円部の方を見てみましょう。
樹木が植えられていてあんまり見えないですね。
石棺の蓋が置いてあります。
あ、そういえば、石棺を見てない。
これですね。
説明板には、この刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製ということで、先ほどの蓋には直弧文が刻まれていることから、九州との関連が考えられるとありましたね。
5世紀前半の時点での吉備と九州との関わりについてはすぐに思いつくようなものはありませんので、今後考察してみようと思います。
ここからも先ほど気になった古墳が見えます。
なにやら重機もいて、工事中のようですね。
では、境内を降りて後円部の方に行ってみましょうか。
立ち入り禁止になっているので、もちろんこれ以上は進みません。
東側の造り出し部分には住宅が建っていますね。
さて、一般的には造山古墳は日本で4番目に大きい古墳と言われています。
ただ、ここまで巨大だと造山古墳の大きさはほとんど上石津ミサンザイと変わらず、個人的には「3位タイ」で上石津ミサンザイ古墳と並ぶと考えています。
造山古墳の築造時期は5世紀前半で、ヤマトの王墓である上石津ミサンザイも同じ頃ということで、古墳の大きさが権力の大きさであると考えるのであれば、5世紀前半の時点でヤマトの王と吉備の王の力は伯仲していたことをこの古墳が物的証拠として証明しているのです。
ところが、5世紀後半にはヤマトでは「王の中の王」である雄略天皇が登場し、ヤマトの王が他の地域の王たちから抜きんでた存在となり、相対的に吉備の王の力は弱くなります。
※上石津ミサンザイ古墳は堀の水位が往時よりも高くなっており、実際の墳丘の規模は400mを越えるのではないかという説もあります(『古墳からみた倭国の形成と展開』白石太一郎著)。
いやー、念願の造山古墳に登ることができて本当に嬉しい。
先日、奈良に行ったときに見瀬丸山古墳に登りましたが、見瀬丸山は全長310mの前方後円墳で、奈良県で最も大きく、全国でも6位の古墳であり、その時点では自分が登った最大の古墳でした。
それを本日更新しました。
造山古墳に登ったら並び称される作山古墳にも登りたいですよね。
行ってみましょう。
⇒この続きはこちら
楯築墳丘墓では少しテンションが下がってしまいましたが、すでに破壊されてしまったのはどうすることもできません。
気分を切り替えて、本日の史跡めぐりで一番楽しみにしている造山古墳を目指します。
造山古墳は、「つくりやま」と呼ばれるのですが、すぐ近くにある作山古墳も「つくりやま」なので、造山古墳は「ぞうさん」、作山古墳は「さくざん」と発音する習わしになっています。
造山古墳に向かう途中、遠景を撮影したいのでスポットを探していると、前の方に警察車両が何台か止まっており、警察官が交通誘導をしています。
ここでいいや。
おー、でかいねえ。
国内で4番目にでかい350mの超巨大古墳の雄姿!
ちょうど真横から見え、左側が前方部で右側が後円部です。
それではもっと近接してみましょう。
おや、道路にパトカーが停まっていますよ。
あー、なるほど事故か。
軽自動車が側溝に落ちて大破しています。
ただ単に落ちただけにしては壊れ方が異常です。
気の毒ですが、事故現場の横をすり抜けて古墳へ向かいます。
駐車場に到着。
さすが人気古墳だけあって駐車場も広いです。
お、資料も置いてある!
ジオラマもある!
図化するとこんな感じ。
前方部の周囲には陪塚のような古墳がいくつかありますね。
あれがその一基かな。
位置的には5号墳の千足古墳だな。
石碑とオブジェのようなものもあります。
この像、カッコいいなあ。
吉備の大王ですぞ!
