まー法律って、ある意味
「悪いやつらをやっつける、正義の方程式」
みたいなイメージだったりすると思うんですけれどもね、よく『法律の抜け穴』みたいな言葉も聞きますでしょ。
作られた時に、某かの理由があったり、或いは作られた当時の時代背景みたいなのが絡んでいたり、また改正される時にも、やっぱりその某かの事情を踏襲してたりしますんで、ひょんなところで扱いが分かれたり、取り締まれなかったり、自分が犯罪者扱いになっちゃったりするんですなぁ。
なんか身近なケースっぽい事例があったので、リンク貼ってみますねぇ(・・)
お釣り:店員が間違って多くくれた。黙っていたら罪か
ま~~、悪いとは思ってても、『どこまで悪いのか』って言いますのがね、たまに理不尽な感じになるようです。
特にこの件ですと、『どの時点で気付くか』『何の目的に費消されたか』によって、えらく対応が分かれます。だから、弁護士さんに頼るか否かで大きく結果が違ってくるわけなんですねぇ。
また、こんな例もありました。
利益窃盗 -なぜ「食い逃げは無罪」なのか?(全2ページ)
ここでもやはり、『犯罪性の発生した瞬間』によって扱いが変わっています。
なんで変わるのかって、それももちろん理由あっての事なんですけれども、前知識なしにいきなりそんな事を言われたら、なかなか釈然としないんじゃないんですかね?
そもそも、そんなことやるなよって話なんですけれどもね!!!(;^-^)
何が悪いのか、誰が悪いのか、どう悪いのか、どのくらい悪いのかっていうのを、人間が決めるのは難しいところもありますよね。
価値観なんてそれぞれでしょうし、万人を裁く『法律』と言う物の在り方は、大局的に見て公平性を持たなければなりません。
国によっては、窃盗しても
「金のある所から、ない所へ流れるのは当たり前」
と言うようですし、また違う国ではレストランでうっかりお皿を落として割れても
「この皿は今日、割れる運命だった。だから誰かが悪いわけではない」
なんて言うらしいです。まぁ、こういったのは宗教の影響もあるのでしょうが、価値観の違いなんてそんなもんでしょう。
なので、多くの(自覚なくとも)犯罪者の求める『情状酌量』として、『量刑』が認められ、酌量減軽が行われるわけですが、その前段階としてこうした、膨大な事例に対応できる『法律』という物は細心の注意を払って検討されているようです。
実際に司法の側として裁く方もですね、やはりいろいろと研究をされるもののようでして。
これはかなり昔に伺ったお話なんですけれども、いっぱい本を持ってみえるらしい元最高裁裁判長の方に、『法律の本っていっぱいあるんですね?』と訊いた方がみえたそうなんですよ。
ところが、実は普通の本ばかりだったそうでして、小説ですとか、そういった『普通の人が読む本』をたくさん読むんです、と答えられました。
裁かれる側、或いは被害に遭われた側はどんな価値観を持っているのか、それを裁判で重視するのだ、と。人を裁くと言うのはそういうことだと私は思っている、と仰ったそうでしてね。『裁く側の覚悟』たるや、なかなか大変な物のようでございます。
有名な『大岡裁き』、実は史実ではなかったという説が根強いのですが、様々な題材に使われるなど、我々庶民が代々、痛く感銘を受けますのは、やはりそれを『理想の裁判』『理想の司法』として、我々の中に価値観があるからでしょう。
ですからね?
もし、何かの機会で不本意にも裁かれることがありましたら、主張さえしっかり通っているならば、
「おう、もう煮るなり焼くなり、好きにしてくんな!!」
なんて、スッパリと腹を決めて頂きたいものでございます(^-^;)
←例のアレです!! お気が向かれましたら。
「悪いやつらをやっつける、正義の方程式」
みたいなイメージだったりすると思うんですけれどもね、よく『法律の抜け穴』みたいな言葉も聞きますでしょ。
作られた時に、某かの理由があったり、或いは作られた当時の時代背景みたいなのが絡んでいたり、また改正される時にも、やっぱりその某かの事情を踏襲してたりしますんで、ひょんなところで扱いが分かれたり、取り締まれなかったり、自分が犯罪者扱いになっちゃったりするんですなぁ。
なんか身近なケースっぽい事例があったので、リンク貼ってみますねぇ(・・)
お釣り:店員が間違って多くくれた。黙っていたら罪か
ま~~、悪いとは思ってても、『どこまで悪いのか』って言いますのがね、たまに理不尽な感じになるようです。
特にこの件ですと、『どの時点で気付くか』『何の目的に費消されたか』によって、えらく対応が分かれます。だから、弁護士さんに頼るか否かで大きく結果が違ってくるわけなんですねぇ。
また、こんな例もありました。
利益窃盗 -なぜ「食い逃げは無罪」なのか?(全2ページ)
ここでもやはり、『犯罪性の発生した瞬間』によって扱いが変わっています。
なんで変わるのかって、それももちろん理由あっての事なんですけれども、前知識なしにいきなりそんな事を言われたら、なかなか釈然としないんじゃないんですかね?
そもそも、そんなことやるなよって話なんですけれどもね!!!(;^-^)
何が悪いのか、誰が悪いのか、どう悪いのか、どのくらい悪いのかっていうのを、人間が決めるのは難しいところもありますよね。
価値観なんてそれぞれでしょうし、万人を裁く『法律』と言う物の在り方は、大局的に見て公平性を持たなければなりません。
国によっては、窃盗しても
「金のある所から、ない所へ流れるのは当たり前」
と言うようですし、また違う国ではレストランでうっかりお皿を落として割れても
「この皿は今日、割れる運命だった。だから誰かが悪いわけではない」
なんて言うらしいです。まぁ、こういったのは宗教の影響もあるのでしょうが、価値観の違いなんてそんなもんでしょう。
なので、多くの(自覚なくとも)犯罪者の求める『情状酌量』として、『量刑』が認められ、酌量減軽が行われるわけですが、その前段階としてこうした、膨大な事例に対応できる『法律』という物は細心の注意を払って検討されているようです。
実際に司法の側として裁く方もですね、やはりいろいろと研究をされるもののようでして。
これはかなり昔に伺ったお話なんですけれども、いっぱい本を持ってみえるらしい元最高裁裁判長の方に、『法律の本っていっぱいあるんですね?』と訊いた方がみえたそうなんですよ。
ところが、実は普通の本ばかりだったそうでして、小説ですとか、そういった『普通の人が読む本』をたくさん読むんです、と答えられました。
裁かれる側、或いは被害に遭われた側はどんな価値観を持っているのか、それを裁判で重視するのだ、と。人を裁くと言うのはそういうことだと私は思っている、と仰ったそうでしてね。『裁く側の覚悟』たるや、なかなか大変な物のようでございます。
有名な『大岡裁き』、実は史実ではなかったという説が根強いのですが、様々な題材に使われるなど、我々庶民が代々、痛く感銘を受けますのは、やはりそれを『理想の裁判』『理想の司法』として、我々の中に価値観があるからでしょう。
ですからね?
もし、何かの機会で不本意にも裁かれることがありましたら、主張さえしっかり通っているならば、
「おう、もう煮るなり焼くなり、好きにしてくんな!!」
なんて、スッパリと腹を決めて頂きたいものでございます(^-^;)

