本日も、高知なかまのぶろぐにお越しくださり、本当にありがとうございます。
早速ですが、このブログに度々お越しの方はご存じでしょうけれども(笑)、拙ブログ編集長の私は自由主義者です。
信仰には、不自由感が付きまとっていて、戒律だとか、礼儀であるとかにうるさいのが宗教というイメージが、一般的であろうと思いますし、かつては私も、そういうイメージを抱いておりました。
しかし、そういう世間が抱いているイメージとは裏腹に、幸福の科学という宗教は、「自由」という概念を、強く打ち出している、とても珍しい宗教とも言えますね。
幸福の科学の政治組織、幸福実現党が掲げているのも、「自由の大国日本」です。

幸福の科学信徒である私は、自由には、「神の自由と、悪魔の自由」があると思うのですね。
「好き勝手」とか「わがままだ。」とか「他人の迷惑顧みない」など、一般的な自由には、そういうイメージもあると思いますが、これは「悪魔が考えている自由」だと私は思うのです。
仏教の最終目的は、解脱(げだつ)と涅槃(ねはん)だと言われています。
解脱とは、自由の境地なんですね。
何事にもとらわれない、自由自在の境地が解脱なのです。
意外ですけど、あの戒律ばかりで、不自由極まりないイメージである仏教修行の最終目的のひとつは、「自由」なのですね。
意外って言ったら失礼ですよね。ごめんなさい。
そしてもうひとつは、「涅槃」です。
涅槃とは、「平和の境地」です。
つまり、「自由と平和が一体になった境地」こそが、仏教修行の最終目的であり、目指すべき悟りなわけです。
これは、「真の自由は、平和をもたらすものだ。」ということにもなりますよね。
仏陀の説いた解脱と涅槃=自由と平和から、我々凡夫が学ぶべきは、「平和をもたらすものでなければ、真の自由とは言えない。」ということではないかと推測するのです。
ここに、「悪魔というのは、自由の本質を履き違えた存在なのではないか?」という仮説が成り立つわけです。
好き勝手でわがままで、他人の迷惑顧みない。
まぁ結構ではありますけれども、「その結果、果たして幸福に成りえたか?」という疑問が生ずるわけですね。
どうでしょう?
人様から嫌われ、争いを生み、勝ち残ることでしか、自由を満喫できない生き方が、果たして幸福なのでしょうか?
私は自由には、最低限のルールが存在すると思うのです。
それは、「他の方の、自由を損害しない。」というものではないかと思うのです。
「人間が生まれる前は、天上界の霊存在として、自由自在に生きていた。」と、幸福の科学では教えられています。
霊存在として、「100%の自由の中で生きることができる」ということは、天上界の価値というのは、また天上界という社会というのは、「他の方の自由を損なわない」という、大前提がある世界だと思うのですね。
でなければ、100%の自由自在というのはありえないのです。
違いますでしょうか?
つまり、そこにあるのは、「秩序ある自由社会こそが、天上界だ。」と言えると思うのです。
不自由であれば、天国とは言えないでしょうね。
それは、魂の牢獄でありましょうね。
反対に、「無秩序な自由社会こそが、地獄界である。」ということも、同時に言えると思うのですね。
地獄は、魂の牢獄とも言えると思うのですが、それは、「他の方の自由を侵害しても、自分の欲望を果たしたい。」という、神の子人間が持ってはいけない願いが、自らを魂の牢獄に閉じ込めていると言えると思います。
であるならば、宗教が持つ本質的な願いであるところの、この地上に、天上界にあるユートピアを実現しようとするならば、「秩序ある自由社会」の実現を目指せば良いということになると私は思います。
結局、仏典や聖書やコーランに書いてある、仏陀や神や預言者の根源的願いは、「秩序ある自由社会の実現」なのではないでしょうか?
よく宗教を批判する方で、「〇〇だから、救世主のはずがない。」とかおっしゃる方がいます。
その〇〇が、根源的価値から来ているものならまだしも、個々人の価値や、時代的常識の範疇であるならば、その批判は気をつけなければならないと思います。
「神仏というのは、自由自在の存在」だからです。
そして「神仏は、人間の自由の庇護者」でもあるのですね。
つまりそれは、神仏がご自身の自由性を、思う存分発揮してくださることが、人間にとっては、最大限の幸福でもあるということです。
あまり宗教への批判が、個人の価値であったり、その地域や、その時代性にとらわれたものであるならば、それは悪魔の発想なのかもしれません。
よく語られるワードで、「○○だから、仏陀のはずがない。」とか「○○だから、救世主ではない。」というものがありますけれども、その言葉が意味するものは、「神の自由を制限するもの」だからです。
「仏陀」は行動原理ではありません。「仏陀の教えを説ける方が仏陀」なのです。
神の命を受け、「現実的にこの世を救う方法論を構築できる方」が救世主なのです。
「○○だから、仏陀のはずがない。」とか「○○だから、救世主ではない。」という言葉の裏には、「神には自由はない。」と、言いたいのかも知れませんから、「ご注意を」です。
神の行動を制限して喜ぶのは、さあ誰でしょうか?
