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元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

板橋駅から板橋本町駅まで、旧中山道を歩く

2017-12-23 15:55:56 | ウォーキング

実施日;2017-12-21
天気;晴れ
カメラ;Pentax X90
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー6人

徒歩コース(7キロ)とタイム--*トイレ
 ※旧道には時々案内板があり立ち止まるので、タイムはあまり当てになりません。
  板橋駅(8:00)→近藤勇・土方歳三・永倉新八石碑(8:15)→(8:35)東光寺→(8:55)観明寺(9:10)→旧都荘跡→いたばし観光センター*(10:00)→(10:10)遍照寺(10:15)→本陣跡→文殊院→旧板橋(11:00)→(11:15)中華・かさま[昼食](12:05)→縁切り榎→ボローニャこども絵本館*(旧板橋三小)(13:10)→稲荷台遺跡(13:25)→(13:30)稲荷台児童公園(13:45)→環七通り→(14:10)智清寺(14:20)→日曜寺(14:45)→愛染橋→氷川つりぼり公園→(14:55)氷川神社(15:10)→(15:25)
板橋本町駅

●以下3枚の地図は、GPS logger ”m-241”からの軌跡をgoogle 地図に移し、
  ソフト「ペイント」で上書きして作成したものです。


(その1)全体図


(その2)観光センターを中心にした地図


(その3)石神井川の板橋を中心にした地図

近藤・土方・永倉石碑---嘗ての同志・永倉新八の尽力で建てられたもの。彼は近藤らと袂を分かちましたが、生き延びて、新選組隊士たちの供養に余生を送ったようです。永倉新八の碑もあるのは、その功績を偲んで、後の者たちが建てたのでしょう。


鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバーです。 

 

  

 
浮世絵師・渓斎 英泉(けいさい えいせん)が描いた板橋宿です---「いたばし観光センター」にある写真から転写。 

東光寺--宇喜田秀家供養塔と石造の地蔵菩薩座像がある。

 

観明寺--加賀藩下屋敷から移された山門(赤門*)を潜ると、正面に本堂、左手に
          稲荷堂がある。近くに脇本陣があった場所だ。*東大のも加賀藩の赤門。


板橋-芸妓一同と読める(稲荷堂の側面にある)。


出世稲荷堂を飾っている龍の彫刻。伝承--左甚五郎作。

新藤楼(元・遊女屋) ---


下の新藤楼があった場所に建てられたビル


いたばし観光センターにある写真・かつての遊女屋

いたばし観光センター --ここのスタッフにはとても世話になった。特に年配の男性の方、それと女性スタッフには感謝です。上の新藤楼の場所は教えてもらえなければ分からなかった。
 私所有の本(改訂 東京風土記 社会思想社刊 S36-8-31)によると、大正末期でも
板橋宿には12 軒の遊女屋があったとある。 

このセンター内にはいろいろな展示物や写真がある。下は、これから向かう縁切り榎で、焼ける前の榎だそうだ。


火事に遇った榎の元木

※遍照寺の手前、信号仲宿の十字路の左向こうに乗蓮寺という寺があったようだ。
 「改訂 東京風土記」に載っている。良く調べると廃寺になって、赤塚に移った
 らしい。本に載っている乗蓮寺の少し板橋寄りに石上医院を探したが、見つからな
 かった。実は、この医院に高野長英が一時身を隠したと、先の本に出ていたのだ。
 本日の板橋宿探訪で行けなかった場所は、此処だけである。

遍照寺--昔の伝馬場(街道宿に置いた乗継用の馬の発着場)。
今は廃寺だが、馬頭観世音の小さな堂があって、中には遊女や馬方たちが納めた絵馬が沢山あったという。沢山の馬が集まっている場所だから、馬繫ぎ場や水飲み場などもあり、敷地はもっと広かったはずだ。寺には、いずれ、再建の話がある。

  


敷地の北側にある民家? 昭和の建物だ。


旧道にある昔の米屋?

板橋宿本陣跡--

文殊院(大聖寺/延命地蔵尊)---板橋宿本陣の飯田家の菩提寺。
  かつての「投げ込み寺」と考えられる。だが、境内に遊女の墓があるので、千住の浄閑寺同様、ここでは手厚く弔むられたようだ。
本堂内には、本尊・文殊菩薩と番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られているそうだ。以下、閻魔堂に祀られている閻魔大王と奪衣婆(だつえば)。
閻魔大王の左には*懸衣翁(けんえおう)という気味が悪い爺の姿が見られる。
  *懸衣翁の写真も撮ったが、気味悪いのが2つ続くのでカット。
 
 奪衣婆とは、頂いた「文殊院 寺だより」によれば以下の通りである。

  
閻魔大王の左には懸衣翁(けんえおう)    奪衣婆(だつえば)  

『-----奪衣婆は見た目がとても怖いお婆さんです。叱る顔の閻魔さんとは異なり、
不気味な怖さをもったお姿です。
 名前の由来は、人が死んであの世に行ったとき、着ている服を奪うことから「奪衣」といわれます。亡者の着物というのは、この世で生きた過去を表しているのです。死んだ後、過去に執着している亡者から衣を剥ぎ取ります。そして奪衣婆には
パートナーの懸衣翁というお爺さんもいるのです。奪った衣を「はい、爺さん」と
言って木の上に居る懸衣翁に投げ渡すんです。
 そして翁はその衣を木の枝に懸けて、枝のしなり方で亡者の業を計ると言われています。
 お寺に来たときは、ぜひ奪衣婆にお参りして、欲への執着を整える御利益をお受け
ください。』

