りぞあかぶろぐ2
ココログで2006年から掲載してきたライフログ「りぞあかぶろぐ」の第2弾です。




 

浅草名所七福神の恵比寿神 浅草神社です!

 

 三社祭で有名な浅草神社ですね。

 浅草名所七福神の恵比寿神とのことですけれども、本来は、浅草寺の設立のきっかけとなった3方を祀っています。下記は浅草神社の縁起です。

 推古天皇の御代三十六年(六二八)三月十八日の春麗らかなる朝、漁師の檜前浜成・武成の兄弟が、浅草浦(現隅田川)で漁労に精を出していたところ、その日に限り一匹の魚も獲れず、投網に掛かるのはただ人形の尊像だけでした。しかしそれが観音像とは知らずに、幾度か海中に投げ入れ何度場所を変えても同じ事の繰り返しです。流石に兄弟は不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し槐の木の切株に安置しました。そして当時郷土の文化人であった土師真中知にその日の出来事を語り一見を請うたところ、同氏は「これぞ聖観世音菩薩の仏像にして現世御利益仏たり、自らも帰依の念深き仏体である」と告げられました。

兄弟はその功徳を知りなんとなく信心をもようされ、深く観音を念じ名号を唱え、「吾ら漁師なれば漁労無くしてはその日の生活も困る者故、明日は宜しく大量得さしめ給へ」と厚く祈念して、翌十九日に再び浦々に網を打ったところ、船中は願いの如く溢れんばかりの魚に満ち足りました。

土師氏は間もなく剃髪して沙門(僧侶)となり自宅を新たに寺と構え、先の観音像を奉安し供養護持の傍らに郷民の教化に生涯を捧げられました。

(中略)

 後世となり土師氏の子孫が聖観世音菩薩の夢告を蒙り、「汝等の親は我を海中より薫護せり。故に慈悲を万民に施し今日に及びしが、その感得供養の功績は称すべきなり。即ち観音堂の傍らに神として親達を鎮守し、名付けて三社権現と称し齋祀らば、その子孫・土地共に永劫に繁栄せしむべし。」との託宣があり、前述三氏の末孫が崇祖の余り三人を郷土神として祀る三社権現社が茲に創建されました。

 後世とは定かではないとのことですが、鎌倉初期ではないかと推察しているとのこと。

 御祭神は、檜前浜成命(ひのくまのはまなりのみこと)、土師真中知命(はじのまなかちのみこと)、檜前武成命(ひのくまのたけなりのみこと)です。

 浅草神社の現在の社殿は、慶安2年(紀元2309キリスト暦1649)(※歴年表示の考え方)三代将軍家光公の建立寄進。昭和26年(紀元2611キリスト暦1954)に国の重要文化財に指定されています。

 見出し画像にした鳥居は、明治18年9月建立。

 左は、天水桶ですね。

 名所七福神の恵比寿神像は、御開帳されておらず、見ることはできません。

 三社様と一緒に拝んでくださいということですかね。

 境内には、色々な碑や像があります。

 左の写真は、夫婦狛犬とあります。この狛犬は江戸初期に作られ、形状が珍しく大変貴重なものであり、その寄り添って佇む様相から「良縁」「夫婦和合」「恋愛成就」のご利益があるとされているとのことです。

 和傘で相合い傘にしているのが、かわいらしいですね。

 狛犬は、本来、外部からの厄災を避けるために、入口に向けて、参道に設置するもの。

 現在は新たな狛犬が設置されています。

 ちょっと逆光だったらしく、映りがイマイチでしたが。狛犬に警戒されたかな??

 手水舎は龍の口になっていますね。

 扇塚は、毎年4月8日に古い扇をお焚き上げする行事が行われるそうです。

 物にも供養という考え方をとるのが、古の日本らしいですね。

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