実施日;2017-04-20
天気;晴れ
同行者;鎌ヶ谷ハイク&ウォークの会、メンバー8名
カメラ;pentax X90
交通;[往] 鎌ヶ谷大仏→松戸→北千住→鐘ヶ淵
[復] つくばEX駅そば--[バスめぐりん*]--都営浅草線浅草駅そば→浅草---
[地下鉄]--浅草橋→JR浅草橋--[総武線]--船橋
*台東区循環バス「 めぐりん」(15分間隔・100円)/バス停28(つくばEX
浅草駅)→バス停32(都営地下鉄浅草駅)
徒歩コースとタイム--徒歩約6キロ(立寄場所では適当ですので正確ではありません)
鐘ヶ淵駅(9:20)→(10:00)梅若公園(榎本武揚像/謡曲隅田川関連説明版])(10:30)→東白髭公園→木母寺(11:15)→(水際遊歩道)→(11:30)白髭橋→石浜神社(在原業平歌碑)(12:15)→今戸神社(沖田総司終焉の地)(13:00)→山谷堀公園→待乳山聖天(13:20)→言問橋西→履物問屋街→花川戸公園(姥ケ池跡/侠客助六関連説明版)→
二天門→浅草神社→浅草寺→弁天山(弁天堂・芭蕉句碑)→浅草寺奥山庭苑(映画弁士塚/喜劇人の碑/瓜生岩子像など)→西参道商店街→花やしき通り→蕎麦屋[食事]→(16:10)浅草公会堂前(芸能人手形)(16:20)→ひさご通り→江戸下町伝統工芸館(16:40)→浅草演芸ホール→国際通り→(つくばEX駅そば)バス停28(17:01)
Mapion 地図1--東武・鐘ヶ淵駅~石浜神社
Mapion 地図2--今戸神社~浅草寺界隈
※注意;浅草駅は4つあります。東武、メトロ銀座線、都営浅草線、つくばエクスプレス。
梅若公園と木母寺--梅若公園は東白髭公園にあるとばかり思ったのが間違いだった。
墨堤通りに出たら、高層アパート群に行く手を遮られた。万里の長城みたいで、川の方に行けない。通路を探すのにだいぶ回り道をさせられた。やっと東白髭公園脇に
出たと思ったら、梅若公園が見つからない。下の写真に「梅若門」の字が見えたので、そこを潜ったが何もない。
木母寺(もくぼじ)らしき尖塔が向こうに見えるが---。あとで分かったこと→昔の木母寺の境内は広大で、その中に大きな道路やアパート群を建て、境内を分断してしまったのだ。
地元の住人に訊ね、再び「万里の長城」の向こう側・墨堤通りに戻って、ようやく
梅若公園に到着した。
門の向こう側にスカイツリーが聳えているが、写真にすると写らない。
梅若公園--ここに梅若塚と説明板や、榎本武揚像があった。
【黒田清隆と榎本武揚】
勝海舟にしても榎本武揚(えのもと たけあき)にしても、幕末における徳川方の中心人物であった。それが、明治政府の要人となったのだから、若いころの私は、要領のいい奴として評価していなかった。ところが、数年前から考えが変わった。二人とも、本人の意思に反して明治政府に取り込まれたことが分かったからだ。
まず、函館戦争だ。五稜郭に籠ったのは榎本率いる旧幕府軍。攻め手の新政府軍総大将は薩摩の黒田清隆。戊辰戦争最後の段階で、榎本は死を覚悟した。彼はオランダ留学時代に入手した、国際海洋法の教典ともいうべき「万国海律全書」を肌身離さず持っていた。この日本に一冊しかない、日本の将来にとって宝の本を戦火で消失させてはならないと考え、人を介して黒田に渡したのだ。
黒田は感激した。榎本は再三にわたる降伏説得にも応じない。自決を覚悟しているのだ。この人は自分のことよりも、日本の未来のことを考えている。こんな人を殺してはいけない。日本の将来に欠かせない人だ。何が何でも説得しなければならない。
抜いた小刀を間一髪部下が素手で止めなければ、自決するところであった。
黒田の熱意が通じたか、やっと両者は対面でき、黒田は「命にかえてもおはんを守り通すと」誓って、降伏させることができた。
アテルイと坂上田村麻呂のように、それからが大変だ。都に連れてかえったが、
田村麻呂将軍の意志は叶えられず、アテルイは殺された。
御前会議でも黒田は訴えたが、なかなか通らず、榎本処刑が大半の意見。あの西郷までも、黒田の訴えを聞き入れなかった。-----長くなるので、次の「無敵の太陽」を
読んでください。
最後に一言。この榎本武揚像設立に動いたのは、あの勝海舟だったのです。
上野の西郷隆盛像建立にも勝が動いています。最近まで知りませんでした。
旧幕府の人々の援助も、相当やったそうだ。うーん、勝海舟って人は、そういう人
だったのか。
※参考→無敵の太陽(黒木頼景)→敵が親友になった / 榎本武揚と黒田清隆の友情
<榎本武揚について>--墨田区報道資料より
榎本武揚(1836~1908)は、戊辰戦争終盤の箱館戦争で明治新政府軍と戦った旧幕臣として著名な人物。武揚は箱館戦争の中心人物として投獄されましたが、維新後は明治政府に出仕し、文部大臣、外務大臣等、政府の要職を歴任した。晩年は向島に構えた別荘で過ごし、馬に乗って歩く姿が見られた。