それは「悪魔」ですよね。
仏典や聖書やコーランを読めば、仏陀やイエスや預言者やマホメッドを非難した人たちは必ず、「あんなの、○○だから、聖者ではない。」と、その地域や時代性の強い、きわめてこの世的な批判をしています。
ある意味で、神への批判には、いつも普遍性はなく、世界宗教になるような大法で、その後の世に残るものには、「時代や地域を越えた普遍性がある」ということですね。
まとめると、自由と善悪について、私はこう思うのです。
「神様の自由を、拡大する思いや行動が善であり、神様の自由を、制限したり縮小するものが悪である!」と。
本日は経典『ダイナマイト思考』(幸福の科学出版)より、正しき教え(正法)の基準を、わかりやすく説かれた部分の抜粋をご紹介いたします。
(ばく)
大川隆法総裁 講演会 2017「信じる力」抜粋版(大分別府ビーコンプラザ)より
「三宝帰依」ってなぁに? 天使のモーニングコール 1382回(2018.03.24.25)
https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=183
そもそも、正しき法、「正法(しょうほう)」とはいったい何か。
簡単に定義するならば、それは「神より流れ出したる真実の教え」です。あるいは日本的に言うならば、「神仏より降りたる真実の教え」です。
これが正法です。
そして、神仏より降りたる正しき教えであることを証するものとして、「文証(もんしょう)」「理証(りしょう)」「現証(げんしょう)」という「三証」があります。
文証とは、文で書いた証(あかし)、すなわち言葉に表わせる教えがあることです。
理証とは、科学的な因果関係を含んだ法則を説明できることです。宗教の世界において、心の法則を明確に説き終え、そしていかなる原因行為がいかなる結果を招くかを論理的に説明ができることです。
現証とは、霊的な証明を伴うさまざまな霊現象を言います。
真に神仏がこの地上に正しさ教えを述べ伝えんとして、光の使者を送りこんだときには、その重点は違えども、この文証・理証・現証を必ずや伴うとされています。
幸福の科学においても、文証としては、すでに百数十冊の真理の書物を出しました。
理証としては、「幸福になるためには、いかなる心の法則があるのか」を諄々と説明しています。
みなさんが真に幸福になる道は、決して御利益信仰的な他力信仰ではなく、また、霊現象をむやみによろこぶことでもなく、「己れの心をいかに統御するか」によって幸福をつかみとることができることを、明確な法則として説いています。
現証としては、いちばん際立ったものとして、「霊言」というものを数多く使っています。
その理由は、宗教の第一の使命が、あの世の世界の存在を教え、人間の本質が魂であるということを教えることにあるからです。
そのために、すでに地上を去った数十名あるいは百名に達せんとする方がたの霊言を著わすことによって、死んでも人間の魂の個性は残るということ、人間がものを考えているのは頭脳によってではなく心によってであるということを、証明しようとしているのです。
これが霊言集刊行の意味です。そして、これは現証であるとともに、書物という形をとることによって、文証となり、みなさんへの導きの手引き、教えともなっているのです。
その他の現証として、巷の宗教に類して言えば、金粉が降るなどはもちろんよくあることですし、病気が治ることもよくあることです。
このような霊現象は各地の会員にいろいろと起きています。
しかし、本当の現証は、やはり人びとを幸福にするための現象であるべきだと思うがゆえに、高級霊の霊言を中心に据えているのです。
これらが、正法であることを証明するための一つの点検基準です。
『ダイナマイト思考』(大川隆法著 幸福の科学出版)P174~176
映画「心霊喫茶『エクストラ』の秘密ーThe Real Exorcist-」ホームページ https://cafe-extra.jp/
『中国発・新型コロナウィルス感染 霊査』 大川隆法著 幸福の科学出版
あたご劇場ホームページ http://neconote.jp/atago/