*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県磯城郡田原本町大字阪手233-1
2.諸元
入館料
200円
3.探訪レポート
2016年10月15日(土)
44歳にして生まれて初めて奈良
2016年9月25日、念願叶ってマツダのデミオを入手し、「雷電號」と名付けました。
私は戦闘機の中でも第二次世界大戦の末期に活躍した日本海軍の局地戦闘機「雷電」が特に好きなのですが、雷電は三菱製ですので、若干それに遠慮して「號」を加えて愛機にネーミングしたのです。
その雷電號を発注したときに、せっかく卓越した機動力を手に入れるのだから遠くの史跡めぐりをしたいと思いつきました。
そんななか、奈良の古代史の本を読んでいたところ、奈良県に行きたくなり、さっそくすぐに宿を予約したのです。
私は古代史の勉強は8年前の2008年から本格的に始め、今では講座で東北や関東の古代史を語ったりもしていますが、白状しますと奈良には行ったことがありません。
なので、常に後ろめたい気持ちを抱いて日陰の生活を歩んできたのですが、ここでその気持ちを払拭して明るく朗らかな人物になるべく、奈良行きを決めました。
奈良というと修学旅行で行く機会があるのではないかとお思いでしょうが、確かに私の中学生の時の修学旅行がズバリ、奈良・京都でした。
ところが私は、そのとき奈良には行っていないのです。
というのも、私は今も昔も団体行動が大嫌いで(と言いつつ、今では団体を率いて歴史ツアーのガイドをやっているところがおかしいですが)、修学旅行の出発当日、登校拒否をしたのです。
そうしたら、担任の遠山先生や普段喋ったこともない女子から電話があって、「すぐに来て」と言われたのですが、それでも私は登校せずに家でダラダラしていました。
ところがです。
私が修学旅行に行っていないことを母が仕事場にいる父に通報したのかどうかは分かりませんが、昼くらいに東京の店から父が帰ってきて、「今から行け!」と怒鳴られました。
父はとても怖かったので、私はすぐに母の引率で新幹線に乗り琵琶湖畔のホテルへと向かいました。
ホテルに到着すると、ちょうど一日目の奈良見物から帰ってきた400名以上の同級生がホテルのロビーに整列していたところで、そこに私は母とともに乗り込んで行ったのですから非常に恥ずかしい。
しかしそれでも、「あー、稲用が来たー!」とクラスメイトから予想外の歓迎を受け、それでご機嫌を直した私はその日の夜からみんなに合流したというわけです。
このように私は非常に面倒くさい中学生だったわけで、しこうして、44歳にして初めて奈良へ行くことになりました。
初の長距離ドライヴに挑戦!
さて、出発当日になったものの、ここ2ヶ月くらい猛烈なスケジュールをこなしていたためまったく準備ができず、下調べなしでの出発です。
しかも5時に出発しようとしていたのに珍しく30分寝坊して出発が遅れてしまい、なおかつ雷電號のエンジンを掛けたらカーナヴィが作動しない!
えー、昨日乗った時は異常が無かったのに・・・
いいや、カーナヴィ無しで行ってしまえ!!
というわけで出発してすぐ、ファミマで食料を補給したついでにナヴィが起動しない原因をWebで調べてみると、SDカードがちゃんと刺さっていないことが原因かもしれないと分かり、見てみると少し抜けていました。
昨日の夜、暗い車中でゴソゴソやっていたときに抜けてしまったようです。
ちゃんと差し込んでみるとカーナヴィは無事に作動。
あー、良かった。
我が家の近所の高尾山ICから圏央道へ入り、まずは厚木PAに立ち寄って奈良までの道程を確認します。
厚木PAを出てすぐ、海老名JCTから東名高速に入り、ついで御殿場JCTからは路面の状態が非常に良いと評判の新東名に進入、7時25分、清水PAで休憩です。
まだ朝早いせいかお客さんはまばらですが、近代的な店内には食べ物屋さんも豊富にあります。
写真には収めていませんが、ここのトイレ、カッコいいですね!
職業柄、トイレは気になるのです。
しかし今日は晴れて良かった!