榎本武揚像建立にあたっては、大隈重信や大倉喜八郎、渋沢栄一、益田孝など政財界を代表する人物等が協力した。原型作者は藤田文蔵と田中親光であり、鋳造者は平塚駒次郎。
梅若塚--ネットに沢山出ています。そちろを参照してください。
【参考】→謡蹟めぐり 隅田川 すみだがわ / 能 『隅田川』 観賞に出かける
昔の木母寺境内(墨田区の資料より)↓
隅田川遊歩道~待乳山帝釈天--
川べりの遊歩道を白髭橋へ向かう
石浜神社--【参考】→荒川区・石浜神社参照。
風化により摩耗が激しく、最後の歌と下の舟の絵以外は読み取れません。
歌の前は、伊勢物語の「武蔵の国と下つ総(ふさ)の国~と言ふを聞きて、」だと推測するが、字数の関係で、そんなにこの石碑には入らないと思うが---
『武蔵の国と下つ総(ふさ)の国との中に、いと大きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、かぎりなく遠くも来にけるかな、と、わびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京に思ふ人なきにしもあらず。さるおりしも、白き鳥の、はし(嘴)とあし(脚)と赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなむ都鳥(みやこどり)」と言ふを聞きて、
名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと』
今戸神社--今戸焼で有名ですが、最近は女性の参拝者が多いようです。この日も沢山
来ていました。
何故かというと→今戸神社 - 婚活パワースポットNAVI:縁結び神社 東京編
この日は、私を含めて計8名。(念のため)沖田総司は新選組の若き隊士でした。
伝統の今戸焼作品群
昔の水路で今は埋めたてられて無い。江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった。---(ウィキペディアより)
待乳山(まつちやま)聖天--小高い山なので、浅草海苔の時代でも陸地のようになっていた。その上に歓喜天聖天さまが祀られていて、大いに賑わっていたようだ。
→450年以上前の江戸地図--浅草は島みたい
なお、「待乳山歓喜天聖天」に関しては、ネットで調べてみてください。
以下3枚は聖天さまの和風庭園で撮影した↓
八重桜の向こうにスカイツリーが見える。
藤の花が咲いていた。
シャクナゲも
花川戸公園~浅草寺~国際通り--
花川戸公園--この辺りの地名は花川戸。侠客・助六や幡随院長兵衛の縄張りであっ
た。【参考】→助六 - Wikipedia
助六は架空の人物らしいが、幡随院長兵衛や水野十郎左衛門は実在の人物とのことです。最近では「ファミリー劇場」で、平幹二朗が「幡随院長兵衛お待ちなせえ」を演じています。
この公園の辺りは、浅茅が原といって人気のない湿地帯で、「姥が池」の伝説があった。→浅茅ヶ原の鬼婆 - Wikipedia
公園を後にして観光バス駐車場の前を行くと、(広目天と持国天がある)二天門だ。それを潜れば浅草寺の賑わいが待っている。先ず浅草神社による。浅草寺は行くが浅草神社に寄る人は少ない。だが、この神社が三社祭の神社で、今年は5/19~21だから、もうすぐだ。
ところで、三社とは何か。答えが以下のようにネットに出ていました。
「三社とは浅草神社の旧名の三社権現と称されていた所から出た名で、浅草寺観音像を浅草浦(宮戸川)から拾い上げた漁師、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)と土地の識者、土師中知(はじのなかとも)の三人を祀る所から世に三社権現と称されていました。」
浅草神社で
弁天山--小高い山になっていて、弁天堂、芭蕉句碑、浅草の梵鐘があります。
「花の雲 鐘は上野か 浅草か」---これは芭蕉が深川の芭蕉庵で詠んだのであろう。弁天山の梵鐘が浅草の鐘です。「くわんをんの いらかを見やりつ 花の雲」
は、この弁天山で芭蕉が詠んだのでしょう。
読めません→「くわんをんの いらかを見やりつ 花の雲」 ↑浅草の梵鐘
「浅草寺奥山庭苑」伝法院庭園と淡島堂の間にある。
日本のナイチンゲールと言われる瓜生岩子像、映画弁士塚、正岡子規句碑、喜劇人の碑など、多くの記念碑がある。
浅草公会堂前の芸能人手形--沢山ありました。以下はほんの一部です。
美空ひばり 森繁久彌
勝 新太郎 ペギー葉山
伝法院前で時計を見た。午後4時過ぎで、空をみたら屋根の上に鼠小僧がいた↑
このあと、江戸下町伝統工芸館まで歩いた。思ったより規模が小さく展示品を観賞するのにあまり時間はかからなかった。だが、この界隈には、伝統技術を受け継いでいる人々が沢山いることを知ったのは良かった。