2010年 5/11~5/14、東京の中野サンプラザで「エジンバラ100周年記念世界宣教会議・東京大会」が開かれた。
私がこの大会を記事にしようとしたのは、去る5月4日の記事で述べているように、身内が大和カルバリーチャペルの楽団員で、親娘とも、この世界大会でバイオリンを担当したことが縁だ。
大会記録の映像はすでに公開されているので、 [リンク→エジンバラ100周年記念・世界宣教東京大会] その中から2つ選んで紹介したい。
その前に私の立場を述べておきたい---私は神も仏も信じていない。
これらの信者たちはよく「奇蹟」という言葉を口にする。眼が見えるようになった、歩けるようになった、胸の十字架が銃弾を防いでくれた、杖で地面を叩いたら泉が湧いた、宝くじに当たった---切りが無い。
次に「献金・お布施」である。集会に出ると、必ずこれが待っている。貧しいものは信者になれないのだろうか?寺社や教会の運営にはお金がかかる。霞だけでは食っていけない。だから、理解はできる。だが、先の「奇蹟」との関係で、明らかに矛盾が生じる。ここだけは、神や仏に頼らないのだ。
長崎の教会にキリスト教国・アメリカの原爆が落とされた事実を持ち出すまでもなく、この世には神も仏もないのである。
だが、それらを信じる人間たちが作った「教え」には、耳を傾けるべき多くのものがある。それらは否定できない。学ぶべきものも多い。
宗教とは異質なものに、「偶然」の対極にある「宇宙の意思」を挙げる者がいる。信心の篤い者は、「神や仏の引き合わせ」にするのであろうが、昔次のような体験をした。
とある夕方、JR船橋駅の駅ビル商店街の雑踏を歩いていたとき、一人の女性に呼び止められた。それは茂原にある長生高校の教え子
だった。何年振りであっただろうか。訊くとオーストラリアに住んでいて、久し振りで日本に来たとのこと。彼女の実家は茂原で、私の住まいは鎌ヶ谷だ。その二人が夕暮れの船橋の雑踏の中で出合うなんて、考えられないことだ。偶然という言葉では、とても説明できない。
これを「宇宙の意思」と考える人がいる。一人の人間の生命軌跡と、もう一人の人間の生命軌跡が、時間空間的にグラフ用紙の一点で重なる---これは何なのであろう。こういう「宇宙の意思」なら、神や仏よりも信じられる。
話はそれるが、最近、旅先の鬼怒川で不思議な出会いがあった。旅館での夕食時、ご一緒させていただき、いろいろお話を聞かせてもらった。部屋も隣り合わせ、往復のバスも一緒であったが、後日、その人から本を送ってもらった。岡田和男著『悲劇の猿』(文芸社)である→書籍詳細 : 悲劇の猿 - 文芸社(Google の検索で出ます)
岡田さんは、私が宗教を信じるか否かを、先ず確認した。「私は無神論者です」と答えたので、見ず知らずの私に、この本を送呈する気になったようだ。自分という一個の存在自体を深く考察したい人は、ぜひ、この本を読んでもらいたい。amazon に注文すれば、すぐ入手できる。
さて、前置きが長くなったが、話を本題に戻そう。今回の東京大会のビディオTVは4日間の記録なので、長時間に渡る。その中で、以下の2つを選ばせてもらった。
リンク→●オープニング
この大会のことを聞いたときは、最初は、たいした会合とは思わなかった。だが、この映像のお蔭で、確かにこれは世界大会で、「歴史的大会」だと分かる。世界中からキリスト者が大勢集まっている様子が、よく分かる。
リンク→●セレブレーション1
大和カルバリー・チャペルの聖歌隊と楽団(アンサンブル)を中心にしている。矢張り、教会には賛美歌がよく似合う。
残念ながら、関係技術者が、ピアノやバイオリンなど、各楽器の前に音捕りマイクを置かず、合唱を中心に全体像しか撮影してない。私の兄と姪は、舞台に上がってバイオリンを演奏したのだが、どうも、その点では不満である。なにしろ、身内が「歴史的大会」に参加したのだから。
大川牧師の話に通訳(副牧師)が付いている。これが素晴らしい英語だ。「オープニング」における各国代表の英語は、母国語ではないので、かなり聞き取りにくい。だが、こちらは、聴いていて心地よい。ここの部分の話は、英語リスニングの素晴らしいテキストになる。そういう意味で、大会の基調演説とも解せる牧師の話と通訳は、大いに英語の勉強になるだろう。何度も聴く価値はある。