新東名に入って少し走るとナヴィがちゃんと表示されなくなりました。
この区間は新しいせいか、まだナヴィが対応していないようです。
しばらく走ると、長篠設楽原PAの看板が見え、「おっ!」と思うものの一瞬判断が遅れて入ることができませんでした。
※長篠設楽原PAには、念願かなって2019年8月1日に探訪しました(⇒その時の探訪の様子はこちら)。
9時5分、岡崎SAへ。
「運行の規定上、1時間半に一度の休憩が義務付けられています」と独り言を言いながらSA内をウロウロすると美味しそうな食べ物が売られています。
なんか、五平餅食べたい。
おそらく生まれて初めて食べたと思いますが、甘い味噌味で美味しい!
岡崎SAを出発し、つづいて東豊田JCTから伊勢湾岸自動車道に入り、良く分からないまま亀山JCTから名阪国道に入ります。
私は高速道路の運転はまだ慣れておらず、とくにJCTの通過は講演で多くの人たちの前で喋るよりも遥かに緊張するので、ナヴィの画面と音声によくよく注意しながらなんとか名阪国道に入ることができました。
あれ、ここは高速道路じゃないでしょ?
自動車専用道路なのは分かりますが、制限速度が70km/hとか60km/hなのにもかかわらず、周りは凄いスピードで走っています。
周りに合わせて100km/hを出したのに、後ろの車に煽られる始末。
いったいここはアウトバーンですか!
大型トラックが容赦なくビュンビュン飛ばす様は凄まじく、さすが全国で最も事故の多い道路だなあと感心、いや恐怖します。
捕まりたくないから走行車線で速度を守って走ろう。
そして生まれて初めて伊賀国へ入り、10時55分、「道の駅 いが」で休憩。
さすが伊賀国、売店のアイテムは忍者を前面に出しています。
伊賀を出発し、奈良県に初めて突入!
しかし急激に眠くなってきた。
冷たいジュースでも買おうと思い、11時45分、高峰SAに寄って休憩。
お、なかなかいい景色ですね。
※あとで調べたら、この景色はこれから訪れる天理・橿原方面ということでした。
眠気が回復したので再び走り出し、天理東ICで降ります。
ここまで我が家からだいたい440kmくらい。
走ったねー。
でも、6時間で奈良まで来れるんですから江戸時代と比較するに、随分と便利な世の中になったものですね。
天理東ICを降りて普通の道を走り出すと中国の宮殿のようなカッコいい建物が沢山建っています。
もしかして天理教かな?と思いつつ、ようやく最初に見つけたヘブンに駐車。
セブンイレブン天理成願寺町店です。
成願寺町と言われても土地勘がまったくないので、今自分がどこにいるのかサッパリ分かりません。
カーナヴィでももちろん現在地は確認できますが、元来「紙派」の私はヘブンで道路地図を買っちゃいました。
なるほど、やはりさきほどの荘厳な建物群は天理教の施設だったんだね。
人によっては近代の宗教団体に対して嫌悪感をいだく人がいますが、私はまったくそういった思いが無く、むしろさきほどの風景を見て、天理教がここまで教線を拡大できたその理由を探りたくなりました。
どうやって人の心を掴んだのか・・・
サービス業をしている人だったら、そういった目線で見ることが必要だと思います。
で、今日はどこを見ようかな?
先ほども話した通り、今回の旅はまったくの無計画で来てしまったため、今から行く場所を決めるとしましょう。
よし、最初は「唐古・鍵考古学ミュージアム」へ行こう!
こういうときはカーナヴィがあると便利ですね。
というか、無いと相当大変になると予想されるので、昔の人はよくそれでドライヴができたものと感心します。
初の奈良探訪は「唐古・鍵考古学ミュージアム」から
ナヴィに脳内を支配されて無事に「唐古・鍵考古学ミュージアム」へやってきました。
時刻はもう12時半を回っています。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、田原本町の青垣生涯学習センターの中にあるんですね。
初めて見る奈良の風景。
青垣生涯学習センターの中には図書館などもあり、なかなか立派な施設で子供たちを含めて結構賑やかです。
唐古・鍵考古学ミュージアムは入館料が200円なんですが、受付の方に「JAFカードはお持ちですか?」と尋ねられました。
私は先日雷電號を購入した時、JAFにも入会しており、ちょうど数日前にJAFから会員カードが送られてきて、偶然昨日の夜に準備しているときにカードを財布に入れておいたのです。
それにより50円引きの150円で入館できました!
