元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

藤が見頃というので亀戸天神及び周辺の歴史を歩いた--東京の旅⑩

2019-04-29 20:54:23 | ウォーキング

日時;2019-4-28(日)
天気;快晴

[徒歩コース]亀戸駅(10:20)→玄武・羽根亀→横十間川→中江兆民碑・亀戸天神→
 普門院・伊藤左千夫墓→香取神社→北十間川→吾妻の森・吾妻神社→境橋→天祖
 神社→龍眼寺・芭蕉句碑→船橋屋→(14:20)亀戸駅


goo地図にソフトの「ペイント」で上書きして作成しました。

亀戸駅前公園--江東区には四神像のモニュメントがある。四神と言えば、国宝キトラ
 古墳の壁画が有名だ。古代においては4つの方位を現し、それぞれに空想の生き物
 が割り当てられた。此処亀戸のは玄武(羽根の生えた亀)である。我々が訪れた時は
 水を浴びていた。


親亀の上に子亀が、子亀の上に孫亀が---

亀戸天神宮--中江兆民と清水誠の碑は、天神宮境内の西はずれにあった。


横十間川から脇道を入ったので、探すのに苦労した。

参考:中江兆民 - Wikipedia

中江兆民という人は、ジャーナリスト・政治家・実業家・教育家など、いろいろな
分野で活躍した。弟子には幸徳秋水もいたようだ。


清水誠は知らなかったが、マッチを発明した人だ。よく見ると、文面は岸信介とある。

※亀戸天神は藤の見頃・快晴・ゴールデンウィークの日曜日とあって、猛烈な人出
 まるで清流で芋を洗うようだった。屋台も沢山出ていたが、座る場所もなく、皆
 立ったまま歩いて食べていた。

普門寺--亀戸天神から普門寺へ行くには、東側の車道から回り込まねばならない。
 伊藤左千夫の墓がある。千葉県成東出身の左千夫の墓が何故此処にあるのか。
 →

成東を歩く(食虫植物群落・伊藤左千夫・『里の秋』碑・波切不動)

  生家の前に短歌の革命とも言える「牛飼いが歌よむときに 世の中の新しき歌 おおいに興る」歌碑がありました。高校の国語教科書で初めて出会ったときは、まさに衝撃でした。ここに来て更に驚いたのは、左千夫自身が牛飼いだったのですね。知りませんでした。高2の頃、上記の歌に出会った時、最初は(文学と程遠い)百姓や牧童が
歌を読むようになってこそ、「新しき歌 おおいに興る」と思っていた。だが、左千夫自身が「牛飼い」だと知り、彼の意欲・夢がよく分かった。 
 なお、彼の弟子には赤彦、茂吉、憲吉、千樫、文明らがいた。

 左千夫はアララギ派の中心として、東京に出て、錦糸町で牧場経営などもやっている。芥川龍之介も父親は京橋で牛乳製造販売業を営んでいた。
 ということは、隅田川から東側は牧畜業がかなり流行していたのだ。

 

吾妻の森と吾嬬神社--参考:以下は大いに参考になります。特に、広重や伊東深水の絵は貴重です。感謝です。
 昔は現在の北十間川辺りが海で、吾妻の森はこんもりとした丘で、沖を行く漁師たちの目印になっていたとのことだ。弟橘姫の時代は、更に奥まった辺りの水辺に遺体が流れ着いたのだろう。

吾嬬神社(東京都 墨田区) | 美しい神社 再訪したくなる神社~御朱印~

『抑当社御神木楠は昔時日本武命尊東夷征伐の御時、相模の國に御進向上の國に到り給はんと御船に召されたる海中にて暴風しきりに起り来て、御船危ふかしりて、御后橘媛命、海神の心を知りて、御身を海底に沈め給ひしかば忽海上おだやかに成りぬれ共御船を着くべき方も見えざれば尊甚だ愁わせ給ひしに不思儀にも西の方に一つの嶋忽然と現到る御船をば浮洲に着けさせ嶋にあがらせ給ひて、あー吾妻戀しと宣ひしに俄かに東風吹来りて橘媛命の御召物海上に浮び、磯辺にただ寄らせ給ひしかば尊大きに喜ばせ給ひ、橘媛命の御召物を則此浮洲に納め、築山をきづき瑞離を結び御廟となし、此時浮洲吾嬬大権現と崇め給ふ。海上船中の守護神たり尊神ここに食し給ひし楠の御箸を以て末代天下平安ならんには此箸二本ともに栄ふべしと宣ひて御手自ら御廟の東の方にささせ給ひしに、此御箸忽ち根枝を生じし処葉茂り相生の男木女木となれり神代より今に至りて梢えの色変らぬ萬代をこめし事宛然神業なり。其後民家の人々疫にあたり死する者多かりしに時の宮僧此御神木の葉を与えしに病苦を払ひ平癒せしより、諸人挙って貴び敬ひぬ。今こそ此御神木楠の葉を以って護符となして裁服するに如何なる難病にても奇瑞現れぬと云ふ事なし。凡二千有余年の星霜おし移ると云へ共神徳の変らざる事を伝ふべし共猶諸人の助けとならんと略してしるす也』

梅屋敷跡--江戸時代には「臥龍梅」で有名な梅の名所があった場所。

天祖神社--亀戸七福神(福禄寿)。思ったより人がいた。ここに辿り着くのは難しかっ
 た。


境内の左手に民家らしき家屋があり、そこから武者人形が覗いていた。

龍眼寺--萩が有名なので、地元では萩寺と呼ばれていた。また、亀戸七福神(布袋尊)
 でもある。

  
『萩寺の萩おもしろく つゆの身の おくつきどころ こことさだめむ』--落合直文


『濡れてゆく 人もおかしや 雨の萩』--芭蕉

船橋屋--帰りに葛餅で有名な船橋屋の前を通った。だが、道路の反対側の店も長蛇
 の列。疲れていたので、パスした。  


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1 コメント

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Unknown (たかお1)
2019-04-30 08:18:31
天神様の藤の花、TVで放映されて懐かしくなりましたが、この記事ではひとの海の様子。隅田川より東に牧場・・・・・。思い出しました、我らが通学路にもありました、においを右に感じて自転車で学校へ。牛だったのか豚だったの・・・・・、当時は確認に至りませんでしたね。
境内が人の海ならば、船橋屋も満員御礼・・・・・、、の筈。連休後落ち着いてからくず餅を・・・・・・。
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