●私は芥川龍之介の「羅生門」が目に浮かぶ。
『----下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色(ひわだいろ)の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。----』              

旧板橋--由来は以下に詳しく載っている。


往時の「板橋」 ---「いたばし観光センター」にある写真から転写


現在の「板橋」 --車が二台、橋の上で路上駐車しています。
車が邪魔で現代の「板橋」を好みのアングルで写せなかった。

 
現在はコンクリートですが、雰囲気は残している。板橋は日本橋の次の宿です。


江戸時代は、この橋周辺が中心地。橋の上から石神井川を写す。

縁切り榎(えのき)--女は三行半を貰えねば離縁できない時代。鎌倉の東慶寺に行かなくても当所で済まされる、ということで江戸時代には大人気だったようだ。
もっとも、ロケットが月に飛ぶ現代でも、当所へ訪れる人(特に女性)が後を絶たない。沢山懸かっている絵馬を見ると、現実的な言葉や、「早く死んでくれ」などと
夫に叫んでいる強烈なものもある。実名入りで会社の上司を呪っているのもある。

  縁切り榎がある場所は、お寺でも神社でもない。奉納する絵馬の板は何処で入手するのだろうと疑問に思っていたら、地元の人らしい年配の人が隣に立っていた。
 こちらの質問に何でも答えられる。訊いてみると隣のそば屋「長寿庵」の主人だという。道理で詳しいわけだ。中山道を上ってきた旅人が武蔵野の原野の向こうに、目立つ大木を見つけ、目印にしていたようだ。この大木は、昔は道を挟んで長寿庵の向かいにあったそうだ。それを、近年、現在地に移した。大木を移すのは大仕事だ。
その土方作業に従事したのが長寿庵の主人。絵馬の板は、この人から入手するのだという話。

 世の中には不思議なことがよくある。私が夕方帰宅して夕刊を見て驚いた。読売新聞に、縁切り榎と長寿庵の主人のことが載っているではないか。
 北朝鮮問題や大相撲問題ではなく、何の切実性もなく、現代的テーマでもない。
何の脈絡もないのに、私とは縁のある記事が、突然出現する。このような事がよくあり、その都度驚く。宇宙の意志であろうか。
 新聞記事を読んで、その主人は板橋米次さんと知った。縁切り榎の前で我々二人が
話している間も、次々と女性がやってきた。板橋さんによると、都心だけではなく、遠く日本各地から訪れてくるという。

 板橋さんは、この土地の生き字引だ。私が近くの旧板橋第三小学校を話題にしたものだから、そこまで付き合ってくれた。この小学校の跡地に、いたばしボローニャ子ども絵本館、公文書館、いたばし総合 ボランティアセン. ター等が建設されたのだ。彼はそこまで付き合ってくれた。
 世代が近いので、そこでも話が弾んだ。私が「東京風土図」の古本を取り出し、
「ここに書いてあるのは本当でしょうか」と問うと、「読んでみてください」との
返事。そこで、私は建物の中で声を出した。

板橋第三小学校近くに、もとスラム街で有名な岩の坂があった。そしてこの小学校は、もと特殊な学校として、鳩山文相の視察があった。自由労務者、大道芸人、こじきなどの住む、むね割り長屋、トンネル長屋などの不潔な建物が雑然と密集していた。今は戦災で全部焼かれてその面影は一つもない。
 稲荷台小学校(現・加賀小学校*)のある所は、日暮里山の大部分で、もとはキツネの出るような山であった。ここは有名な縄文式土器の出土地で、昭和12年軍工場建設中に発見されたものであった。』

 *本日我々が歩いた所は元加賀藩下屋敷のあった広大な敷地で、帝京高校などの学校群、病院、住宅地など、みな加賀藩の土地に建てられ、古くからの地元人は「加賀さま」と言って感謝している。
 私が読み終えて、「正しいでしょうか?」と問うと、板橋さんは「その通り」の返事だった。

 


いたばし観光センターにあった昔の縁切り榎図

皇女和宮の迂回路--和宮などが江戸に降嫁するさい、中山道を上って来て江戸に近ずくと、縁切り榎の下を通らねばならない。それを嫌って、コの字の逆の形で道を作らせたという。

稲荷台遺跡-- 


昔は稲荷台小学校であったが、現在は加賀小学校の門前で。
此処の近くに児童公園があるが、そこも日暮里山の一部だったはずだ。 

ここは非常に分かりずらい場所で、探すのにかなり遠回りをしてしまった。
児童公園で日向ぼっこの、ゆっくりした休憩をし、その後、環七通りを板橋本町駅まで歩いた。そこから和宮の迂回路を歩いて智清寺へ。

智清寺と日曜寺--


どういう訳か、木下藤吉郎出世稲荷があった。



境内に残る石橋の下は暗渠なのであろうか。昔、中用水(上郷七か村用水)として、使われていたという。

●次に日曜寺に行った。変わった名前の寺だ。旧中山道から外れたこんな所に寺が二つもあるとは何か意味がありそう。和宮一行が休憩に使った場所と推測される。日曜寺境内には紺屋や染め物業者の記念碑が目立つ。
この辺りの地名は愛染だが、藍染から転化したものか?

氷川つりぼり公園と氷川神社--


石神井川の一部で作った水生公園だろう。水の流れは無く釣り人の姿も無かった。

●ここから氷川神社に入れるかと思ったが、新中山道に出て、門の方へ迂回させられ た。境内に富士塚があったので登った。ここ加賀藩の鎮守の森で少し休憩し、その後、疲れた足で、片側3車線の広い道路を三田線・板橋本町駅まで歩いた。駅到着は3時半に近かった。


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