元高校教師のブログ[since2007/06/27]

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カラオケで("学生時代"&"Come on a my house")

2007-10-20 07:49:08 | 音楽

  「家へおいでよ」--江利チエミが流行らせた歌

 何を歌おうかと、分厚い索引本を捲っていたら、「家へおいでよ」が目に留まった。よし!とばかりインプットしたら、早速画面に出てきた。だが、この歌、出だしがよく分からない。まごまごしているうちに、画面はどんどん先へ。結局唄えなかった。子供の頃「家紋女マッハ臼」と耳で受け止めていた。だが、画面に流れる字幕には「女」は出てこない。
 おかしいな、と思い、帰宅して You Tube で調べたら、下のようになっていた。on -a で発音が「女」にはなる。だが、人称代名詞の所有格 my の前に、どうして"a"が入るのか?学校では人称代名詞の前に冠詞を入れてはいけないと教えてきた。これは誤りだろうか?だが、この曲が世に出て以来、アメリカでも日本でも異を唱えたものは一人もいない。誰が歌っても「女」が出てくる。女無しでは、この歌は成立しない。作詞はあのウイリアム・サロイヤンだ。誤りなど、あろうはずがない。

 先ず、この歌の作詞がサロイヤンと知って驚いた。「人間喜劇 The Human Comedy」、「我が名はアラム My Name is Aram」などの代表作は、日本の高校の英語教科書にも載っている。家族愛やヒューマニズムに溢れた良い作品だ。彼には、他のもそういう作品群が目立つ。

 you の前にも、too の前にも"a"が付いている。この "too"は何なのだろう?恥ずかしながら、私は名詞の too は知らない。ご存知の方、教えてください。
 だが、apricot の前が"an"になってないことも考えると、リズムの関係で、あとからバグダサリアンが入れたのだろうか?

"Come On A-My House"(作詞:William Saroyan,作曲:Ross Bagdasarian)

  Come on -a my house  my house come on
     -----
    Come on -a my house  my house
    I'm gonna give you candy
     -----
    I'm gonna give -a you
    apple -a plum and a-apricot -a too eh!
     -----
    I'm gonna give you everything

  これも You Tube からの知識だが、この曲を唄うのはMadonna,Rosemary Clonneyなど、女性歌手ばかりだ。日本でも、江利チエミだけでなく、最近では夏川りみや平原綾香も唄っている。以下は勘ぐりだが---
   「家へおいでよ、お菓子も果物も焼肉も、何でもあるから」と甘い言葉に乗せられて、一軒家に上がりこみ、マドンナのような女性に「みんな、あげちゃう」なんて言われたらいいなと、世の男達に勘違いさせる女の歌なのだろうか、この歌は--。その辺のところは、ケンさんに訊いてみないと分かりません。

 

学生時代 (作詞・作曲:平岡精二、唄:ペギー葉山)

1 つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日  
  夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば  
  懐かしい友の顔が 一人一人うかぶ  
  重いカバンを抱えて 通ったあの道  
  秋の日の図書館の ノートとインクの匂い  
  枯葉の散る窓辺 学生時代

2 讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た  
  何のよそおいもせずに 口数も少なく  
  胸の中に秘めていた 恋への憧れは  
  いつもはかなく破れて 一人書いた日記  
  本棚に目をやれば あの頃読んだ小説  
  過ぎし日よわたしの 学生時代

3 ロウソクの灯(ひ)に輝く 十字架をみつめて  
  白い指を組みながら うつむいていた友  
  その美しい横顔 姉のように慕い  
  いつまでもかわらずにと 願った幸せ  
  テニスコート キャンプファイヤー 懐かしい日々は帰らず  
  すばらしいあの頃 学生時代  
  すばらしいあの頃 学生時代