地元の方々の「古墳愛」というか、かつての吉備王国への想いをとても感じることができます。
ここに来る前に、造山古墳の一部は土砂崩れの影響で登れなくなっていると聞いていましたが、その通りでした。
後円部には行けないのか・・・
残念だけど仕方がない。
ところで、さきほどの吉備の大王の説明に「いつでもだれでもただで登れる日本最大の巨大古墳」と書かれていましたが、実際にその通りで、それがこの古墳の魅力の一つにもなっています。
ちなみに、前方後円墳の場合は墳丘長が100mを越えると「大型古墳」と呼ばれ、200mを越えると「超大型古墳」と呼ばれます。
日本で一番大きい古墳は堺市の大山陵(いわゆる仁徳天皇陵)で、最近の調査で500m以上の大きさが確認されており、その次は羽曳野市の誉田御廟山古墳(こんだごびょうやまこふん)で425m、そして3番目は堺市の上石津ミサンザイ古墳で365mとなっています。
それらはすべて大阪府内にあり、4番目がこの造山古墳なわけで、畿内以外では最も大きな古墳です。
これくらいの規模になると「超々巨大古墳」というか、「意味が分からないほどでかい古墳」という位置づけになると思います。
そして、上記のコピーの通り、大山陵、誉田御廟山、上石津ミサンザイはすべて立ち入りができませんので、造山古墳が「登れる古墳」としては最大のものとなるのです。
それでは、その「国内最大の登れる古墳」に登ってみますよ。
墳丘裾の自動車の走行が困難な細い路地を歩き、前方部の登り口にやってきました。
造山古墳という名前の通り、昔の人は人間の力で山を造ったと考えたわけですが、造山古墳はもともとあった丘陵を加工して造られています。
地形図で確認すると南にある標高227mの江田山から北へ丘が伸びており、その先端部分を加工したことが分かります。
しかし、元々の地形を利用したとはいえ、よくもまあこんな巨大な古墳を造ったものです。
お、いい景色だ。
赤い鳥居が見えますね。
足守川を渡った向こうの北東約2.7㎞の地点に備中高松城があり、赤い鳥居はさらにその先、約2㎞にある最上稲荷の鳥居です。
高校生の頃、吉川英治の太閤記を読んでいて、高松城主の清水宗治の最期に感動したのを覚えています。
ですので、今日はできることなら宗治関係の史跡(城以外にも切腹した場所や首塚・胴塚などがある)をめぐってみたかったのですが、まったく時間が確保できませんでした。
仕方がない、今度来た時に行きます。
そして、ここ造山古墳は、その時高松城を囲んでいた秀吉勢に対して出張ってきた毛利勢4万が陣した場所なんですよね。
後円部には城郭遺構が残っているようです。
前方部の神社へ詣でます。
社殿。
こちらにも説明板がありました。
いやー、後円部の直径だけでも200mで、太田天神山古墳の全長と一緒ですね。
でか過ぎる・・・
後円部の方を見てみましょう。
樹木が植えられていてあんまり見えないですね。
石棺の蓋が置いてあります。
あ、そういえば、石棺を見てない。
これですね。
説明板には、この刳り抜き式の舟形石棺は阿蘇溶結凝灰岩製ということで、先ほどの蓋には直弧文が刻まれていることから、九州との関連が考えられるとありましたね。
5世紀前半の時点での吉備と九州との関わりについてはすぐに思いつくようなものはありませんので、今後考察してみようと思います。
ここからも先ほど気になった古墳が見えます。
なにやら重機もいて、工事中のようですね。
では、境内を降りて後円部の方に行ってみましょうか。
立ち入り禁止になっているので、もちろんこれ以上は進みません。
東側の造り出し部分には住宅が建っていますね。
さて、一般的には造山古墳は日本で4番目に大きい古墳と言われています。
ただ、ここまで巨大だと造山古墳の大きさはほとんど上石津ミサンザイと変わらず、個人的には「3位タイ」で上石津ミサンザイ古墳と並ぶと考えています。
造山古墳の築造時期は5世紀前半で、ヤマトの王墓である上石津ミサンザイも同じ頃ということで、古墳の大きさが権力の大きさであると考えるのであれば、5世紀前半の時点でヤマトの王と吉備の王の力は伯仲していたことをこの古墳が物的証拠として証明しているのです。
ところが、5世紀後半にはヤマトでは「王の中の王」である雄略天皇が登場し、ヤマトの王が他の地域の王たちから抜きんでた存在となり、相対的に吉備の王の力は弱くなります。
※上石津ミサンザイ古墳は堀の水位が往時よりも高くなっており、実際の墳丘の規模は400mを越えるのではないかという説もあります(『古墳からみた倭国の形成と展開』白石太一郎著)。
いやー、念願の造山古墳に登ることができて本当に嬉しい。
先日、奈良に行ったときに見瀬丸山古墳に登りましたが、見瀬丸山は全長310mの前方後円墳で、奈良県で最も大きく、全国でも6位の古墳であり、その時点では自分が登った最大の古墳でした。
それを本日更新しました。
造山古墳に登ったら並び称される作山古墳にも登りたいですよね。
行ってみましょう。
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