浅草名所七福神の最後を飾るのが、東京随一の古刹 浅草寺です!
浅草名所七福神は、「あさくさなどころしちふくじん」と読むのですね。その最後を飾るのが、都内随一の古刹 浅草寺です。
これまでも何回か、groin groinさんに行く際、歩いていますが、人が多いですね。
浅草寺の縁起は、浅草神社の時に書いたとおりなのですが、待乳山聖天の時にも書きましたが、観音様の示現の日、夜にして辺りに千株ほどの松が生じ、3日を過ぎると天から金の鱗をもつ龍が松林の中にくだったそうです。この瑞祥が、後につけられた山号「金龍山」の由来となっり、また現在、浅草寺寺舞として奉演されている「金龍の舞」も、これに因むとのこと。
左の写真は、お水舎。直立されているのは、高村光雲作の龍神像(沙竭羅龍王像)です。
高村光雲は、著名な詩人、高村光太郎の父で、これまた著名な彫刻家。上野の西郷隆盛像を作製したことでも知られていますね。
沙竭羅龍王は、八大龍王の一柱で、仏法の守護神。大海竜王とも呼ばれます。さすがは金龍山だけありますね。このお水舎の天井には、「墨絵の龍」(東 韶光 画)が描かれています。
宝蔵門の裏側に掲げられている大わらじ。山形県村山市が奉納しているもの。下に吊り下げられているのは、触るためのわらじで、同じご利益があるとか。
さて、その後の浅草寺ですが、大化元年(紀元1305仏暦1189キリスト暦645)(※歴年表示の考え方)、勝海上人という僧が、観音堂を修造した。ある夜、上人の夢に観音さまが現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられた。以来今日まで、ご本尊を厨子(御宮殿)深く秘仏として奉安することになったとのこと。
平安初期の天安元年(紀元1517仏暦1401キリスト暦857)、比叡山第3世天台座主慈覚大師円仁さまが来山されました。これは中興なのかどうなのかですが。
慈覚大師は、山寺の時に触れましたが、関わったお寺は数多くあるんですよね。天安元年ということであれば、仁寿4年(紀元1514仏暦1398キリスト暦854)延暦寺座主となられた3年後ですか。日本人最初の本格的旅行記といわれる入唐求法巡礼行記は、その後、拝読させていただきました。さすがに解説がないと読解は難しいでしょうけれども、今から1000年以上前の話ですものね。
ちなみに、秘仏のご本尊の前に奉安されている御前立は、この時浅草寺の中興開山と仰がれる慈覚大師が謹刻されたと伝わっているそうです。
左の写真は、迷子しるべ石。解説盤の内容を起こしました。
昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。
石碑の正面に「南無大慈悲観音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづめる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。
安政七年(一八六〇)三月、新吉原の松田屋嘉嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが、昭和二十年の空襲で倒壊したため、昭和三十二年に再建された。
慈覚大師の来堂のあと、浅草寺は、霊場として発展します。平安中期の天慶5年(紀元1602仏暦1486キリスト暦942)、浅草寺に参籠した平公雅が、武蔵(現在の東京都と埼玉県のほぼ全域に神奈川県の東部を含めた地域)国守への補任を祈願した。この願いがかない、公雅は報謝の印に大規模な七堂伽藍を建てたとのこと。その繁栄も災禍が襲います。
左の写真は、銅造阿弥陀如来坐像。台東区の有形文化財です。
阿弥陀如来は西方楽浄土にあって、往生した人々に仏法を説く仏です。本像は、銅製、鋳造で、総高二九四・五センチメートル、像高は一八六・〇センチメートル。
元禄六年(紀元2358仏暦2242キリスト暦1693)四月に理性院宗海が本像の造立を発願し、鋳物師今井藤治郎藤原吉次が制作したとのこと。同十五年(紀元2361仏暦2245キリスト暦1701)六月に両脇侍像(観音、勢至)が完成し、阿弥陀三尊像として造立された(両脇侍像は勢至菩薩像の台座を除いて、現存しない)。
願主の宗海は、浅草三間町(現・駒形一丁目、雷門一・二丁目、寿四丁目付近)の僧侶で、本像の造立に際して近隣地で勧募活動を行い、結縁者を募ったとのこと。結縁した人々は、町人が多く、職人や商人など職種はさまざまであり、さらに念仏行者や、念仏講中(念仏をする信徒集団)が関係していることから、宗海の勧進活動には念仏講が協力し、人々は地縁的な繋がりの中で結縁したと考えられるとのこと。江戸時代前期の人々の信仰、宗教活動を知ることができる貴重な資料だそうです。
今井藤治郎藤原吉次は他の作は現存しているものは知られておらず、一般的な江戸鋳物師の作風を伝えるものとしても貴重とのこと。
左の写真は、銅造宝篋印塔。待乳山聖天にもありましたね。これも台東区の有形文化財。
宝篋印塔は「宝篋印陀羅尼経」という経典に基づいて造立された塔で、本塔は江戸時代中期以降に流行した、屋根型の笠をもっ宝篋印塔で、時代性をよく表しているとのこと。まあ、流行りだったということですね。
高さ約八メートル。西村和泉守藤原政時が宝暦十一年(紀元2421仏暦2305キリスト暦1761)に鋳造した。西村和泉守は、代々和泉守を名乗る江戸を代表する鋳物師で、多くの作例を残しており、なかでも本塔は台東区内に現存する鋼造宝篋印塔の中でも最大のもので、近世中期の鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で日も貴重な遺品のひとつであるとのこと。
安政一一年(紀元2515キリスト暦1855)の地震で本塔は被災したが、明治四十年(紀元2567キリスト暦1907)に日露戦争凱旋記念として修復されたもので、区の歴史を知る上でも貴重であるとの由。
古刹には、様々な歴史が埋もれていますね。
浅草寺は、一気に書き上げるつもりでしたが、なかなか書きごたえがありますね。次に続きます。
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