ケニアのカクマ難民キャンプⅡ第2地区で、夜明け前、一人の男性が殺害された。
2009年5月28日、後にエリトリア難民のエルガレム・テメレーズと確認された一人の難民男性が、エチオピア人と名乗るブルチャ・バダーサによって殺害された。ブルチャ・バダーサは、UNHCRに登録されていない。この日は、エチオピア歴の5月20日にあたり、エチオピア人民革命民主戦線の結成18回年の記念日であった。
この事件は複雑な事態を示している。思っていた以上に多くの政治的侵入者がカクマキャンプに入り、難民社会の中に住み、放置されているように見えるからだ。
エルガレムの死は驚きであり、人々を怯えさせた。二人は友人として二年もいっしょに暮らしていた。エチオピアの町シャシャマニからそろってやってきたのだ。カクマⅡ第2地区の他のキャンプの難民と同様、一時的なシェルターに一緒に住んでいたという。KANEREのジャーナリストが2009年5月29日、カクマ警察署でブルチャ・バダーサにインタビューした中で、本人がそう答えている。
どうしてこのような罪を犯したのかというKANEREの質問には、明白な答えが出せなかった。
コミュニティーからの情報によると、ブルチャはエレガレムが寝ている間に、石のような重い物で頭を打ち、殺したようだと言う。カクマの病院の医師も翌日、同じことを言っている。「私は今までこんなひどい傷は見たことがない。被害者の頭に大きな亀裂が入り、内出血のあとがすさまじい。およそ10キロ位の重い石で打たれたのだと思う」
ブルチャは「私が彼を殺した。やってしまった。もう逃げられないと思い、ケニア警察に自首した。この事件に対してケニア政府がどんな判決を下そうと私はかまわない」と言っている。エルガレムと政治的立場が異なり、エルガレムがエチオピアに逃げ帰るよう強要したので殺したのだという。
KANEREとのインタビューの中では、ブルチャは2005年にキャンプに到着したと言っているが、エリトリアのコミュニティーのリーダーによると、ブルチャは2007年に到着、UNHCRに登録されなかったそうだ。リーダーによると、ブルチャは登録されていないので、これはUNHCRではなく、ケニア政府が関与すべき問題だという。しかし、ブルチャがどうやってキャンプに入って来たのかという点で、UNHCRの責任が問われる。難民たちの間でも、なぜ彼に避難所や食料が与えられたのか、彼が自殺を図った時、なぜカクマの難民病院で治療を受けられたのか、と疑問の声があがっている。
さまざまな噂や憶測が、カクマⅠのエリトリアやエチオピアのコミュニティーに流れた。たとえば、ブルチャは殺人のエキスパートで、ウガンダ、スーダン、ケニアなどの隣接する村で何人かの難民を殺そうとしていたというような噂だ。匿名希望の難民は「理由はわからないがウガンダから逃げだした後、ケニアのナイロビに来た。ここでは、2007年、アブリーというエチオピアの難民を殺した罪で、6か月間刑務所に入れられていた」と言っている。
また、ブルチャはカクマ難民キャンプに来る前に、ジェターナというエリトリア人のリーダーの頭を殴っている。幸いにもジェナータは一命をとりとめ、ブルチャはしばらくの間、うまく身を隠していた。噂によれば、被害者は2002年か2003年にカナダに移住したという。
近所の人達の証言によれば、ブルチャは何日間にも渡って鉈を研ぎ、エリトリア人を殺すぞと脅していた。カクマ2第2地区の匿名希望の難民は次のように語っている。「私自身はエルガレムの死に責任を感じている。彼は私にも警察署にも、ブルチャの行動を報告していた。その結果、エルガレム(訳者注:ブルチャ?)はカクマⅢで警察官に逮捕され、3日間監房に入れられた」
この殺人者は2006年に自殺を図った。自分で腹部を七回打ち、カクマ難民キャンプ病院に入院した。
2009年5月28日、後にエリトリア難民のエルガレム・テメレーズと確認された一人の難民男性が、エチオピア人と名乗るブルチャ・バダーサによって殺害された。ブルチャ・バダーサは、UNHCRに登録されていない。この日は、エチオピア歴の5月20日にあたり、エチオピア人民革命民主戦線の結成18回年の記念日であった。
この事件は複雑な事態を示している。思っていた以上に多くの政治的侵入者がカクマキャンプに入り、難民社会の中に住み、放置されているように見えるからだ。
エルガレムの死は驚きであり、人々を怯えさせた。二人は友人として二年もいっしょに暮らしていた。エチオピアの町シャシャマニからそろってやってきたのだ。カクマⅡ第2地区の他のキャンプの難民と同様、一時的なシェルターに一緒に住んでいたという。KANEREのジャーナリストが2009年5月29日、カクマ警察署でブルチャ・バダーサにインタビューした中で、本人がそう答えている。
どうしてこのような罪を犯したのかというKANEREの質問には、明白な答えが出せなかった。
コミュニティーからの情報によると、ブルチャはエレガレムが寝ている間に、石のような重い物で頭を打ち、殺したようだと言う。カクマの病院の医師も翌日、同じことを言っている。「私は今までこんなひどい傷は見たことがない。被害者の頭に大きな亀裂が入り、内出血のあとがすさまじい。およそ10キロ位の重い石で打たれたのだと思う」
ブルチャは「私が彼を殺した。やってしまった。もう逃げられないと思い、ケニア警察に自首した。この事件に対してケニア政府がどんな判決を下そうと私はかまわない」と言っている。エルガレムと政治的立場が異なり、エルガレムがエチオピアに逃げ帰るよう強要したので殺したのだという。
KANEREとのインタビューの中では、ブルチャは2005年にキャンプに到着したと言っているが、エリトリアのコミュニティーのリーダーによると、ブルチャは2007年に到着、UNHCRに登録されなかったそうだ。リーダーによると、ブルチャは登録されていないので、これはUNHCRではなく、ケニア政府が関与すべき問題だという。しかし、ブルチャがどうやってキャンプに入って来たのかという点で、UNHCRの責任が問われる。難民たちの間でも、なぜ彼に避難所や食料が与えられたのか、彼が自殺を図った時、なぜカクマの難民病院で治療を受けられたのか、と疑問の声があがっている。
さまざまな噂や憶測が、カクマⅠのエリトリアやエチオピアのコミュニティーに流れた。たとえば、ブルチャは殺人のエキスパートで、ウガンダ、スーダン、ケニアなどの隣接する村で何人かの難民を殺そうとしていたというような噂だ。匿名希望の難民は「理由はわからないがウガンダから逃げだした後、ケニアのナイロビに来た。ここでは、2007年、アブリーというエチオピアの難民を殺した罪で、6か月間刑務所に入れられていた」と言っている。
また、ブルチャはカクマ難民キャンプに来る前に、ジェターナというエリトリア人のリーダーの頭を殴っている。幸いにもジェナータは一命をとりとめ、ブルチャはしばらくの間、うまく身を隠していた。噂によれば、被害者は2002年か2003年にカナダに移住したという。
近所の人達の証言によれば、ブルチャは何日間にも渡って鉈を研ぎ、エリトリア人を殺すぞと脅していた。カクマ2第2地区の匿名希望の難民は次のように語っている。「私自身はエルガレムの死に責任を感じている。彼は私にも警察署にも、ブルチャの行動を報告していた。その結果、エルガレム(訳者注:ブルチャ?)はカクマⅢで警察官に逮捕され、3日間監房に入れられた」
この殺人者は2006年に自殺を図った。自分で腹部を七回打ち、カクマ難民キャンプ病院に入院した。
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