溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

(昨年、ある同人誌に書いた随筆を採録しました)

2015年04月07日 | 日記

 

 随筆「ことばナショナリズム」 (その1)                   

  今の若者は、昔の若者よりはるかに多くの文章を書いているし、そして読んでいる。要するに毎日文章に接しているのである。昼に電車に乗るとすぐわかる。そこらじゅうにスマホの類を開き、読んだり、器用に指を動かしている。電車は沿線に大きな大学があるので余計に感じるのかもしれないが、「今の若者」の姿をみる。近年では、“後期高齢”適用域の私と同じ「昔の若者」世代も寡黙に携帯に取り組んでいる。

 文章を書いたり、読んだりすることはいろんなことを考えなくてはならないから思考を深めることにつながる。そして思慮深い人間を作る。だから学生たちに「日記を書きなさい」「葉書を書くのもいいぞ」と言ったものだ。それは20年くらい前だが、そのころはもうパソコンも相当に普及し、私もその恩恵にあずかった一人だが、今はその当時より数倍便利になって、活字に接する時間も多くなっているように感じる。新聞や書籍の活字ではなく、PC活字なのだが。それでも書くという行為は非常に貴重で、文章に対する感覚は磨かれていると今の“スマホ現象”を肯定的にとらえている。

 最近、テレビが視聴者から番組に対して意見をよく求めている。先日など、NHKの朝の番組で「煮崩れしない肉じゃがの作り方」についてやっていたが、あっという間に数万という人が声を寄せていた。そのごく一部が瞬時に画面にテロップとして流れる。どれも的確な表現である。おそらく加工する暇はないから原文そのままだと思う。このように短い文章は、みんなうまいなと思う。リズムがあるのである。

 文字表現で、このリズムというのは意外に大事なのだが、説明しにくい。それぞれが持ち合わせている文の区切り方が大いに関係しているように思う。このことを教えられたのは、お元気だったころの井上ひさしさんが毎日新聞夕刊で語っていた企画記事「井上ひさし饗談(こうだん)」(聞き手 桐原良光学芸部記者)である。

平成5年9月27日付の回(『七五調のナゾ』)で、こんなふうに語っておられる。

 オーストラリアで日本語を教えていたとき、学生に日本語はどういうふうに聞こえますか、と質問したら、「ゆっくりした日本語はメトロノームの音」「早く話されている日本語は機関銃の音」と。彼らの聴覚は正しかった。日本語ではあらゆる音(正確には音節)、すなわち「母音」と「子音+母音」が、全く等しい間隔で配分されていますので、たしかにメトロノームや機関銃の音のように聞こえるのです。この等時性こそ日本語音韻の特質の一つ。さらにここから「日本語の音は数えやすい」という、もう一つの特徴が出てきます。つまり日本語は一つ一つの音が独立性を保ちながら等間隔に並んでいるということ、これが七音と五音の音数律(リズムといってもよい)による定型を生み出すもとになったのではないでしょうか。その発生から現代に至るまで、日本の詩歌は原則として、この七音と五音の音数律の定型をもとに営まれ、そこから詩的な響きが聞こえてくるという仕掛けになっているのです。 

 そこでこんなデータを紹介されている。

旧制の成城高校の相良守次教授が次のような全く意味のない、「無意味文」を学生たちに朗読させ、一呼吸の間に何音読めるかという実験をした。適当なところで区切ってもらったのです。

  

   「ことくなもないりしのるはがしつ

   きせとのおはかりわたのみおやすまの

   おれてろぎんもなくもかたりそくるに

   ついたかけなるわすがよみしのせりや

   くつゑもたなこのとみもかつわきるも

   といめいのとよのはねにくひとりきた

   なてるみをほるどろつえてまかのひじ

   きはかりわくもちかひたごもえてはか

   れいよはえる」

 

 相良教授は新入生が入ってくるたびにこの実験をやったところ、学生たちの一呼吸間の平均読誦数が十二音だった。「日本人は一呼吸の間に十二個の音を発語するのが常態」という結論になったという。

 

 この実験を、今の若者に対して行ったらどだろうか。私もやってみた。

 作った「無意味文」は次のようなもの。

    「だむかえがいこへなうよいぶそし

   なかとうらだへぶものせいでぼけなた

   つさじじるのはがついなえおだぶこで

   かたぎもこていまはとすきくたもとい

   ぎまあにかおさえもばくすさこならさ

   んえものにぎかとつとれあるれおむは

   たのばてぜなるてくおうよぼいますれ

   ばよいあきしでらどしばよかるおたす

   まりれららけ」

 

 この無意味な文はある日の新聞記事(縦書き)を平仮名にし、横に拾って並べただけ。協力してくれたのは大阪芸術大学文芸学科と神戸学院女子短大文芸学科の学生たちである。大阪芸大は十年間、神戸学院は五年間、同じ二つの「無意味文」をA4に印刷して一人一枚渡して「極めて読みづらい。苦痛でさえある。ごめんな」といいながら、符号を入れてもらった。

 集計は、まず区切られた字(音)数を数え、その字数を束ねて、全体でその束の割合を出してみるのである。三十字やそれ以上という剛の者もいたが、やはり多いのは七字で2割から、多いで年で3割。他では十字、十二字、五字、六字、八字などが多かった。順位をつけると年によって上下するが、七字だけはいつも一番多かった。二番目以下は五字だったり、八字だったり、十字だったりするが、その割合は一〇㌫かそれ以下。足して十二になる数、七と五、そして足して十になる数、六と四、十二字そのもの、十字そのものも傾向として現れているのではないかと感じた。七音を中心にした区切りかたが目立つという点で平成の若者も戦前の旧制高校生と似通っている。

(つづく)