ラッキー。
ついで、ガイドの方が説明をしていただけるということでそれをお願いします。
まずは、このミュージアムの名前にもなっている唐古・鍵遺跡の全体図をご覧ください。
このページは唐古・鍵ミュージアムのルポなので遺跡についての詳しい説明はしませんが、簡単に言いますと、唐古・鍵遺跡は江戸時代に作られた唐古池と鍵池の周辺にある弥生時代の環濠集落跡です。
⇒唐古・鍵遺跡の探訪レポートはこちら
奈良県内には600以上の弥生遺跡があり、その中で拠点的な集落遺跡はおおよそ10遺跡あり、その中でも唐古・鍵遺跡はもっとも大きな遺跡で、古墳時代に入ると突如として纒向遺跡という都市のような遺跡が現れ、盆地内の中心はそちらに移るのですが、唐古・鍵遺跡も古墳時代中期までムラが営まれます。
このミュージアムは3つの部屋からなっています。
うち2つが「唐古・鍵の弥生世界」といって、唐古・鍵遺跡自体が弥生時代がメインの遺跡ですので、遺跡出土の弥生遺物の展示をしており、もう1つのコーナーが田原本町全体の考古遺物を展示してあります。
では、とくに面白い遺物を紹介しますよ!
まずは人形土製品の三人衆。
私は勝手にこの方たちを「KK NETWORK」という3人組のテクノユニットということにしました。
左からベースの三郎右衛門、ヴォーカルのスティーヴ、キーボードのフリードリッヒです。
彼らは非常にスター性があるので奈良ローカルではなく全国区での活躍を期待します。
さて、東国にある博物館では弥生時代の遺物はとても貧相で、水田の遺跡も少ないですし、農耕の道具もあまり見ることができません。
こういった「鋤(すき)」を見てもとても珍しいのですが、デザインは現在と変わりませんね。
左の鋤なんて一本の木から作った贅沢品ですよ。
でもこれらは農業用の道具ではなく、環濠を掘るのに使ったそうです。
これで土を掘るのって相当大変そう。
ちなみに木製品はこのように非常に考えられて造られているんですね。
適当に木を切って造ったんじゃないんですよ。
木でできた遺物の中でガイドの方も絶賛していたのがこの臼です。
素晴らしいデザイン。
現代の私たちが見ても見とれてしまう優品ですね。
臼とともに杵も出ているのですが、これは餅つきをしたのではなく、稲の脱穀をしたのです。
しかも脱穀作業は女性の担当だったのです。
弥生時代の女性は力持ちだったんですねえ。
こちらの木製の蓋には面白いものが付いていますよ。
中央のマーク、家紋のルーツに思えませんか?
木製品といえば、この「まつりの道具」と題された「腰掛」が面白いです。
確かに椅子のように見えますが、これが本当に腰掛けだったかは分からないのです。
考古遺物の中には用途不明なものが非常に多く、偉い学者さんが直感で付けたようなネーミングが独り歩きしてイメージを作ってしまうことがあるので注意ですね。
そしてこの翡翠(ヒスイ)の勾玉は見た瞬間思わず「綺麗!」と言葉が出てしまいました。
とくに左側の緑色の勾玉の美しさは卓越していますので、これはぜひ実物を見ていただきたいです。
右側の勾玉はかなりの大きさですよ。
唐古・鍵の地下は水が豊富だったようで、このように底に穴をあけた甕を埋めておくと水を集めることができたんですね。
これを思いついた人もすごいですね。
そして骨製の縫い針。
ちゃんと糸を通す穴があいているのですが、この極少の穴を弥生人がどうやって開けたのかは解明されていません。
また唐古・鍵遺跡の珍しい点は、銅鐸を製造した跡が見つかっていることです。
銅鐸の鋳型の内側部分は残念ながらまだ見つかっていないのですが、ここで銅鐸が製造されていたことは明らかなのです。
おっと、シャーマン登場!
