元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

太田駅の北方にある金山(新田神社と金山城遺跡)に登る

2011-06-21 18:29:26 | ハイキング

※本記事は発表後に一部訂正箇所が出るかもしれません。

実施日:2011-6-19
天気:曇り時々薄日
※単独行
交通費:2,060円

電車:[往] 鎌ヶ谷(5:59)----(6:17)柏(6:24)---(7:03)春日部(7:07)---(8:23)太田
    [復] 太田(14:24)→久喜→春日部→柏→鎌ヶ谷

コースとタイム *トイレ
  太田駅(8:25)→高山神社(8:55)→金龍寺(9:30)→(9:40)*ガイダンス施設→万葉歌碑→*ガイダンス施設(9:55)→(10:15)*西城跡展望台(10:20)→大手口馬場・物見台(10:45)→*金山城跡[休憩]→(11:00)新田神社→金山城跡[昼食](11:35)→{この間車道歩きでロスタイム11:55}→下の鳥居(12:05)→(12:15)標識[御城橋手前300m]→御城橋→林道→A点→()→*親水公園(13:00)→
(13:25)受楽寺(13:30)→(13:50)太田駅

  ※下りは城跡広場から車道を下った。道路脇に森の中に入る山道があると思ったが、それが無く、気づいたら下記地図の標識(紫色)まで来てしまった。御城橋へ300mとあったが、癪なので、そこから登り直した。辿りついたら、鳥居の下であった。なんだ、下りの山道は鳥居から だったのか。その鳥居から時間を
計って先ほどの標識まで下った。その時点で大幅なタイムロス。

 さらに、御城橋から道なりに行くと、山道は上へと登り始めた。山を巻いて山裾を進む予定だったので、気づいた時点で引き返した。何と御城橋を渡って直ぐ左手に下る細い道を見つけた。静かな山中の道なので、どんどん進むと林道のような、やや幅広の道に降りた。左に進むと車道にぶつかるので、右に引き返す。下へ下る細い道を見つけ、進むと幅広の林道に下りた。これが下図の紫色の道。後で分かったのだが、この紫色の林道をどんどん右に進めば親水公園に着くのだ。だが、すぐに下に下る小道を見つけ、
下図で××と記した道を降りた。もう少し下に巻き道があるものと思ったが、これが誤りであった。下図の
A点で里人を見つけ、親水公園への道を尋ねた。そしたら、こちらではない、と言う。その人は親切にも車で私を親水公園まで連れていってくれた。

 ということで、新田神社からの下りは散散な目に遭った。下に掲げた詳細図の緑の線を辿るのが正しい。そうすれば、かなりの時間短縮になる。なお、平和の塔への道を見過ごし、そこへは行かなかった。

 太田駅へ戻ったら、天神山古墳に行こうと思った。何しろ、東日本最大の前方後円墳と聞いていたので。だが、近づいても空からでないと良い写真はとれないであろう。城跡広場から、望遠を効かして撮影したので、それで間に合わせることにした。 

太田の里
 天神山古墳、万葉集、山城、新田義貞、高山彦九郎がキーワードであろう。今回の旅で行けなかったのは、天神山古墳、生品神社、高山彦九郎記念館の三箇所だ。レンタサイクルでもあれば可能なのだが、
残念ながら太田市には無かった。
 生品神社は、「いざ鎌倉」と、一族郎党と共に、義貞が挙兵神社ということだ。だが、境内にあった義貞の銅像が台座から切り取られ盗まれてしまったとのニュース。稲村ガ崎で海中に投じる前に刀を捧げ持った姿の銅像--「金山ハイキングガイド」に写真有り。
 真にもって罰当たり、郷土の敵、人民の敵で、捕らえて市中引き回しか百叩きを実施すべし。まさか、鉄くずのように、業者に売って金儲けを企んだ奴かも。生品神社は、義貞の出発点。行きたかったが、銅像が無いとなると、どうも---という気もした。


下りの詳細図(緑)

 ※参考(検索にかけ、ダウンロードしてください)→「太田シティーガイド」→「金山ハイキングガイド」 

新田義貞の鎌倉攻め---これまで訪れた義貞史跡
① 「~将軍沢の里から~」→笛吹峠(2011-2-8)[ハイキング記事]
② 「鎌倉街道上道~」→分倍河原の決戦(2002-9-18)[ウォーキングで実施済み]
③ 「鎌倉ハイク」→稲村ガ崎公園(2003-4-5)[ウォーキングで実施済み]
④ 「鎌倉紅葉ハイク2010年版」→化粧坂(2010-12-7))[ハイキング記事]
⑤ 「~越前への旅」→新田塚(2009-6-19)[旅行記事]

