
2025年2月7日



朱色の橋と天守がとても映えます!

橋の下を流れるのは五条川。

城造り、城下町に水は欠かせません。

こちらは清洲城の模擬天守。

清洲城は残念ながら遺構がほぼ残っていません。

石垣が発見されたのは、線路の高架を抜けた公園のあたりです。


清洲古城跡はちょっとした広場になっています。

広場の中央には織田信長を祀った小社があります。


線路を抜けて右手は公園になっていて、この辺りが本丸の南側となります。

今日は設計打ち合わせがあった為、岐阜県へ!
打ち合わせが13時からだったので、朝6時半に家を出て岐阜駅に向かう東海道本線を途中下車。
清洲城を訪城しました。
個人的に清洲城のイメージと言えば、織田信長の居城だった。そして、織田信長が本能寺の変で討たれた後、家老が集まって織田家の後継ぎ問題と領地配分を決めた清洲会議かな。
あとは東海道新幹線からも見える天守としても有名ですね。
清洲駅で下車し、歩いて約15分ほど。

看板通りに歩くと清洲公園の駐車場が現れ、そこから天守方面に向かいます。

やはり清洲城と言えば、この撮影スポット。

朱色の橋と天守がとても映えます!

橋の下を流れるのは五条川。
清洲城は五条川が天然の堀となっていました。

城造り、城下町に水は欠かせません。
川は城の守りの要にもなりますし、物資運搬にも使えるので、この辺りは城を造るには適していたのかもしれないですね。

城郭をを囲む塀には信長塀の説明がありました。

城郭をを囲む塀には信長塀の説明がありました。
信長が桶狭間に出陣の途中、熱田神宮に戦勝を祈願して勝利したので、そのお礼に奉納したと言われる塀をモデルに造られています。

こちらは清洲城の模擬天守。
織田信長の時代には天守はありませんでした。
清洲会議で織田信雄が清洲城を相続して、天守が建てられました。
ちなみに、当時の天守はこの場所ではなく先ほど歩いてきた川の反対側にありました。

清洲城は残念ながら遺構がほぼ残っていません。
しかし、当時の石垣が調査で見つかっており、川沿いに復元展示されています。
橋の手前にあり、ついつい天守に気を取られてしまい、行く時は完全に見逃しておりました。

本丸南側の石垣と考えられており、河川事業に伴う遺跡調査で発見されました。

本丸南側の石垣と考えられており、河川事業に伴う遺跡調査で発見されました。
かなり無骨な野面済み。
石材一つ一つは大きめで丸み帯びています。
川の軟弱地盤に対応するために、梯子胴木という木材の組み方で、石材の下に木を敷いています。
電車のレールみないな感じ。

石垣が発見されたのは、線路の高架を抜けた公園のあたりです。

復元石垣のあたりは本丸だった場所になり、清洲古城跡の石碑があります。

清洲古城跡はちょっとした広場になっています。

広場の中央には織田信長を祀った小社があります。

その脇にある織田信長の石碑。
右大臣織田信長公古城跡と書かれています。

線路を抜けて右手は公園になっていて、この辺りが本丸の南側となります。
つまり本来の清洲城の本丸は、現在は線路によって完全に分断されていることになります。

公園内にはたくさんの石碑が置かれています。

そして、織田信長と正室の帰蝶の銅像もあります。

公園内にはたくさんの石碑が置かれています。

そして、織田信長と正室の帰蝶の銅像もあります。
ここから天下への道のりが始まりました。


本来の本丸南側あたりからのショット。
模擬天守には賛否がありますが、この建築物があることで人が集まるのは確か。
そして、足を運んで学ぶことが歴史もあるので、歴史に触れるキッカケとして個人的には模擬天守は有りなのかなと思っています。
建築物自体の価値は無くても、やはり天守はカッコいいですしね。

帰りは来た道を戻って清洲駅に向かいます。
駐車場あたりから撮った写真。
奥には模擬天守、手前の木々が生い茂った場所が清洲古城跡で織田信長の石碑があった場所。
家に帰って写真を見ていたら、空から古城に向けて光の柱が!
縁起のいい一枚になりました。
清洲城は徳川家康が関ヶ原の合戦後に、名古屋城を築城したことで、城下町ごと名古屋に遷都しました。
これを清洲移しと呼ばれています。
尾張の中心は清洲から名古屋へと移動したことで清洲城は廃城。
遺構はほぼ残って無いに等しい城ですが、確実に織田信長の息吹を感じることができました。
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