左側が鳥装した女性のシャーマンで右側が戦士です。
でも戦士と言っても、実際の戦いの時の恰好ではなく、祭りのときの恰好だということです。
彼らの着ている服に赤や黒が彩色されていますが、すでに縄文時代から赤や黒の漆が製造できたので、赤や黒は人びとにとって一般的だったと思います。
『唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション Volume1』によると、戦士の模型は2004年に清水風遺跡で出土した「”盾と戈をもつ人物”絵画土器」をモデルにして製作しました。
着ているものや持ち物、髪型、肌の色などの考証には、他に出土している考古遺物などをフルに参考にしつつここまで復元したということです。
それ以外の色を探してみると、紫色もありました。
さきほどの緑色のヒスイなど、自然の鉱物や植物には多くの色がありますが、当時の人たちが人工的に作ることのできる色はまだあまり多くなかったようです。
唐古・鍵遺跡の集落のジオラマ。
こういうジオラマは大好きです。
独創的なデザインの建物が2棟建っていますが、何でこんな感じだったのかが分かるのかというと、唐古・鍵遺跡の特徴の一つとして、絵画土器と言われるものが多く出土しており、土器に描かれたイラストによって当時の建物や人物の様子が分かるのです。
私はとくにこの絵画土器が展示されている一画が好きだなあ。
唐古・鍵遺跡には東西の列島各地から土器が搬入されており、この地図でそれが一目瞭然となっています。
埴輪にも良いものがあるのですが、とくにこの牛形埴輪は超珍しい!
重要文化財ですよ!
『唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション Volume2』によると、この牛形埴輪は明治30年(1897)に羽子田(はごた)遺跡で出土したもので、牛形埴輪自体、全国で9例ほどしか見つかっていません。
牛自体が日本列島にやってきたのは馬と同時期の5世紀以降と考えられており、牛形埴輪の大半は6世紀前半に造られました。
また、7世紀には牛を農耕に使役した形跡があり、飛鳥時代には現代のヨーグルトやチーズに当たる乳製品が食べられていたようですが、家畜・酪農・食肉についての研究は少なく謎が多いそうです。
そして東国ではあまり見ない蓋(きぬがさ)形埴輪。
盾持人埴輪は頭部と体部分が別パーツになっているのですが、頭部のみが展示されています。
頬の模様は入墨を表現しているのでしょう。
以上、数多くの展示のなかから個人的に興味を引いた物のみ厳選して紹介しました。
ガイドの方がとても知識が豊富で、私もかなり質問してしまう方なので気が付けば2時間も滞在していました!
どこの博物館でもそうなんですが、もし展示ガイドの方がいらっしゃって、かつ時間があるときはぜひガイドしていただくことをお薦めします。
そして戦利品!
古い図録はセールをしておりかなりお買い得だったためつい「爆買」してしまいました。
あ、こっちが正規のエントランスだったのね。
いやー、奈良に来た一発目から楽しかった!
幸先良いですぞ。
次は桜井市立埋蔵文化財センターへ行ってみます。
⇒この続きはこちら
2018年9月22日(土)
クラブツーリズムにて案内してきました。
前々回と前回の奈良ツアーでは、唐古・鍵遺跡考古ミュージアムが休館中だったため、その代わりに天理市の西山古墳を組み込んでいました。
今回からは当初の行程に戻って唐古・鍵遺跡考古学ミュージアムの見学となりましたよ。
2019年3月9日(土)
クラブツーリズムにて案内してきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムには詳しいガイドの方がいらっしゃるので、今回も館内の解説はガイドの方にお任せです。
ガイドの解説を聴きつつ、私は今まで観察できなかった遺物の観察をします。
唐古・鍵遺跡では外来土器という、各地から持ち込まれた土器が見つかるのですが、こちらの上が北部九州の甕で、下が朝鮮半島の無文土器です。
九州の物も朝鮮の物も数は少ないはずですが、弥生時代には各地の人びととの交流があったことの証となります。
こちらは近江の甕。
そして、伊勢湾岸地方の壺。
さらに東の天竜川沿岸の壺も出ています。
濃尾のパレス式土器に似た感じで美しい。
こちらは馬型埴輪と馬曳人埴輪で、2セットとも町内の笹鋒山2号墳から出たものです。
笹鋒山1号墳は墳丘長50mの前方後円墳ですが、これらの優品が出土した2号墳は直径22mの円墳であり、現代の私たちが見ていいなあ感動するものと古墳の大きさは必ずしも比例しません。
畿内の馬形埴輪は脚の付け根部分に4か所孔が空いていますが、関東の馬形埴輪には原則的にありませんので、そこが見分けるポイントになります。
上の展示には写真パネルも置かれていますが、鎌の写真でしょう。
馬曳は秣を刈るために鎌を携帯しているのです。
馬曳は、単体で出ると「踊る埴輪」なんて言われたりします。
