溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「平均的気にしい論」(その4)

2016年01月03日 | 日記

 “精神の自由”

女将「そないに熱うならんで・・・、冷えたビール、注ぎまひょ。今夜は、もうあんさんたちだけや。思い存分にお話しておくれやす」

山好き「ここ、祇園へ来る前に出町柳のあたりから加茂川―鴨川沿いを歩いてきた。しばらくぶりだが、水がきれいになったね。ええ運動になった。ビールがおいしいよ」

呼びかけ人「終戦の年、十二月の新聞連載『太平洋戦争史』(*1)はGHQ,アメリカ人による歴史認識といって言いのだが、今日につなげて論を進めてほしい。

文明史好き 「幕末に黒船がやって来たころころからアメリカは、中国大陸を非常に意識していた。経済的な理由だろう。そのために日本の協力が欠かせなかった。やんやと言って、開国を迫っている。ペリー提督の艦隊は嘉永六年(1853年)六月に大統領の開国・通商を求める親書を携えて東京湾・浦賀にやってきた。幕府は1年ほど待ってくれと言うが半年後の翌年1月に再来航し、三月に全十二カ条からなる日米和親条約を結ぶ。その第二条で、下田と函館を開港し、この二港で薪、水、食料、石炭など必要な物資の供給を受けることができるとしている。艦隊は、北太平洋の航路を使っていたのだろうが、清国をはじめ東アジアはいかにも遠い。琉球にも寄港していたが、補給能力が格段に高い江戸と函館を要求。特に函館は燃料の石炭を大量に補給したかったのではないか。冷蔵庫もない時代だから、乗組員がビタミンB1不足による脚気やビタミンC不足による壊血病でよく倒れる。新鮮な野菜、肉、それに大量の水が欲しい。それはなんといっても江戸だ。当時から日本のことを良く調べている。今日でも、例えば福島原発の大事故の直後に空母を出すなど艦隊の動きは素早かった。日ごろから日本の核施設を十分に調べ上げているということだ。あの『太平洋戦争史』を読んでいて感じたのだが、昭和に入っての日本の政治、特に大陸侵攻へ向けての動きは正確に把握していたということ。中国大陸についても、日本を通じていろんな研究ができていたのではないかと思う。例の“南京大虐殺”についての記述も、『太平洋戦争史』が書かれた一九四五年秋の時点での蒋介石・国民政府を大いに意識したものになっている。

呼びかけ人「そこの部分を紹介してみようか。まず、“南京における悪逆行為”という見出しをつけて、記述は『十二月七日に南京の郊外陣地に対する日本軍の攻撃が開始され一週間後には上海戦での中国側の頑固な抵抗に対する怒りをここで爆発させて日本軍は恐るべき悪虐行為をやってしまった』と書き始め『近代史上最大の虐殺事件として証人たちの述べるところによれば』ということで、淡々と描いている。

こうだ。『この時、実に二万人からの男女、子供達が殺戮されたことが確認されている。四週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。その中で日本兵はますます凶暴性を発揮し、一般市民に対し殺人、暴行をはじめ、あらゆる苦痛を味わしめたのである。日本軍が南京に入城して数日間というものは首都の情勢は全然わからなかった。と同時に一部残留していた外国人の安否に関しても様子が判明しなかった。日本軍はかかる事実が外部に漏れることを恐れてあらゆるニュースソースに対して厳重なる検閲を行った。しかし、このニュースもついに外部に伝えられ、日本軍の軍紀の混乱、無節操ぶりは遂に明るみにさらけ出された』とし、次に、“罪は将校達にも”との見出しをつけて次のように書く。

『大掠奪ならびに暴虐行為は全市にわたって行われ、保定をはじめ北支で占領された都市や町々と同じように南京の凶悪事件中には明らかに将校たちによって煽動された事件も多く、中には将校自身が街の商店の掠奪を指揮していたのさえ見受けられた。また中国軍の敗残兵狩りをやって、縄でしばりあげ、四,五十人ずつ一束にして死刑を行った事件も将校が指揮していた。婦人達も街頭であろうと屋内であろうと暴行を受けた。暴力にあくまで抵抗した婦人達は銃剣で刺殺された。この災難を蒙った婦人の中には六十歳の老人や十一歳の子供たちまで含まれていた。中国赤十字の衛生班が街路上の死体取り除きをやった時に彼らの持ってきた棺桶は日本兵に奪われ、日本兵はそれで勝利の祝火を燃やした。その上数名の赤十字従業員は無残に斬殺され、その死体は彼等が取り除こうとしていた死体の上に重ねられた。街のある所では南京電力会社の従業員五十四名が惨殺されたが、クリスマスになって日本軍司令部は電燈を点けたいが電力会社の従業員はどこに行ったのかと尋ねてきた。ある午後男達は病院の裏庭に引き連れられさんざん斬殺の練習台に使われた。二人ずつ背中合わせに縛られ、その目の前で教官は刺殺するのにどこを突けば最も効果的であるかを教え込んだ。そして彼らの大部分は縄を解かれる前に斬傷のため死んでしまった。 大虐殺を行う一方日本軍は空から次のようなビラを撒いた。“各自の家庭に帰って来る良民には食糧と衣類を与える。日本は、蒋介石によって踊らされている以外の全中国人の善き隣人であることを希望する”と。その結果としてビラが撒かれ翌日早くも数千の良民が避難先から、爆撃で破壊された彼らの家に帰ってきた。ところが、早くも次の朝は数々の悪逆事件が判明して、折角の空からの甘言も地上軍の凶行によって滅茶滅茶になってしまった。母親は暴行され子供はその傍で泣き叫んでいた。またある家では三,四歳の子供が一間で突き殺され、家族の者は一室に閉じ込められて、焼き殺されていた。南京地区官憲は後になって暴行を受けた婦人の数を少なくとも二千名と推定した。大晦日に中国難民区の役員が日本大使館に呼び出されて「明日はお祝いをするから各自自発的に間に合わせでよいから日本の旗を作って旗行列をやってもらいたい、内地の日本人は日本軍がこんなにも歓迎されているニュース映画を見て喜ぶであろう」と大使館から説明された。惨殺は次第に減少した。三月に入って官製の東京放送局は次のようなニュースを全世界に放送した。“中国人がこんなにたくさん殺されたのは不良中国人達の仕業であり、私有財産の破壊者達はすでに逮捕され、死刑を執行された。彼らの大部分は蒋介石陣営に不満を抱く中国敗残兵たちであった”。死人に口なし。しかし、日本兵は彼等自身が持っている写真で、その恐るべき犯行を十分証明することが出来るはずである。この南京の残虐行為こそ結局中国を徹底抗戦に導く結果になったのである』・・・。以上である。(つづく)

*(1)新聞連載『太平洋戦争史』・・・1945年12月にGHQの提供(英文)、共同通信の高山健弌氏(後に東大教授)が翻訳し、6日から日本のほとんどの新聞に10日間にわたって掲載された。「奉天事件よりミズリー降伏協定調印まで」とのサブタイトルが付き、全体で約5万字。

 


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