「家へおいでよ」--江利チエミが流行らせた歌
何を歌おうかと、分厚い索引本を捲っていたら、「家へおいでよ」が目に留まった。よし!とばかりインプットしたら、早速画面に出てきた。だが、この歌、出だしがよく分からない。まごまごしているうちに、画面はどんどん先へ。結局唄えなかった。子供の頃「家紋女マッハ臼」と耳で受け止めていた。だが、画面に流れる字幕には「女」は出てこない。
おかしいな、と思い、帰宅して You Tube で調べたら、下のようになっていた。on -a で発音が「女」にはなる。だが、人称代名詞の所有格 my の前に、どうして"a"が入るのか?学校では人称代名詞の前に冠詞を入れてはいけないと教えてきた。これは誤りだろうか?だが、この曲が世に出て以来、アメリカでも日本でも異を唱えたものは一人もいない。誰が歌っても「女」が出てくる。女無しでは、この歌は成立しない。作詞はあのウイリアム・サロイヤンだ。誤りなど、あろうはずがない。
先ず、この歌の作詞がサロイヤンと知って驚いた。「人間喜劇 The Human Comedy」、「我が名はアラム My Name is Aram」などの代表作は、日本の高校の英語教科書にも載っている。家族愛やヒューマニズムに溢れた良い作品だ。彼には、他のもそういう作品群が目立つ。
you の前にも、too の前にも"a"が付いている。この "too"は何なのだろう?恥ずかしながら、私は名詞の too は知らない。ご存知の方、教えてください。
だが、apricot の前が"an"になってないことも考えると、リズムの関係で、あとからバグダサリアンが入れたのだろうか?
"Come On A-My House"(作詞:William Saroyan,作曲:Ross Bagdasarian)
Come on -a my house my house come on
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Come on -a my house my house
I'm gonna give you candy
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I'm gonna give -a you
apple -a plum and a-apricot -a too eh!
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I'm gonna give you everything
これも You Tube からの知識だが、この曲を唄うのはMadonna,Rosemary Clonneyなど、女性歌手ばかりだ。日本でも、江利チエミだけでなく、最近では夏川りみや平原綾香も唄っている。以下は勘ぐりだが---
「家へおいでよ、お菓子も果物も焼肉も、何でもあるから」と甘い言葉に乗せられて、一軒家に上がりこみ、マドンナのような女性に「みんな、あげちゃう」なんて言われたらいいなと、世の男達に勘違いさせる女の歌なのだろうか、この歌は--。その辺のところは、ケンさんに訊いてみないと分かりません。
学生時代 (作詞・作曲:平岡精二、唄:ペギー葉山)
1 つたの絡まるチャペルで 祈りを捧げた日
夢多かりしあの頃の 想い出をたどれば
懐かしい友の顔が 一人一人うかぶ
重いカバンを抱えて 通ったあの道
秋の日の図書館の ノートとインクの匂い
枯葉の散る窓辺 学生時代
2 讃美歌を歌いながら 清い死を夢見た
何のよそおいもせずに 口数も少なく
胸の中に秘めていた 恋への憧れは
いつもはかなく破れて 一人書いた日記
本棚に目をやれば あの頃読んだ小説
過ぎし日よわたしの 学生時代
3 ロウソクの灯(ひ)に輝く 十字架をみつめて
白い指を組みながら うつむいていた友
その美しい横顔 姉のように慕い
いつまでもかわらずにと 願った幸せ
テニスコート キャンプファイヤー 懐かしい日々は帰らず
すばらしいあの頃 学生時代
すばらしいあの頃 学生時代
この歌を皆の前で唄うのは気がひける。「私の日本の歌百選(歌謡曲以外) 」にも入れてない。母校の校歌を無関係の者たちの前で唄うようなものだからだ。これは「青学の歌」なんです。先ず、平岡精二とペギー葉山の母校はどこですか?
---私だったら、もっと違うフレーズを入れたと思う。平岡精二の歌詞は渋谷キャンパスから頂いたイメージばかりで、しかも、あまりにもミッション的で偏っている。文化祭やスポーツの入れ替え戦なども入れたいし、清里の寮などもはずせない。Home Coming Day などは、さすがに無理で、まあ、どの学校にも当てはまるように、語句はもっと一般的・普遍的なものとして料理すべきだ。
【歌詞の具体的解説】---赤字の部分
当時の青学にはカントリーミュージックの寺本圭一や、後に「人間の証明」で作家デビューする森村誠一が在学していた。正門の前の青山通りには都電が走っていて、私は錦糸町(錦糸堀)から九段坂経由で通ったこともある。
その正門から入って、真っ直ぐ南に並木道が図書館まで延びていた。図書館の左手前にチャペルがあり、その正面から西に向かって、短大のテニスコートの横を通ると西門である。
正門から延びる並木道の両側に4階建て?の校舎が並び、左側が Eeast 校舎、右側が West 校舎と呼ばれた。Eeast 校舎の東側はグランドで、野球部やラグビー部が練習していた。現在は大学院などの建物などが並び、グランドは消滅したようだ。グランドの東はずれには長屋のような、文化部・運動部の部室が2列に並んでいた。
さて、歌詞のチャペルだが、前面がツタに覆われていて、秋などは西日を受けて赤く映えていた。このチャペルはいろいろお世話になったが、クリスマスイヴには特別の集会が開かれ、キャンドル・サービスなども独特の雰囲気があった。キャンプファイアーは何の日だったか、記憶にないが、グランドに薪を沢山積んで、星空を見上げながら、みんなで夜遅くまで歌った記憶がある。
図書館もよく利用した。というのは、West 校舎の南側に大講堂のような建物があり、1時間目(90分授業)と2時間目の間にそこでの礼拝が組まれている。その時間帯は授業がない。つまり、礼拝に出ない者は30分間どこかで暇を潰さなければならないように仕組まれている。私は広いグランドを横切って部室に顔を出したり、図書館でノートの整理や、詩を書いたりしていたものだ。(残念ながら、当時の詩は残っていない)。
歌詞の中に出てくるテニスコートは短大のもので、大学のはグランドの東の果て、部室長屋の南側にあった。
なお、「重いカバンを抱えて 通ったあの道」という歌詞があるが、当時の学生の通学スタイルは、そんなものではない。ブックバンドや二つ折りの袋を脇の下に抱えるのが男子学生、女子学生はそんなカバンすら持ち歩きません。嘘だと思ったら、石和温泉に行ったとき、富士野屋夕亭のオカミに訊いてください。
※以下のエッセーも読んでください。
6/30日のブログ あの頃の渋谷と社会情勢 では、当時の渋谷駅近辺。
7/7日のブログ 『あの頃の自分のこと』--私の場合 では、West 校舎での授業。
(小学館)をめくって見た。同年、戦後最初の経済計画が策定され、朝鮮戦争特需などにより、神武景気が始まった。翌年の経済白書では「もはや戦後ではない」と高らかに宣言された。そんな時代だった。地下鉄はまだ銀座線だけ、青学の真向かいには都電の青山車庫があり、「水天宮」行きの都電で人形町の寄席・末広亭で落語を楽しんだ。畳敷きで、冬には小さい火鉢が貸し出された。牧歌的だった。ラーメンは50円、コーヒーは60円だったような記憶がする。それから半世紀、月並みな表現だが、昨日のような気がする。