確かに、馬がいないと踊っているように見えますね。
ところで、私が非常に気になるのは、馬曳人埴輪の顔です。
人物埴輪というのは基本的に端正な顔立ちをしており、それが支配者階級の顔立ち(つまり渡来系が多い)だということが想像できるのですが、馬曳人の場合は大抵醜い顔をしていたり、刺青を施されたりしているのです。
ですから、古墳時代において馬を曳く人というのは何か特殊な身分の人たちだったのではないかと思うのです。
馬の飼育や繁殖などの技術もそもそもは渡来系の人たちが持っていた技術のはずですが、そういった技術を継承した特殊な身分の人びとが列島内にいたのではないでしょうか。
皆さんも今後、博物館などで馬曳人埴輪を見かけた時は顔をよく見てみてください。
2019年5月18日(土)
クラブツーリズムにて案内してきました。
探訪記事は割愛させていただきます。
2019年9月14日(土)
クラブツーリズムにて案内してきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムには詳しいガイドの方がいらっしゃるので、今回も館内の解説はガイドの方にお任せして、その隙に私は遺物の観察をしていました。
唐古・鍵遺跡からも吉備の特殊器台が出ているのです。
唐古・鍵遺跡で見つかった2棟の大型建物のうち、第74次で見つかった方の柱。
この遺物の位置はこちらです。
第74次大型建物には棟持柱がありますので、唐古・鍵遺跡のページでも述べている通り、広瀬和雄先生は神殿であったとしています。
木棺墓があり、遺骨が残存していました。
復顔すると、渡来系の特徴があるそうです。
北部九州なら渡来系と言っても抵抗がないものの、畿内で渡来系はどうだろうと思う方もいるかもしれませんが、大和の地も半島とアクセスをする上ではさほど不利な立地ではないことに注意してください。
日本海方面から琵琶湖へ入り、淀川水系で大阪湾近くまで行けば、往時の大和川に入れますから、そこから遡れば、行程のほとんどを水路で大和まで来ることができます。
大和で灌漑水田を始めた時は、渡来系の人びとがそのためのハード・ソフトの両方を一つのパッケージとして持ってきたことが十分考えられます。
渡来系の人たちはその後、地域の支配者層になった可能性が高いですから、3世紀にヤマト王権がこの地で発足した際、その組織に渡来系の人たちが大勢参画していてもおかしくありません。
当時の梯子はこういう感じでした。
褐鉄鉱容器とその中に入っていたヒスイです。
宝石箱と呼ばれている遺物ですね。
鶏と思われる埴輪の頭部。
形象埴輪の中でも鶏は最初に登場しており、古代人は時を告げる鳥である鶏に神聖さを感じていたといわれています。
弥生時代のスプーンです。
青垣生涯学習センターがある場所自体が遺跡だそうですよ。
しかし、何度来てもここは飽きない!
2019年11月30日(土)
クラブツーリズムにて案内してきました。
唐古・鍵考古学ミュージアムは、唐古・鍵遺跡をメインで紹介していますが、町内の各遺跡について説明しているコーナーもあります。
唐古・鍵遺跡のすぐ北側には清水風遺跡という大きな遺跡があります。
パネルに書いてある通り、そこから本州島では非常に珍しい前漢鏡が出土しているのです。
なぜ、前漢鏡があるのか、考えると面白いですね。
例えば、唐古・鍵遺跡周辺の人びとが、九州の勢力からプレゼントされたとか、いや、九州の勢力を介さずに独自に前漢と外交をしていたんだとか、いろいろ考えられて楽しいです。
また、唐古・鍵遺跡には相当数の人口がいたと思われ、想定される人口からすると彼らの墓域は少し離れた場所で見つかっている遺跡まで含めないと数が合わないと考えられています。
では、いつものごとく、この後は唐古・鍵遺跡へ向かいますよ。
4.補足
5.参考資料
・現地説明板
・『唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション Volume1』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2008年
・『唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション Volume2』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2009年
・『唐古・鍵考古学ミュージアム ミュージアムコレクション Volume3』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2010年
・『田原本の遺跡6 弥生の王都 唐古・鍵』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2013年
・『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2013年