りぞあかぶろぐ2
ココログで2006年から掲載してきたライフログ「りぞあかぶろぐ」の第2弾です。




 平和の森公園を出て、沼袋駅前から西武線の北側に抜けて、氷川神社に行きます。

 ここは中野七福神という形で、七福神全てを勧請しており、七福神全て祀っています。旧野方村総鎮守だったとのこと。

 近年では、鬼滅の刃の水柱、富岡義勇が旧野方村の出身とのことから、水流を描いた御朱印を出したり、東京リベンジャーズとのコラボ御守りを出したり、色々展開されているようです。

 この神社は後村上天皇の正平年間(1346~1370)大宮の氷川神社から分霊いただいたとのこと。

 後の文明9年(キリスト暦1477)、太田道灌と豊島氏との間で、江古田・沼袋原の戦いという合戦が起こります。

 この合戦に先立ち、関東管領 上杉顕定(あきさだ)の重臣 長尾景春(かげはる)が反乱を起こします。景春は挙兵にあたり従兄弟であり関東管領の分家 扇谷上杉家の家宰 太田家の嫡男 道灌に同心を求めますが、道灌は拒否。関東管領に事態の打開のため献策しますが、受け入れられません。

 その後、長尾景春は関東管領と対立する古河公方と組み、関東管領の拠点である五十子の陣を攻め落とします。この挙兵に南武蔵の名族 豊島氏が合力します。

 道灌は江戸城に拠点を持っていましたが、父にいる河越城との間を豊島氏が遮断。

 豊島氏の拠点、石神井城を攻略しようとしますが、来援の軍が到着しないことから、相模国の景春方の掃討にかかります。

 その後、道灌は豊島氏の拠点、練馬城に攻めかかります。豊島氏が反攻するところを、引き返し、江古田・沼袋原にて打ち破ったというもの。

 その際、道灌が本陣を置いたのが、この氷川神社。

 その際、戦勝を祈り、スギを植えたとのことで、道灌杉と呼ばれていましたが、キリスト暦1942に枯死してしまいました。

 現在では、その残骸のみが展示されています。左の写真がその跡です。

 その後、道灌は、石神井城も攻略、豊島氏は没落します。豊島氏の所領は、道灌が有することとなりました。

 また、景春方の最後の拠点、日野城も攻め落とし、ほとんど独力で乱を平定した道灌の声望は絶大なものとなりました。

 しかし、そのことが主君である扇家上杉家の当主 上杉定正の猜疑心を招き、主君により、謀殺されてしまいます。

 このあたりの戦国前期の物語は、戦国後期のものと比べ、今一つ有名ではないですね。太田道灌を大河ドラマにと、越生町が要望していましたが、おもしろいと思うのですが。

 左の写真は、三本願い松。「悪しきことはスギされ。願いが叶うのをマツ」と言われ、松の木に願いをかけると叶うと言われていたとか。

 ちなみに、この神社の御祭神は、須佐之男命、同体とされる牛頭天王による茅の輪のエピソードが思い出されます。

 ちなみに、平成2年には、本殿社殿を中核派と称する左翼に放火され失っています。

 現社殿は、平成3年に再興したもの。

 平成の時代に、そんな輩がうごめいていたとは知りませんでした。ほかにも墨田区の白髭神社、世田谷の神明神社とこの沼袋氷川神社が狙われ、全焼してしまったとのこと。

 境内の中に、いくつかの末社があります。

 次の写真は、天王社。天王とは牛頭天王だそうですので、先ほど書いたように、同体と言われているわけですが。

 

 現在の天王社は、昭和57年に改築されたものだとのこと。

 そして、その次の写真が、稲荷神社。

 昭和38年に野方に鎮座されていた大久保稲荷神社を合祀したものとのこと。

 神楽殿では、正月やお祭りの際には、奉納舞踊やお囃子などが披露されるとのことです。

 天皇陛下御大典奉祝記念事業として、令和元年に改修したとのこと。

 ますます繁栄を迎える沼袋氷川神社ですね。

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