 ※今回の太田訪問で、義貞が生品神社挙兵から福井での戦死に至るまで、重要な場所は、一応繋がった。故郷生品神社で挙兵し、利根川を渡って深谷方面へ。畠山重忠の里を通過し、笛吹峠を超える頃には武蔵の武士たちを併合し、軍勢は見る見るうちに大軍に膨れ上がった。小手指原や分倍が原の激戦を経て、鎌倉の北条軍へ迫ったが、化粧坂などの防護は堅く、進入できず。よって、稲村ガ崎で刀を竜神に捧げ、潮が引くのを見て干潟を駆け抜け鎌倉に攻め入る。鎌倉幕府打倒の最高殊勲者なのに、功は尊氏に。その後、後醍醐天皇の意を汲み、北陸に転戦。38歳の若さで、ついに福井の新田塚近くで壮烈な戦死。 まさに義貞は悲劇の武将だ。

 


太田駅前にある義貞像。右は弟の脇屋義助か。

 

金山城遺跡---「天空都市」マチュピチュを彷彿させる山上の城郭
 行ってみれば分かるが、丁寧な説明板と共に、見事に復元されている。難攻不落の名城で、幾多の戦乱を生き抜き、昭和9年に国指定史跡となる。


山上にある「月ノ池」


さらに上部にある「日ノ池」


立体的な模型図。月ノ池・日ノ池も見える。一番高い場所・本丸跡に新田神社が建てられた。

コース概要

 先ずは、小山の上にある高山神社を訪れた。京都三条京阪にあって、皇居を望拝する高山彦九郎像は有名だが、彼を祭る神社だ。

その小山の西側の古い道を進むと、下のような石仏に出会った。

新田義貞ゆかりの金龍寺に到着した。


正面奥が供養塔だ

 金龍寺正門前から北に延びる細道は「花の小道」と言ってよい。いろいろな花が植えられて
いて、時々小さな流れが水音を響かせ、ご機嫌な山道だ。あまり快適なのでそのまま進むと、ガイダンス建物に着いてしまった。
 その施設に入って訊ねると、万葉歌碑のある場所を通り過ぎてしまった。已む無く、車道を下り、歌碑まで往復した。その後、ガイダンス建物の裏手の道を登ることになる。

※参考→太田市|万葉集に詠まれた金山

    この石には、万葉かなによる次の二首とその読み方が刻まれている。

爾比多夜麻 禰爾波都可奈那  和爾餘曾利 波之奈流兒良師 安夜爾可奈思母 (巻14 3408)
  
志良登保布 乎爾比多夜麻乃 毛流夜麻能 宇良賀禮勢奈那 登許波爾毛我母(巻14 3436)
    
    にひたやま ねにはつかなな  わによそり はしなるこらし あやにかなしも

     しらとほふ をにひたやまの もるやまの うらがれせなな とこはにもがも

[私の独善的解釈]
 新田山は 皆のところで寝ないで 一人離れて 私に寄り添っている この児は 本当にいとしいよ
    ※新田山は連山の一つではなく、独立峰だから
 昔から 新田山は 緑あふるる山だが 老いて枯れるなよ いつまでも若々しく
    ※自らの願望を山になぞらえて

  ガイダンス施設から西城跡の駐車場までは、一汗かく。トイレや見晴台もあり、ひと休止。そこからは天空遺跡を訪ねることになるが、丁寧な標識があるので、南曲輪の城跡まで迷うことは無い。
 城跡の広場にはトイレや休憩所や展望広場があり、はるか南方には天神山古墳と女体山古墳が見える。天神山は男体山とも呼ばれるそうだが、立派な前方後円墳だそうだ。望遠を効かせてシャッターを切る。

 その直ぐ上にある一番高いところが本丸跡だそうだが、そこに新田神社がある。観光案内のパンフなどには祭神は新田義貞とある。明治8年に建てられたということだが、明治政府の意向なら、祭神は新田義貞であろう。ただ、神社サイドでは、義貞の第二子・義興と言っている。彼も、父親同様、優れたリーダーだったらしい。


左が女体山古墳で、右が天神山古墳。


東日本最大の前方後円墳とのことだ。

さて、下りに関しては、始めのほうに書いた通りで、新田神社の下の鳥居から降りる。 


車道を跨ぐ御城橋。これを向こう側から渡って後方に進む。すぐの所に左に下りる小道がある。これを選ぶのが前に掲載した詳細図の案内だ。渡り終えてから、道なりに進むと尾根へ登る道を行くことになってしまう。どちらでも親水公園に着くが、巻き道のほうが楽であろう。

前に述べたが、地図A点から親水公園までは、地元の人に車で運んでもらった。親水公園からは低山の尾根道を快適に下る。降り立った左手に受楽寺がある。


受楽寺境内で 

※今年5月10日の記事→『鎌ヶ谷文歴(文学と歴史の跡を巡る)の会』発足準備
 を発表したが、近く鎌ヶ谷広報誌(7月1日号)で募集記事を発表させてもらう。
 よって、10日頃には正式発足となるであろう。今回の金山ハイクが会の活動サンプ
 ルとなれば幸いである。 


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