 この歌を皆の前で唄うのは気がひける。「私の日本の歌百選(歌謡曲以外) 」にも入れてない。母校の校歌を無関係の者たちの前で唄うようなものだからだ。これは「青学の歌」なんです。先ず、平岡精二とペギー葉山の母校はどこですか?
 ---私だったら、もっと違うフレーズを入れたと思う。平岡精二の歌詞は渋谷キャンパスから頂いたイメージばかりで、しかも、あまりにもミッション的で偏っている。文化祭やスポーツの入れ替え戦なども入れたいし、清里の寮などもはずせない。Home Coming Day などは、さすがに無理で、まあ、どの学校にも当てはまるように、語句はもっと一般的・普遍的なものとして料理すべきだ。

歌詞の具体的解説】---赤字の部分

  当時の青学にはカントリーミュージックの寺本圭一や、後に「人間の証明」で作家デビューする森村誠一が在学していた。正門の前の青山通りには都電が走っていて、私は錦糸町(錦糸堀)から九段坂経由で通ったこともある。
 その正門から入って、真っ直ぐ南に並木道が図書館まで延びていた。図書館の左手前にチャペルがあり、その正面から西に向かって、短大のテニスコートの横を通ると西門である。
 正門から延びる並木道の両側に4階建て?の校舎が並び、左側が Eeast 校舎、右側が West 校舎と呼ばれた。Eeast 校舎の東側はグランドで、野球部やラグビー部が練習していた。現在は大学院などの建物などが並び、グランドは消滅したようだ。グランドの東はずれには長屋のような、文化部・運動部の部室が2列に並んでいた。

 さて、歌詞のチャペルだが、前面がツタに覆われていて、秋などは西日を受けて赤く映えていた。このチャペルはいろいろお世話になったが、クリスマスイヴには特別の集会が開かれ、キャンドル・サービスなども独特の雰囲気があった。キャンプファイアーは何の日だったか、記憶にないが、グランドに薪を沢山積んで、星空を見上げながら、みんなで夜遅くまで歌った記憶がある。
 図書館もよく利用した。というのは、West 校舎の南側に大講堂のような建物があり、1時間目(90分授業)と2時間目の間にそこでの礼拝が組まれている。その時間帯は授業がない。つまり、礼拝に出ない者は30分間どこかで暇を潰さなければならないように仕組まれている。私は広いグランドを横切って部室に顔を出したり、図書館でノートの整理や、詩を書いたりしていたものだ。(残念ながら、当時の詩は残っていない)。
 歌詞の中に出てくるテニスコートは短大のもので、大学のはグランドの東の果て、部室長屋の南側にあった。
 なお、「重いカバンを抱えて 通ったあの道」という歌詞があるが、当時の学生の通学スタイルは、そんなものではない。ブックバンドや二つ折りの袋を脇の下に抱えるのが男子学生、女子学生はそんなカバンすら持ち歩きません。嘘だと思ったら、石和温泉に行ったとき、富士野屋夕亭のオカミに訊いてください。

※以下のエッセーも読んでください。
  6/30日のブログ あの頃の渋谷と社会情勢  では、当時の渋谷駅近辺。
  7/7日のブログ  『あの頃の自分のこと』--私の場合 では、West 校舎での授業。

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1 コメント

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昭和30年、1955年 (大星光次)
2007-10-20 20:44:46
青学に入学したのは1955(昭和30)年。振り返って考えれば、画期的な年だった。手元の「日本20世紀舘」
(小学館)をめくって見た。同年、戦後最初の経済計画が策定され、朝鮮戦争特需などにより、神武景気が始まった。翌年の経済白書では「もはや戦後ではない」と高らかに宣言された。そんな時代だった。地下鉄はまだ銀座線だけ、青学の真向かいには都電の青山車庫があり、「水天宮」行きの都電で人形町の寄席・末広亭で落語を楽しんだ。畳敷きで、冬には小さい火鉢が貸し出された。牧歌的だった。ラーメンは50円、コーヒーは60円だったような記憶がする。それから半世紀、月並みな表現だが、昨日のような気がする。
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