詩人「当時のGHQの動きに非常に気をもんでいたのが、文化人類学者で詩人でもあるルース・ベネディクト女史なのだ。例の著作『菊と刀』の最後の方の章“子供は学ぶ”で、敗戦直後の日本人について、こんな風に書いている。
――日本人は彼らの生活様式のために高い代価を払ってきた。彼らは、アメリカ人が、呼吸する空気と同じように全く当然なこととして頼り切っている単純な自由を、自ら拒否してきた。今や日本人は、敗戦以来デモクラシーを頼りにしているのであるが、われわれは、全く純真に、かつ天真爛漫に、自分の欲するままにふるまうことが、どんなに日本人を有頂天にさせるものであるかということを思い起こさなければならない。この喜びを誰よりもよく表しているのは杉本夫人であって、杉本夫人は、彼女が英語を学ぶために入学した東京のミッションスクールで、なんでも好きなものを植えてよい庭園を貰ったおりの感銘を書き記している。先生は生徒の一人一人に、一片の荒れたままの土地と、なんでも生徒の望むとおりの種とを与えた。
“この何を植えても良い庭園は私に、個人の権利という、今までに経験したことのない、全く新しい感情を味あわせてくれた。・・・そもそも、そのような幸福が人間の心の中に存在しうるということ自体が、私にとっては驚異であった。・・・今までに一度だって仕来りに背いたことのない、家名を汚したことのない、親や、先生や、町の人たちの顰蹙を買ったことのない、この世の中の何物にも害を加えたことのない私が、好き勝手にふるまう自由を与えられたのである”
――ほかの生徒たちはみんな花を植えた。ところが彼女が植えたのは、なんとジャガイモであった。
“この馬鹿げた行為によって私の得た、無鉄砲な自由な感情は、誰にもわからない。自由の精神が私の門戸をノックした”
そしてこの後に、女史は、杉本夫人の庭にある鉢植えにされた菊について、
――毎年品評会に出されるために、小さな目につかない針金の輪をはめこんで正しい位置に保たれるが、この針金の輪を取り除く機会を与えられた時の杉本夫人の興奮は、幸福な、また純粋無雑なものであった。
天皇について女史も非常に気を遣いながら、
―― ―九四五年八月一四日(日本は一五日)に日本の最高至上の声として認められている天皇が、彼らに敗戦を告げた(玉音放送のこと)。彼らは敗戦の事実が意味する一切の事柄を受け容れた。それはアメリカ軍の進駐を意味し、・・・(同時に)彼らの侵略企図の失敗を意味した。そこで彼らは戦争を放棄する憲法の立案に取りかかった。
そして「天皇制の保存は非常に重大な意義があった」とも。ここまで読むと、先の杉本夫人の『菊』は天皇のことではなかったかと思う。すなわち“神格化”という枠を外して自由を得たのだ、と詩人らしい表現・・・。ついでに言うと、最初に軍人の固有名詞の多さの指摘があったが、彼らが帯びる、『刀』についてだ。「身から出た錆」は自分で始末する、自己責任の言葉で、帯びる人間には刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同時に自分の弱点、持続性の欠如、失敗などから来る当然の結果を承認し、受け容れなければならない。自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも遥かに徹底して解釈されている。日本人は、西欧的な意味において<刀を棄てる>{降伏する}ことを申し出た、と綴っている。
そして、GHQの占領政策についてはこんな風だ。
「一定の(占領)政策が、果たして望ましいのか、望ましくないのかということを確信をもって判断するだけの日本文化に関する知識を有する人間は少数しかいないありさまだ」と危惧して「日本が平和国家として立ち直るにあたって利用することのできる日本の真の強みは、ある行動方針について“あれは失敗に終わった”と言い、それから後は、別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している。・・・対日戦勝日の五日後、まだアメリカ軍が一兵も日本に上陸していなかった当時に、東京の有力新聞である毎日新聞は敗戦と敗戦がもたらす政治的変化を論じつつ“しかしながら、それはすべて、日本の究極の救いのために役立った”と言うことができた。この論説は、日本が完全に敗れたということを、片時も忘れてはならない、と強調した。日本を全く武力だけに基づいて築き上げようとした努力が完全に失敗に帰したのであるから、今後、日本人は平和国家としての道を歩まねばならない、と言うのである。・・・日本人の辞書では、ある個人もしくは国家が、他の個人もしくは国家に辱めを与えるのは、誹謗や、嘲笑や、侮辱や、不名誉の徴標を押し付けることによってである。日本人が辱めを受けたと思い込んだときには、復讐が徳になる。・・・アメリカの日本占領が効果を収めるかいなかは、アメリカがこの点において慎重にふるまうかいなかにかかっている」とGHQに対して、はっきり言っている。そして、ソ連とアメリカの軍拡競争に巻き込まれるのを恐れながら、平和な世界の中にその位置を求めるであろうと期待した。
その一方で「もしそうでなければ、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう」と、今日の安全保障関係をも予想したようなところまであるが? ともかくに天皇を国家の首部にし、戦争放棄、封建制度撤廃を原則とした憲法は一九四七年(昭和二二年)に施行された。そして女史は翌年秋、ニューヨークで冠状動脈血栓で急死した。六一歳だった。結局、ずうっとアメリカにいてこれらを書いたのだ」
女将「えらい女ごはんでしたんや・・・」
(つづく)
参考文献=*「近代日本総合年表」(岩波書店1968年11月第1版)
*「菊と刀(日本文化の型)」(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳、講談社学術文庫、2013年第30刷)
*フリー百科事典「ウイキペディア」から「極東国際軍事裁判」「連合国軍最高司令官総司令部」などの項目
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